老夫婦の静かな朝

浅井 孝郎*
昨年末に六か月の入院生活から解放されて我が家に戻った。妻の手助けを受けながら、なんとか日々頑張って過ごしている。
毎日の就寝が二十二時、起床は七時なのでベッドに九時間ほど入っている計算となる。脇の簡易トイレに、数回起きても、寝付きが良いので、最近では六時間の睡眠が保たれているように思う。
脊椎、腰椎それぞれの狭窄症手術のための入院中は、消灯時間が決められていたが、絶える事のない廊下の人の往来、物音などで、なかなか眠られなかった。深夜ふと目が覚めた時はあれこれ余計な考えが浮かんできて、明け方を迎えてしまうことが多かった。
自宅では毎朝、廊下と部屋の二枚のドアを通り抜けて聞こえてくる朝食の準備の物音に起こされる。枕元の目覚ましに目をやると、針は七時を指している。
「おっ!今日も生きてたか!」
誰ともなしに独り言を言いつつ、パジャマを脱ぐ。無事を祈る合掌を終え、よろける足を踏みしめ、携帯電話を握って手摺り伝いにリビングに入る。
「おはようさん」
「あら おはよう」
言葉を交わして、洗面所に行き、鏡の前の椅子に坐る。足腰が不安定ゆえである。口を漱ぎながら、鏡に向かって舌を出して体調を見るのが昨今の習慣となった。
「胃はまずまずだ。嬉しいな!」
入院中は食欲不振で、十三キロも痩せた身にとって、胃の具合は文字通り死活の道だ。
BS番組の朝ドラを見ながら朝食をとる。永年の習性となって、お互いに話しかける事もなく、画面の映像を楽しんでいる。妻は、他人様には愛想が良くどちらかと言えば饒舌な女性に思われているが、私たち二人の間は言葉少ない日常である。
妻曰く
「他人様には気を遣って一生懸命話しかけているのよ」
そのせいか私の友人諸氏には
「明るい奥さんだね」
と、少しばかり評判が宜しいようである。
わが家は三万坪の緑地を囲む、十棟の高層マンションの一つにある。緑の街として開発されて四十年近く、二十三区でも稀有な存在となっている。四季折々の草花と多くの木々を求めてやって来る多種多様の鳥、昆虫、蟲などの声の素晴らしさと賑やかさは格別である。鶯と目白で春を知り、蛙と蝉で梅雨入りと夏を覚え、鈴虫松虫で秋の訪れを感じる。
人の話す声も、鳥や昆虫の鳴き声も、雨や風の風情も、すべて「音」かも知れないが、それぞれ聴きようでは楽しくもあり、ロマンを感じ、詩になって来るように思える。老いの心境だろうか。
午前中のテレビ番組はニュースと朝ドラ、もうひとつ演歌歌謡曲を聴いて、一時間ほどで終わる。やがて書斎に入りパソコンに向かってメール、エッセイ、ゲームなどで一時間ほど遊ぶ。十時が過ぎると身支度して、妻と一緒に緑地帯の歩道で杖をついての歩行練習に励む。同伴者の声と足音が支えとなって、五百メートルが楽しく歩ける。
散歩が済むとリハビリのために商店棟一階のマッサージ室に行って午前の日課が一段落する。その間、人々の声を始め様々な音が、耳に伝わってくる。聞く楽しさ、聴ける喜びをじっくりと味わっている。
現在の私は、まだ不自由ながらも、再び歩ける事の喜び、尊さを知った。これからは、音が聞こえる事にも、新しい感謝をもって、リズム、メロデー、ハーモニーを口ずさみながら前向きに生きようと思う。
テーマ  「音」
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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「HPコメント」
野中しん
未だ御尊顔に与っておりませんが、「テーマ音」を読ませて頂きました。ご闘病の委 細知るにつけ同病相哀れむと言っては語弊がありますが、小生も2年前、不整脈から 始まり帯状疱疹で約1ヶ月入院、前立腺癌で1週間入院し70kg有った体重が50 kgまで激減し、一時は人生これまでかと覚悟した時期があり、その後も三つの病院 を梯子している状態で、現在は62kgまで回復し何とか小康状態を保ってはいるも のの、貴兄の壮烈な闘病生活を知り、思わずエールを送る気持ちに成った次第です。
そして老夫婦の静かな日常が垣間見えて何ともいえず爽やかな気分に成りました。

今後も歩けることに感謝しつつ頑張って下さい。


  病院で俺が一番元気だと言い聞かせ居る吾ぞ切なし (野中しん)
(2016/6/8 11:51)
そよ風の誘惑
石井ト
野中君のコメントと、梅雨らしからぬ六月の爽やかなそよ風に誘われて、 オリビア・ニュートンジョンの 「そよ風の誘惑」にリンク張ってみました。
(2016/6/8 11:54)
訂正
初めは、ホイットニー・ヒューストンと書きましたが、オリビア・ニュートンジョンの間違いでした。
画面を見てるうちに、ホイットニー・ヒューストンって確か黒人だったよね、と思い出し、気が付いたという次第。 だから訂正しておきました。
最近、考えの解像度が落ちてるみたいです。・・・元々、よかったのに。
(2016/6/8 18:45)
コメント
さがん
年齢的に少し前を歩んでおられる浅井先輩のエッセイは、味わい深いものがある。

翻って、我ら世代は漫画家の倉田真由美さん描く「イラダン」(旦那にイライラ、旦那だってイライラ)から卒業する年齢帯。
加齢に伴う心身の退潮に由来するもので避けるすべもないが、小康を保っているものの、気が付くと自分のイラつきにイライラしている自分。
加齢に伴う双方の変化が常態として日常のベースになるには、も少し時間が要る(時間の経過が一番の良薬)のかも。
お互い労わり合いながら生きましょう。
(2016/6/9 09:38)