寿命*

浅井 孝郎**
最近、新聞を手にすると、死亡公告欄に視線を向けることが多くなった。他人様の死を身近に感じる年齢になった証かも知れない。
かって在職した社友会事務局からファックスで、会員諸氏の訃報の連絡を受けている。このところ、年間数十件を超えるようになった。退職して十数年が過ぎ、会員も高齢化が進んでいるためかと考えている。
送られて来るコピーには氏名、生年月日、住所、社歴、喪主、葬儀予定等が記載されているが、どうしても年齢の欄に眼が留まる。
故人の年齢が自分より年長であれば、どうぞ安らかにと心の中で手を合わせ、同年輩であれば、明日はわが身かと一抹の不安を感じ、後輩の場合には、早すぎる旅立ちを悼む。
部屋の書棚に、年賀状アルバムが置いてある。四百通が収まり、お年玉抽選を終えてから、新年の分と前年の分を差し替えている。その折、今一度読み返してお互いの無事を祝い、貰えなくなった方については、永い間の感謝をこめて、前年の賀状を喪中挨拶と合わせて収めている。
横の壁に大きな布製の状差しが留めてあり六つの袋に分かれている。その一つには、亡き友の最後の便りとなった封書、葉書を大切に残している。せめて数年間はと独り勝手な思いである。
別の袋には、少しばかり彩を添えたいものと、四季折々に頂いた綺麗な絵手紙を全て残してある。それぞれにどんな想い出が有るのだろうか、我ながら年齢を忘れたおめでたいロマンティストだと思っている。
数年前、古希を祝い友人たちと旅をした。その時に求めた額を、よく目に付くようにと部屋に入った正面に掛けている。表題は「人生は七十歳から」とある。
◎七十歳にてお迎えあるときは
今 留守と言え
◎八十歳にてお迎えあるときは
まだまだ早いと言え
◎九十歳にてお迎えあるときは
そう急がずともよいと言え
◎百 歳にてお迎えあるときは
時機を見てこちらから
ボツボツ行くと言え
 このように生きたいと念じながらも、時として明日に更なる夢を求め、時として明日の不安に心揺れながら、分からないゴールに向かって、模索の道を歩んでいる日々である。
テーマ 「ゆれる」
 
 
 
* 『師走に入りすっかり冷え込んでまいりました。お元気でご活躍の事と存じます。今月のエッセイを送信します。よろしくお願いいたします。(浅井伸子)』
とのメールを頂いていますのでご紹介します。(HP管理者)
** 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
 
 
 
 
 
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HPコメント
山下 永二
毎年読んでもらえる年賀状を心掛けて、うるさい小言を書いている山下です。
一年間には、出来事が実に多い情報化社会のなかで何を取り上げようかといつも迷うのですが、HPで先輩の「寿命」が目にとまり、偶然にも今年取り上げたのが「平均寿命」でした。
命には限りがあるということは十分に認識してはいるものの、残された余生が少なくなりつつある年代に差し掛り、かすかな望みとあの世への不安を持ちながら生きている感情は、 皆同じなんだと実感しました。
(2012/12/14 4:23)