老春のひとり言

浅井 孝郎*
私の社会人としての第一歩は、昭和三十年四月だった。時代的に戦後十年の厳しい世相と大変な就職難の頃で、悪戦苦闘の末、やっと夢が叶った記憶がある。
当時は定年までの終身雇用が、ごく当たり前とされていた。ところが、満三十年を経た昭和六十年三月、子会社へ出向の内示を受けた。五十三歳の春だった。
自分なりに励んだ心算だったので、思わぬ事態に暫らく落ち込んだ日々だった。しかし評価は他人様がされる事と割り切るのも早かった。十数社のなかで、最も人気のある出先だったのも、拠りどころの一つだったかも知れない。それまで目標数字に追われ、周りに多くのライバルを感じていた環境から解放されて、人知れずホッとした安堵と喜びが湧いてきたのも事実だった。
上司のねぎらいと励まし、そして同僚諸氏の冷たさと労わりの交錯した視線を感じながら、新天地に赴いた。とは言っても、場所は大手町一丁目の同じビルの一階だった。
出向先の業務は、全国に点在する親会社のテナントビル、福祉施設、独身寮などの管理であった。眼を全国に転じ、初めての知識を学ぶ日常に、何時しか楽しみを感じるようになった。
先輩の出向者、プロパー社員、下請け管理業者に混じって動く新鮮な日々は、私の表情に明るさが表れてきたらしく、妻がとても喜んでくれた。
特に最も大きな変化は、心にゆとりが出来たことで、多忙にかまけて叶わなかった故郷の山河と小、中、高の旧友諸兄姉との再会を急ごうと思い立ったことだった。
宮崎の特養ホームに移っていた高齢の母を見送った後、早速、地元にマンション一室を借りて、毎月、妻と交互に一週間の帰郷して仲間との交歓復活を計った。妻は母から長年の孝養のプレゼントとして、地元ゴルフ場の会員権を買って貰い、以来今も年に一、二度の帰郷プレーを続けている。これは妻の秘かな楽しみかも知れない。
一方、私は八十歳を過ぎて老化を感じる様になり、十数年ほど続いた年十回の里帰りも三年前に終わった。昨年は脊椎管などの手術で半年入院して、現在、杖を頼りに歩行練習に励んでいる日々、今は妻にこれ以上の負担を掛けたくない気持ちである。
三月半ば、暖かくなった数日前からパソコン室に入って短時間キイを叩いている。横の書棚に、約二百枚の写真を載せた三冊のミニアルバムが並んでいる。宮崎、東京、大阪在住の小、中、高の同期。子会社時代の仲間。地元板橋の友人。いづれも出向してからの、お付き合いである。
いまだに賀状を交わしている十名を数える各地のママさんたちと写った一枚一枚には、老春の日々が先日のように蘇ってくる。亡き友人との対面と思い出を語る喜びもあって、この三冊を手にする時、いつも若さを取り戻してくれている。
私だけの秘めた宝物。そっと会話を交わす至福の時である。
出題テーマ 「密かな楽しみ」
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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浅井さんの”ひとり言”を拝読
桑原峰征
卒業式にはある種の感傷が付き纏う。
最近卒業時に男子学生が学生服の第二ボタンを異性に渡すという風習が盛んらしい。 テレビで林修氏の解説を聞いた。
曰く、諸説あるが古くは戦時に遡る。海軍の予科練生が戦地に赴く際に、大切な人に与えたのが端緒。 何故第二ボタンかと云うと(第二ボタンは無くてもあまり目立たないこともあるが)、 人間にとって一番重要な心臓にもっとも近い場所についているから自分の分身として預けたのだ、と。 第二ボタンの後は、第一、三、四、五の順になるとも。
私にはついぞそんな経験はないが、浅井さんの年代はどうだったのだろう、ふと思った。

ガラス越しののどかな春の日溜まりの中、平和なひと時でした。
(2016/3/19 6:28)
浅井さんの”ひとり言”を拝読
桑原峰征
旧い書類を整理していたら、小学校の卒業式当日の寄せ書き手帳が出てきた。
日付けは1951年3月17日。仰げば尊し・・・卒業式が終わり、恩師級友との別れが来た。 父の教育方針で城南中学に進学予定の私は、別れの記念に小型のサイン帳を持って、 先生方そして級友たちにサイン(別れの言葉)を求めて走り回った。
サイン帳に残された名前と言葉は先生方と級友合わせて34名。 中には、最近も集まりで顔を合わせる友の名前もある。 11歳の皆の活き活きした顔が、昨日のように浮かんでくる。懐かしいな~。
この一年、能天気だった小生も弱気がかなり進んだ。加齢による環境変化に抗しがたい側面だと観念することも。
これからも独り言ちることが多くなるかもしれませんが、乞うご容赦。
(2016/3/18 22:44)