年に一度のご挨拶

浅井 孝郎*
それまで二十通ほどの賀状で新春の挨拶を済ませていた私が、枚数を増やすようになったのは、昭和四十二年の新年からである。
実は前年の春、勤務先の異動で、京都市内にある支店の担当となった。百三十名ほどの小さい組織であったが、当時三十四歳の身にとって、若さに任せての、体当たりの日々が続いた。
初めて迎える新年、所属の皆さんと、より一層の意思の疎通をと思いついたのが年賀状だった。この一年間の、頑張りに対しての感謝、新しい年のお願い、ご家族への協力お礼などを、自筆で丁寧に記した。
一枚一枚個別の賀状である事を受け止めて貰うために、内容、目標など個々人すべて、異なる文面で表現した。表の宛書だけは専門の書士に依頼して筆書きとした。パソコンのない頃の懐かしい思い出である。
職制、職位からくるいささかビジネスライクの賀状であったが、皆さん好意的に受けて貰えたのではと理解していた。 
以後、大阪万国博当時の茨木支店に移り、北九州支店、堺支店、中之島支店と延べ十五年の支店生活を過ごした。後半は店の規模も大きくなり三百五十名を数えたが、個々人別の賀状への取組みは、年一回の宿題と思って頑張った。
五十三歳で出向した私は、人生の転換期に目覚めた。多忙にかまけて、なおざりとなっていた郷里宮崎の小・中・高校の同期諸氏との旧交復活である。温かく受け入れてくれた諸兄姉との再会を求めて、勤務の合間に帰郷を楽しんだ。
出向を終えた六十四歳に宮崎にマンション一室を求め、より回数を増やして、夫婦思い思いにふるさとへの旅を十年以上続けた。
職場から離れても、人の縁は簡単に切れるものではなく、退職して、二十一年を過ぎた八十五歳の今も、社友の方々からの賀状は、百二十通を数える。ただただ有難いと感謝している。
二十年ほど前に、年賀状アルバムを購入した。一ページ四枚、裏表で八枚の葉書が収まり、合計四百通が収まる。今年の賀状と昨年の分を、別々に二冊に分けて都合二年間、大切に保存している。今年と一昨年の分を差し替えるのはお年玉抽選の後である。
賀状アルバムには次のように収めてある。親族、学友、一般、社友の四区分である。そして、昨年の概数は順に、二十通、五十通、六十通、百二十通となっている。
年を追うごとに、枚数減となっているのはやむを得ないが、悲しい喪中挨拶が増えているのも事実である。先ずは心からのご冥福を祈っている。  
メール、パソコンのご時世とは言え、私にとっては、年賀状こそ、新しい年を迎えるに際しての、大切な行事であり、人生の上での大きな句読点である。
賀状のもう一つの楽しみに、お年玉抽選が有る。特に、切手シートは、年始の軽い福占いの気持ちで番号の発表を心待ちしている。下二桁番号・二通りの当選は、確率百分の二で比較的低い数字であるが、それだけに面白さが有るのかも知れない。
この五年間は、五シートから八シートの当選を喜んでいる。第一回から現在までの切手シートを、全て保管しているが、これは私の細やかな宝ものである。
近年、高齢を理由に、次年より賀状挨拶を控える旨の文字を見掛けることがある。人それぞれの生き方、考え方が有って宜しいかと思う。ただ、私にとっては、一年の進発であり年頭の挨拶として、出来るだけ続けていきたい。
テーマ 「手紙」
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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