八十五歳の友情に乾杯

浅井 孝郎*
去る六月末日、一年ぶりに在京の高校同期の集いに参加した。男女ともども宮崎中学、宮崎高女に昭和十九年の入学だった。 大戦後の学制改革により、二十三年に高校の二学年として統合され、二十五年卒業以来の、実に六十五年を越える、長いお付き合いとなっている。
戦中戦後の波乱の時期を乗り越えて、今日に至る永年の友情は、体験した者だけがわかる宝ものと信じて胸に秘め、生涯の心の支えとなっている。
昨年までは、春の桜の季節に、東郷神社の会館で総会を開き、首都圏はじめ九州や関西からも、数十名が馳せ参じていた。 その会は五十年に及んだが、年と共に参加者が二十名前後となり、惜しまれつつ幕を下ろすことになった。
一方、気の合う者同士のミニ会も毎月開催され約二十年続いてきた。しかし、こちらも高齢と体調などのため、最近では、年四回となった。 メンバーは男女合わせて十五、六名でその比率は半ばしている。
私は昨年六月中旬に突然の体調不良となり入院六か月を終え、歩行練習中の身である。今回は介護タクシーを利用して、家内同伴の参加であった。 会場は足場の良い品川Pホテルの和食処だ。
三か月に一度の例会の出席メンバーの中にK女史がいる。彼女は兵庫県西宮の在住で、毎回一泊がてらの上京参加である。 女性仲間七名に対して、自分の出席を通知がてら、それぞれに強く呼び掛けてくれている。 いつも神戸の名店チョコレートのお土産を一人一人に持参してくれる。大変な出費だろうなと、思いながらも、私も毎回心待ちしている。
三十年前の日航機事故でご主人を亡くした彼女を始め、女性全員が未亡人であることも不思議な巡り合わせである。対する男性陣は三名が独り身である。 私たち世代の夫婦は、殆ど男性が年長だったことが、そのような結果となっているのかもしれない。
男性八名がこれまた不思議なことに、一人一人出身校が異なるから面白い。 九州の片田舎から、良くぞあの時代に東京に来れたものと、今更ながら、感じ入っている。 考えようでは、戦後間もないあの頃だったからこそ、苦労をバネにして上京できたのではと、感謝している。
会うたび話すたびに、各人の知識造詣の深さと、前向きな若さを感じる事が多い。 本当に八十半ばを迎えた爺婆だろうかと、顔を見つめることもしばしばである。
十一月になると、男女二人の油絵と水彩画八十号の力作が上野の東京都美術館の大潮展に入選して展示の案内をもらう。 また別の女性は清和、毎日の書道展に毎回上位入選して銀座の会場地図の葉書が送られて来る。
その他、盆栽に励みながら同好会の会長職を務めている者。人形作りの先生を続けている者。 驚くべきは未だに美容の講師を務めながら化粧品の営業に励む者。マイカー運転して月二回のゴルフを楽しむ者もいる。 また、夫婦二人で小、中学生相手に英数国の塾を経営しているなど趣味を超えた技能を発揮している多士済々の友に会うたびに、 その前向きな姿に感嘆している。
私も病み上がりとは言え、甘えてばかりもおられず、強い刺激に少しずつの反応を示すべく努力している。 まさに持つべきものはと、古来の言葉を味わっている。
現在、自身心掛けていることが一つある。昨年暮れに退院した折、担当医にハガキでの礼状を出したことがあった。 後日、定期診断に訪れた時に、励ましの褒め言葉を頂いた。
「先日はお便りありがとう。実は神経の麻痺から歩行出来なくなった患者さんが、字を書けるようになる例は少ないのです。ぜひ頑張って継続してください」         
私は喜んで続けることを誓った。
家内にハガキを数十枚購入して来て貰い、書き易いようにパソコンで十本の縦線を引いた。 以来事務的なもの以外はすべてメール便から自筆の便りに変えた。友人からの返信は郵便と電話の半々である。どちらもわくわくする楽しい交友である。
嬉しいことに、ふる里宮崎にも賀状を交わす小・中・高の同期諸兄姉四十名ほどが頑張っている。 昔に較べると、老けた姿はやむを得ないが、お互いの心には、共に遊び、共に語り合った青春の面影が深く刻まれている。
残された余生は、神からの贈りものとして、受け止め、友人たちと心を通じ合って生きていきたい。
古き良き友人に乾杯!
テーマ 自由題
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
コメントはこちらへメールして下さい。その際、文中冒頭に「HPコメント」と記して下さい。 Email
 

<コメント欄>   当欄は上記のメールをコメントとして掲示するものです。