生涯の友として

浅井 孝郎*
八十余年の人生で、過去二回大病を患った折に、快復を支えて貰い、現在も、お世話になっている食べ物がある。
昭和十八年二月、私は小学五年の三学期に風邪がもとで湿性肋膜炎となり、二か月ほどの入院と自宅療養の時期があった。
前年の三月に世界大戦の戦火拡大を案じ、満鉄勤務の父を置いて、大連市から宮崎市の小学校に引き揚げてきた翌年だった。
母がすぐに寝室の押し入れの布団の中に、藁に包んだ茹で大豆をいっぱい入れて、納豆造りにとりかかった。私は、驚いたり、感動したり、初めて見る光景だった。
近くの養鶏場の卵と合わせての、納豆かけご飯は七月まで毎朝続いた。八月一か月は、母と二人で、青島海岸の旅館で明るい陽射しいっぱいの生活を送ることが出来た。その折も、宿にお願いして、毎朝、納豆を用意して貰った。お蔭ですっかり健康になって六年生の二学期を迎えることができた。
穏やかな時代は長く続かず、中学進学してまもなく戦火たけなわとなり、二年生の夏に悲惨な終戦を迎えた。食うや食わずの日々であったが、日本人は、戦後の苦難の時期を、じっと耐えた。
その頃、殆どの生徒が梅干しだけの麦飯弁当なのに、ひとりだけ、毎食、焼肉をおかずに持参してくる者がいた。毎日、横目で見ていた私は、遂に辛抱たまらず言葉を発した。
「ひと口で良いけん、俺に食わせんね」
「ああ 良かよ」
快諾を貰ってがぶりと噛みついたら、何とそれは納豆を味噌で丸めて焼いた品だった。これこれとばかり、我が家でも弁当の主役として取り入れて貰った。七十年も前、不自由な頃の懐かしい思い出である。
昭和二十五年、私は大学に進学できたが、日頃の食糧事情と不摂生もあって、その年の夏休み前に、肺結核症の診断を受けた。前途に絶望的な気持ちで、両親のもとに帰った。戦後、宮崎に引き揚げて来た父は、野菜作りと養鶏を糧とし、母はスーパーに雑貨の店を出して家計を支えていた。
療養に私の服用したのは特効薬「ストレプトマイシン」の出る前の「パス」「ヒドラジッド」の二種類であった。田舎の澄んだ空気と温暖な陽射しのなか、自宅療養の規則正しい生活を送った。
両親の心遣いで、朝昼晩の三食に、納豆、とれたて鰯、卵の三品を、生野菜と一緒に半年続けた。医師も驚くほど速く元気になり、翌春、無事に復学出来た。納豆に助けられたといっても、過言でないと思う。
家庭を持ってからの生活に、納豆は健康の面からも、経済的にも大きな役割を果たしていた。しかし、多忙にかまけての不規則な日常に加えて、八年間の単身生活などで、あれだけお世話になった納豆とは、いささか距離のあいた時期がつづいた。
八十歳を過ぎて、足腰に負担を感じるようになり、外出時に、杖が頼りとなった矢先の昨年六月、突然足が立たず歩けなくなった。
緊急入院して頸椎、腰椎の手術と、リハビリのため、六か月の車椅子での病院生活を過ごした。年末に自宅に戻り、歩行練習に励む傍ら、週二階のデーサービスに通っている。
昨年暮れから、妻のプランで朝食の献立は下記のとおり定型化されている。
「納豆。卵黄。青汁。LG21ヨーグルト。牛乳。パン一切れ。チーズ。果物」
何と言っても、主役に納豆が、久方ぶりの登場である。名前も嬉しい「おかめ」さんが笑顔で迎えてくれて、早や一年となる。
この年齢になって再会の喜びに、今度こそ終世をと嬉しい誓いを立てている。
平成二十八年十二月
テーマ  食べ物
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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