歌は世につれ

浅井 孝郎*
私が火曜と土曜の週二回、デーサービスに通い始めて早いもので一年半が過ぎた。両日とも五十名ほどの参加で、少しずつ話し相手も増えている。
会場では出席者それぞれ、午前午後の予定が組まれて、自宅とは異なった充実感を体験しているようである。
午後に、一時間の自由参加の時間がある。書道はじめ絵画、生け花など幾つかのコースがあるが、各曜日ともに、一番人気は男女を問わず、カラオケとお見受けしている。
所定の時間ともなれば、十数名のフアンが取り巻くテレビの大型画面は一転して、各自から投票された曲目の歌詞が映る晴れ舞台となって、拍手と笑顔の中心となる。
カラオケは、日本が世界に誇る発明品として名が響き、海外にも「KARAOKE」として拡がり「歌が空っぽのオーケストラ」が名前の由来と聞いている。
私もデーサービスに通い始めて、まもなく声をかけて貰い、カラオケグループの一員となった。唯一の悩みは、順番が回って来た時に何を歌うかの選曲である。レパートリーが少ないことと、雰囲気に合う曲が、なかなか思い浮かばない焦りを味わっている。
しかし、カラオケの楽しみは、場を共にする全員参加にあると考えて、率先して賑やかに声を出すと、仲間づくりもスムーズのように感じる。
私が昭和十五年前後の小学生の頃、耳にした「流行り歌」が何曲かあった。人間面白いもので、古い事は幾つになっても記憶に残っているから不思議である。
当時、世に広く歌われたヒット曲のなかで
「二人は若い」「ああそれなのに」と続き、時間とともに「満州娘」「支那の夜」を聞いた。国内事情、国際情勢を反映して、世情を照らした歌詞とメロデーが、敏感に人の心を捉えて、世に歌われたと憶えている。
戦火たけなわとなり、混迷が増すにつれて曲は軍歌調の色彩が濃くなって「同期の桜」「燃ゆる大空」「轟沈」と続き、半面では、静かなブームの「椰子の実」もあった。
昭和二十年夏に迎えた終戦、そして戦後の暗い世相に大きな明かりを灯したのは、並木路子の「リンゴの唄」である。このとき以降になると、時期折々の歌手の名前も鮮明に憶えてくる。文化娯楽の量と種類が少なかったせいかも知れない。
以後、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」から近江俊郎の「湯の町エレジー」、笠置シズ子の「東京ブギウギ」と夢やロマンを追った曲が続いたように思う。
戦後間もなく、NHKのラジオ番組から始まった「しろうとのど自慢」「紅白歌合戦」など未だに続くヒット番組の影響もあって、幾多の変遷を経ながら、人びとの口から歌が消えることはなかった。
戦後七十年を過ぎた今も、その間の幾千曲にも及ぶヒット曲は、「懐メロ」と呼ばれて広く愛唱されている。
高齢者には若者の新しい曲に馴染めない向きもある。しかし「懐メロ」は、昔を思い出させて、心にメロディと郷愁を甦らせてくれる。誰しもが男女の区別なく、実に楽し気に歌っている。本当に若く格好いいと思う。
私も週二回のデーサービスで、楽しく気分転換に励んでいる。その大きな支えの一つに先ほどのカラオケがある。なお思い込みではあるが、持ち歌は、次の三曲としている。
森進一「ゆうすげの恋」。坂上二郎「なあ友よ」。小林旭「昔の名前で出ています」となる。そして、年齢を感じさせない若い声で歌い続ける事を、夢としている。
いつしか話は、流行り歌、懐メロ談義から、カラオケ物語へと進んできた。楽しさに時の過ぎるのも忘れたようである。
テーマ 自由題
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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