嬉しい食事に乾杯

浅井 孝郎*
昨年(平成二十七年)六月十七日朝五時。トイレに起きようとベッドから離れた私は、両足が立たない事に驚いた。勿論歩けない。 慌てて枕元の携帯電話を手にして、妻に声を掛けた。
実は、その半年前あたりから、腰痛が嵩じて外出時には杖を使っていた。最寄りの医院で日常の注意を受けていたが、突然の衝撃にさすがに慌ててしまった。
私は玄関を挟んだ北向きの二室を、寝室と書斎に充てている。妻は奥のリビング両脇の南向き和室の一つを居間としている。夜十時以降は携帯電話での連絡となる。
八時になるまで我慢して三か月ごとに通院している御茶ノ水の病院に電話した。当日は水曜で幸い担当のF医師の診察日であった。十一時まで来院をとの事で妻は介護タクシーを呼ぶために数か所に電話して、やっとの思いで通じた一台に来て貰った。
F医師は診断するや否や
「即入院。六月二十五日頸椎管狭窄症、七月十五日腰椎管狭窄症それぞれの手術」
との宣告を受けた。空き室がなかったため、取り敢えず泌尿器科の病棟に案内されたが、これが六か月の長期に及ぶ入院生活の始まりとなった。
二回の全身麻酔の手術に耐えて、腰の痛みは治まったが、首と腰の両方にコルセットをつけて、車椅子での二十四時間の日々は、今振り返っても、よくぞ我慢したなと自讃している。
三度の食事は部屋食で、二回の術後三日は看護師の手伝いを受けた。後半の三週間は、妻と長女と長男嫁の三人に毎夕食に、交代で来て貰った。部屋の冷蔵庫に惣菜の差し入れをしてくれて、何とか馴れない味付けに耐える事が出来た。
術後は早々にリハビリが始まったが、通常総合病院は担当トレーナーが少なく、早めにリハビリ専門病院に移ることを勧められた。私は初めてそのような施設の存在を知ったのだが、自分の不明を全く恥ずかしく思った。
手術を主とした治療費は保険のお蔭でまずまずとして、一日一万二千円の個室代には閉口した。狭く暗いイメージの割には高価であった。家賃三十数万円なら都心でもかなりの一室が借りれるのにと思った事である。
妻の調べで開設三年の新しいリハビリ病院が見つかり、空室の連絡を受けて八月上旬に転院した。一人、二人、四人部屋の構成であったが、ここも空きは一人部屋であった。
一階はリハビリ室。二、三、四階が入院室で各階八十名の患者に対し、看護師十八名、トレーナ―十六名、一般用務十二名のかなり充実した構成だったように思えた。
盆暮れ問わず休みなし連日のリハビリは、一日三―四回、一回四十分~六十分。食事は毎食各階の食堂だった。多様な症状の患者に囲まれた環境だっただけに、惣菜の味付けもさることながら、食欲は一向に湧いて来ることが無かった。その為か帰宅時には十三キロの体重減となっていた。
所属職員の接遇、建物の設備、連日のリハビリ、週三回の入浴など充分なものがあったが、毎夜の患者徘徊と食事の二点には、すっかり参ってしまい、一日も早く歩行が出来て帰宅が近まるようにと希う日々だった。
各担当者の熱意で、五か月の予定が一か月早まり、十二月上旬に退院が出来た。三か月前に院内で誕生日を迎えていた私は八十四歳を数えていた。
自宅の玄関、廊下、寝室に手摺りの取りつけ。風呂場とトイレの改築。車椅子と簡易便器の購入など、妻には区役所はじめ病院、業者などとの打ち合わせに大変な苦労を掛けたと感謝している。寒さに向かう時期であったが、入院当時に較べて睡眠時間が二倍三倍になった事に、何よりの幸せを感じている。自宅と妻に手を合わせる日々である。
来訪を受けたソーシャルワーカーの紹介で十二月中旬から、火曜日と土曜日の週二回、デーサービスに通うことになった。往復はバスの世話になって、施設で九時から十五時の間に入浴、昼食、リハビリ、趣味などを楽しむスケジュールである。
従業員の丁寧な応接と、顔見知りも数名増えて、共に親しみを感じるようになり、今ではすっかり楽しみとなっている。
施設の週二回の昼食は、味付けも良くて、わが家の食事と合わせて摂取量も進み五キロほど体重増を見ている。
妻は、缶ビールの晩酌に目を細めて語っている。
「この楽しみの為に、毎日あれこれと献立を考えているのよ」
私たちのささやかな乾杯が、今しばらく続くように祈っている。
テーマ 自由題(入院記録)
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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