心の旅路

浅井 孝郎*
私は昭和六年に満州国大連市で生まれた。父は当時の国策会社の、通称「満鉄」に勤務していた。十歳と八歳違いの二人の兄の下で三男坊として育てられた。
子供のしつけについては、どちらかと言えば父は甘く、母は厳しいところがあった。
人を滅多に褒めることのない母だったが、珍しく父の事を話してくれたことがあった。私が小学三年生の頃だったと思うが、今も、はっきりと記憶に残っている。
「何千人という満鉄職員のなかには、総裁の名前はともかく、人事課のAさんと言えば誰もが知ってるほどのお父さんなんだよ」
と嬉しそうに語っていた。
「若い人には、とっても面倒見がいいんだから。それに決して威張らないからねぇ」
子供心にも他人様に対する姿勢の在り方について、身近な具体例で教えられた事が大きな指針になったような気がしている。
まもなく中学に進み、厳しい軍事教練や、上級生の無法な鉄拳制裁に耐えて、ようやく戦後の自由な時代が訪れた。
大学の学生生活のなかで、最も記憶に残っているのはゼミの高田保馬教授の人柄であった。当時、同教授の経済原論は国内外に広く卓説として名を馳せ、学会の大御所的存在であった。和服姿で教壇に立たれていた事も、懐かしく思い出される。
近づきがたいほどの大先生が私たち学生に対しては、常に「○○さん」とさん付け呼称で名前を呼んでおられた。
幼少期に母から良く聞かされた「稔るほどこうべを垂れる稲穂かな」の言葉を思い出すと同時に、決して威張る人間になってはいけない、との母の教えを噛みしめたのだった。
居心地の良さに甘えて五年間在学して漸く社会人の一歩を踏み出した。多くの職場関係に接して、本当に人さまざまだと感じた。威張る人あり、優しい人あり。学生時代と較べて、より一層痛感する事が多かった。
ニ年間の短い独身寮生活であったが、数多くの諸先輩の存在を学んだ。何年か後には、立場が入れ替わって同じ職場でまみえる悲喜劇も、サラリーマン社会に良くある話とか。本当に先の事は分からない。
入社以来、中間管理者になるまでの約十年の間、一貫して指導頂いた上司がいた。その方の明快な言葉が今も脳裏に刻まれている。
「リーダーとしての必須要件は何かと問われれば、人によって色々答えがあるだろうが、一つに絞れと言われれば(広く一般から親しみを持たれる大衆性だ)と自分は思う」
この言葉は、私自身、勤務年数を積むほどに、勤務地がかわるごとに、実感として分かってきて、どれだけ役に立ったか、計り知れないものがあった。
四十歳後半、大阪中之島の店を離れる時、経理担当の女子職員から
「転任されるに際して、お願いがあります」
と申し出が有った。
「何でしょう」
「毎月送られてくる請求書のなかのお店に、一軒で宜しいから連れて行ってください」
「女子の皆さんと、ご一緒するのはちょっと無理かな」
「希望者を抽選で五名に絞ります」
との笑顔の返事だった。
良き時代でもあったが、ネオンの北新地の馴染みの店をハシゴする羽目となった。ママたちは、異口同音に、女の子を思いやる上司は素敵よと、お世辞交じりに褒めてくれた。ご機嫌な酔いに任せて、どんな客がモテるのかなと野暮な事を尋ねてみた。
即座に帰ってきた言葉は
「店にいらしても威張らない殿方ですよ」
やはり肩書や知識をひけらかしては、いけないのだと今更ながらの教えだった。四十年の勤務で、同じ職場だった多くの人たちは、どのように私を見ていただろうと振り返る時、まさに汗顔の至りである。
男は在勤中だけが人生ではない。退職してから如何に親しい友と楽しくやるかが、文字通り第二の人生だろうと考える。
親の歳を超える年齢になって、なお噛みしめている子を思う母の心である。
テーマ  忘れられない言葉
二〇一五年二月
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
コメントはこちらへメールして下さい。その際、文中冒頭に「HPコメント」と記して下さい。 Email
 

<コメント欄>   当欄は上記のメールをコメントとして掲示するものです。