廃墟のなかの青春

浅井 孝郎*
私たち昭和ひと桁生まれの世代は、現代の日本人のなかで、最も波瀾に富んだ時代を、過ごして来たのではないかと思っている。
昭和二十年(一九四五年)夏、日本は米国はじめ諸大国相手の戦いに敗れて終戦を迎えた。京都・奈良を除く殆どの都市が焦土となったが、連日の空爆から解放された安堵感は多くの人々の心に、安らぎを蘇らせた。私は宮崎中学二年の多感な少年期であった。
校舎は焼失して、十キロほど離れた海辺に残っていたバラックの兵舎跡に移り、殆どの生徒は裸足での通学だった。帰りは、市内に向かうトラックに手を挙げて乗せて貰った。全く物のない時代だったが、人々の助け合う気持ちはしっかり残っていた。
一方では、急速なインフレにより貨幣価値が下落するなか、親たちはリックを背負い、農家を訪ねて、とっておきの品や焼け残った衣類を持参しての物々交換で、米・麦・芋などの食料を求めた。僅かな配給では食べていけず、生きるための戦いの日々だった。
終戦の半月後、地方都市の宮崎にもジープに乗った何人かのGIが進駐して来た。遠巻きに見つめる大人たちを後目に、子供たちは全く臆することもなく、何処で覚えたのか
「ハロー チューインガム」
「ギブミー チョコレート」
の片言を連発し、友好の実を挙げていた様子が、今も強く記憶に残っている。
タプロイド版僅か一ページの日刊新聞に、闇米を買わず食さなかった裁判官が、餓死したとの記事が載ったのはその頃だった。
飢えを凌ぐ生き様は、まさに餓鬼道ともいうべき日常で、昭和二十年からの数年間は、食べることが最高の喜びの時代だった。中学高校、大学を通じて、食の嬉しさと有難さを体験した感謝の心は「好き嫌いは一切なし」と言う生涯の習性となっている。
同年十月のある日、私たちの校舎に、通訳を伴った米国の軍政官が来校し教師生徒全員が校庭に集められた。やがて、開口一番
「ただ今から、諸君はすべてに自由である。恋愛も映画もОKだ。青春を楽しみ給え!」
長年の抑圧からの解放に、生徒たちは単純に喜びの歓声を挙げた。先生方の渋い表情が今も思い出される。
それにしても当時の大人たちは実に立派だったと思う。初めて味わう敗戦の過酷な現実と、無残な焦土の中から平和と繁栄を夢見て立ち上がり、家族のために明日を模索しながら頑張っていた。私たちも、大人を見習って随いていったのである。
一方、人々の心に希望を与えた灯りの一つはスポーツだった。昭和二十一年夏には早くも全国中等学校野球大会が再開され、水泳ではフジヤマのトビウオと称された古橋広之進選手たちの活躍とあわせて、ラジオの実況放送に国中が熱気で湧き返った。
昭和二十三年、学制改革で高校二年に編入された私は、憧れの野球部に入った。遠征で腹一杯飯が食えるのも魅力の一つであった。スパイク、バットは自前で、破れたボールは太い木綿糸で縫って使っていた。空きっ腹を忘れて走り回っていた頃が懐かしい。当時の部員の四人が今も存命で、熱い友情の交流が続いている。
昭和二十五年春、高校第二回生として卒業の男子二百五十名は、約半数が大学に進み、卒後は地元宮崎はじめ、東京、関西、福岡などで勤務した。人数もだいぶ減ってきたが、今も、それぞれの地で学歴不問の交歓会が持たれているようだ。
考えてみると、国内では、殆どの人が戦火で全ての財を失い、海外からは、何百万もの在留邦人と軍人が、身一つで引き揚げて来たのだった。同じ条件で、同じスタートラインのヨーイドンだったとも言える。各自の競争意欲に郷土愛がプラスされて、再建スピードが加速したのかも知れない。
私たちが勤務した時代は「終身雇用制度」が通例だった。殆どの者が、就職した企業で四十年近くを一貫して頑張ったと思う。
私たち世代の共通認識は、当時の混乱期のなかで、少しばかり日本の再建に貢献したという自負心と達成感だと思う。導いてもらった先輩方、支えてくれた後輩諸氏、全ての人に感謝の気持ちで一杯である。
しかし戦後六十九年、素晴らしい成長発展を遂げている現在の日本では、老人の青春物語など、単なるロマンチシズムとしか映らないかも知れない。
だが待てよ、「温故知新」の例えもある。世代を越えて語り合い、それぞれ生きて来た場所と、道程を辿ってみるのも面白いだろう。若しかして、未来の進むべき道を、探し求める一助となればと願っている。
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二〇一四年一〇月
 
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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