過ぎて知る喜び

浅井 孝郎*
現在、平均的日本人の日常生活のなかで、飢えてひもじさを耐えている人は極めて少ないように思う。
ひもじさは、天災または戦災によって食糧が殆ど枯渇した場合、或いは極度の貧困に陥り、購買力を失ってしまった場合の、何れかによる現象と言えよう。
私はこれまでの人生で、短い期間ではあったが、両方のひもじさを経験した思い出が有り、今でも鮮明な記憶として残っている。
最初の体験は昭和二十年八月十五日以降の混乱期の数年であった。米軍の空襲により、奈良・京都などを除いて、殆どの都市が焦土となり、産業と物流の混乱は極に達した。
群衆は食料を求めて闇市に走り、インフレ対策の預金封鎖のなか物価は高騰し、焼け残った着物や伝来の品をリユックに詰めて農家を訪れ、米や芋、野菜などを分けて貰う人々の情景も数多く見られた。
更に昭和二十年、二十一年の秋に連続して襲来した台風により、各地の米作は壊滅的な打撃を受け、一段の食糧難を増幅させたのである。主食は米穀通帳で限られた量の配布に抑えられ、味噌醤油から煙草、飴玉菓子に至るまで極く少量の配給制となった。
日本人が偉かったと思うのは、このような場合でも、自主的に治安を守り、街では隣組制度のルールに従い、時に上手く闇市を利用して自らを生き抜いたことである。危機に陥った時に耐える我慢強さと、協調の精神は、日本人が世界に誇るべき知恵と教養ではないだろうか。当時、中学生であった私たちも、頑張る大人たちに学んで、祖国復興を夢見て生きてきたつもりである。
海外からは、戦い敗れた兵士たち、全ての財を失った在留邦人たちが引き揚げて来て、故郷と知己を頼って、それぞれに安住の地を求めて戻り住み、狭くなった国土は、一挙に数百万の人口増と、更なる食糧不足に直面する事になった。
しかし日本人は素晴らしかった。衣食住の壊滅と飢えに耐えながら、秩序を守り、助け合って復興に励んできた。当時アメリカの救援物資として、小麦粉・とうもろこし・ピーナッツバターなど膨大な食料品が配布され、各家庭の胃袋を充たしてくれた。実際は自国の余剰物資だったようだが、当時の日本にとっては、まさに干天の慈雨とも言うべき品であった。東西に分断されたドイツの状況を考える時、進駐軍がアメリカ一国だった事は、日本にとって、まだしも幸せだったかも知れない。
戦後の一年が過ぎて、何とか麦飯の弁当が持参できる中学三年の秋となった。その頃、毎日のように。大きな焼肉のおかずを食べている友人がいた。羨ましさを通り越し恥を忍んで一口所望をした事が有る。快く応じてくれた好意に感謝して、思い切りぱくついた。しかし焼肉と信じた惣菜は味噌を平たく丸めて焼いたものだった。七十年近く経っても、冷や汗の出る忘れられない味である。
もう一つ、今も形となって残っている記憶がある。食糧難打開の一助として、農家の繁忙期に手伝いに行き、その見返りに農作物を貰う事を思いつき、友人たちと行動を起こした。春の収穫期の頃であった。初体験の麦刈りで、遅れを挽回すべく焦った私は馴れない鎌を力まかせに引いたとき、左手の指を深く傷つけた。麦の茎はストローで知られるように滑り易いのだ。血まみれの指に布を巻いて辛抱した。医者にも行かず痛みを耐えた薬指は、第一関節が曲がったまま、少しばかり首をかしげたような姿で今も健在である。
後年、経済的事情によるひもじさの体験は昭和三十年就職一年目の事である。粗末な学生寮であったが、奨学金とアルバイト料で、比較的のんびりした日々を送っていた私は、大阪勤務で初任給手取り九千円、部屋代五千円の厳しい社会の波に揺られ、文字通り食うや食わずの船出となった。教養娯楽費ゼロは勿論、よくぞ寒い冬を過ごせたものと感無量である。
幸い二年目の春、東京本社に転勤となり、社有寮に入居となって食住が共に救われた。昭和三十年前後は極め付きの不況の時代で、就職は狭き門の一語であり、希望とかけ離れた職種に進まざるを得なかった者が多かった。 しかし当時の若者は皆、日本の前途に明日を夢見て頑張っていたように思う。離職者も少なく、漸く晩年を迎えた大半の人々は、充実した達成感を味わった事であろう。
老いて、過ぎし日を振り返り、初めて分る喜びと自讃である。     二十五年八月
◎先日NHKの世論調査で七割以上の人が現在の生活に幸せを感じていると答えていた。改めて日本人である事に感謝して、永遠の世界平和を祈りたい。
 
 
 
 
 
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
メールでお知らせしたとき書いた「雨のオランダ坂」(歌:渡辺はま子)、音入れてみます。 ご参考まで。(HP管理者)
 
 
 
 
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