或る日のデーサービス

浅井 孝郎*
頸椎、腰椎の手術とその後のリハビリで、約六か月の入院生活から解放され、一昨年の暮れに自宅に戻った。
まもなくして来宅された介護福祉士の勧めを受けて、火曜と土曜の週二回のデーサービスに、通い始めて一年が過ぎた。施設の介護ミニバスの送迎で、朝八時半頃に自宅を出て午後三時半頃の帰宅である。
施設に到着と同時に、手洗いとうがいを済ませ名札のある自席に着く。やがて一日のスケジュールが始まる。
各人別の予定が定められ、個別リハビリ、集団体操、入浴、昼食、趣味の一時間、おやつ休憩を含め、保護士と介護士の親身な指導とサービスを受けている。
曜日ごとに八名が向き合うグループ別に、机が並び、自分の席は、ほぼ決まっている。一日五十名前後の参加で、男女半々の割合である。馴染みも深まってくるが、それでも、二割ほどの人は、語ることもなく担当者以外と口を交わす事も少ないように見受ける。
二月十一日の土曜日は建国記念日だった。二十歳代の若い介護士のTさんに、リハビリを受けた折、昔物語をした。
「昭和十二年から昭和十六年。私が小学二年生から六年生の頃、二月十一日は紀元節と言って、どの学校もお祝いの式があり、生徒には紅白のお饅頭が配られたのですよ」
初めて聞く話しなのか、彼女は興味深げに耳を傾けていた。
暫くして、車椅子に乗った五十歳台の女性が私の席近くにやってきた。
「浅井さんですね。ちょっとお尋ねしたいのですが。今日の建国記念日とは、どういう日なのでしょうか。教えて下さい」   
先ほどのTさんに聞いたらしい。
「その昔、高天原たかまがはらから、日向の国に降りたと言われる瓊瓊杵尊ににぎのみことの曽孫の、神武天皇が船軍を率いて日向を出発して、瀬戸内海を通り、大和から橿原へ抜けて平定され、初代の天皇に即位して以来、代々の御代が続いているとされているのです」
あくまでも、私が幼少の頃に学んだ歴史であることを、何度も念押したことは申すまでもない。それでも大変喜んで貰い、これからも宜しくと自席に戻られた。
世代的にも、また私自身が宮崎の出であることからも、小学の時からの耳学問である。このような話ができたのも、昭和一桁世代にとって今日という佳き日なのかも知れない。ふと懐かしい童心に戻れたひと時だった。
土曜日は、右隣に腰掛けるKさんがいる。脳梗塞の後遺症なのか歩行と言語機能の障害がある。最近、私とは微笑みながらの会釈を交わすようになった。
そんなKさんは終日、二十四色の鉛筆で、塗り絵に熱中している。隣に掛けている私の耳に、いつもKさんの口ずさむ微かな独り唄が入ってくる。私だけに聞こえる、お経か、お告げのようである。
私はその日、偶々カラオケ担当だった介護士のSさんにこのことを告げた。彼女は飛んできてKさんの口に耳を寄せて聞き始めた。二月四日のことだった。
「この曲、分からないわ。でもメロディーを覚えて母に聴いてみます。母はスナック経営しているので、大体の曲を知ってるから」
そして十一日当日、Sさんがやって来た。「母に電話口でハモッテ尋ねてみたら、曲名が分かったの。浅井さん!今日のカラオケの時、Kさんの横に腰掛けて歌うのをサブしてくれますか。自分は担当でないので、係りの人に頼んでおきますので」
おやおやと思ったが、乗りかかった船だと観念した。腰掛を移動して座らせた最初は、渋るKさんだったが、前奏が始まったとたんに、生き生きとしてマイクを握った。
周りを囲む長年の顔見知りも、初めて聞くリズムに乗った歌声に大きな拍手を送った。担当者は照れるKさんにもう一曲リクエストした。「岬めぐり」に続く「別れの一本杉」だった。
私が、嬉しかったのは、Kさんのことを話した折に、懸命に取り組んでくれたSさんの心のこもった優しさと熱意だった。さらに、初めて見せたKさんの帰り際の笑みだった。
カラオケボックスが誕生したのが一九八〇年頃と言われる。私も在勤中には随分お世話になった。今もこの様な付き合いが続いて、誠に不思議な相手だと思う。これを機会に、Kさんとの縁が一段と深まってくるようで、本当に嬉しい。
確かに、声を出すことは、心身両面からも素晴らしい事だと思う。これからもカラオケは、老齢者、身障者の日々に、潤いと張りを持たせるために、大いに役立ってくれるだろう。私も仲間と一緒に、嬉々としてマイクを握りしめたい。
テーマ  自由題
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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