父のロマンス

浅井 孝郎*
満州大連市で生まれ育った私が母と二人で両親の故郷宮崎に引き揚げたのは昭和十七年の春であった。前年十二月八日、日本は米・英・仏・蘭の列強相手に宣戦布告して、世界を巻き込む大戦の悲劇が始まった。
はじめ一年余は、日本は破竹の勢いで勝ち進んだ。その中で戦火にほど遠く、あらゆる物資に恵まれていた満州は、王道楽土かとの錯覚さえ持たれていたように思う。
当時、国策会社と持て囃された満鉄に勤務していた父を残し、宮崎に屋敷と少しばかりの田畑が有ったとは言え、引き揚げる事を決意した母の判断の基は、一体何だったのだろうか。後々のソ連軍の侵攻を予測した訳でもあるまいと、今もって不可解である。
父は髭を蓄え、三つ揃いの背広に贅を尽くし、なかなかお洒落だったそうである。趣味としてゴルフ、テニス、乗馬などを楽しみ、余り家計を顧みない人だったと、母が後世まで語っていた。
私には十歳と八歳年長の二人の兄がいた。長兄は大学の研究室でレーダーの研究に励み徴兵を免れていた。父は次兄の学徒出陣を案じ、鉄道技術者として満鉄に招聘した。我が子を思う偏った親心だったのかもしれない。
サイパン島の陥落で、大型機B29による空襲と逼迫した食糧事情が続く東京を離れて、大連に着任した次兄は、此処はまるで天国のようだと母に伝えてきた。ただ遠慮がちに、父の身の回りの世話をしている女性がいるようだとの、気になる一行が有ったらしい。
暫くして分かったが、その女性は母の従妹のT女史、その頃としては珍しい東京目白の女子大卒の才媛であった。どのようにして、そのような事態になったのかは知らない。
終戦の翌年、昭和二十一年秋に父が南宮崎駅に帰り着いたと役場から知らせを受けた。自宅で待つと言う母を置いて、私一人迎えに走った。往時の面影とは程遠い初老の父が笑みを浮かべて待っていた。横に寄り添う一人の婦人がいた。中学三年の私は、器用な表情の使い分けも出来ず、唯々涙を堪えて二人に握手するのみだった。間もなく父の妹に当たる叔母も駆けつけ歓喜の場面となった。
T女史は地元在住の実弟の出迎えを受け、私どもに丁重に挨拶をしてその場を去った。因みに次兄はソ連の拉致に身を隠しながら更に二か月後の帰国であった。
一年後、T女史はわが家にも出入りするようになり、母とも仲の良い従妹としての付き合いが再び始まった。私が知らなくても良い両親の生き方である。それから間もなく、請われて駅前旅館の女将に収まった女史の許に、高校生だった私は下校の途中に何度か立ち寄って、馳走になった思い出が有る。
後年、私が社会人になって福岡勤務の時、次兄が出張の折に立ち寄った事がある。二人で酌み交わしながら、たまたま父の思い出話に及んだ。
「昔、滋夫兄さん(長兄)と話したんだが、父さんを少し放りっぱなしにしてた母さんにも、責任の一端はあったかもねって。でも、これは男の勝手な言い分かな」
兄たちはそんな事を語り合っていたんだと、初めて聞かされた秋の夜長であった。
                     
 
テーマ 知らなかったのは私だけ         '
 
 
 
 
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
 
 
 
 
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