老春に乾杯

浅井 孝郎*
日頃“老春”という表現を用いることが多い。“高齢者の心の青春”を意味する私なりの表現である。
最近敬愛する友人から「月に十日の空白をつくらないように」との教えを受けて、せめて見せ掛けだけでも忙しそうに振る舞っている私である。
一方で軽い気質のためであろうか、この年齢になっても美しい女性への熱い想いは色褪せることなく、時折のメール交信とランチデートにお付き合い頂くオバフレンド諸姉には恰も古代ギリシャの神殿で出会った女神に対するように胸をときめかせている。
このような突拍子もない浪漫物語を夢見ることで、私の心の底に眠っていた或るものが、二つばかりの嬉しい気持ちとなって現れて来たように思われる。
その一つは、お洒落する心が芽生え始めた事である。自身についてはもとより、友人知人の服飾などに関心を持つようになり、外出がとても楽しくなってきた。
もう一つは、話題づくりに心がけるようになった事である。高齢のハンデをカバーするには、会話の中に盛り込むある程度のユーモアと知性が必要かと、分相応に学習の機会を求めるようになった。
しかし所詮は、若くありたいとの切ない願いを充たそうとする老人の勝手な望みではないだろうかと苦笑している。
つまり“老春”とは、ええ格好しいの爺様が老後を明るく生きようとする心の持ち方であり、その生き様かなと思っている。
時の流れとともに否応なしに“青春”から“老春”の現在を迎え、聊か悟った振りして言えば、やがて煩悩を捨てて“聖春”の日々に生きたいと憧れている。
ともかく現在の“”老春”に乾杯しよう。
 
 
 

 
 
 
以上が浅井孝郎氏寄稿のエッセイですが、令夫人の伸子氏から、次のメールとともにユーモラスなお話を戴いたので、ご紹介します。(HP管理者)
今月のエッセイは、八〇歳の爺様のいつまでも若さを忘れない気持ちです。
また、四月一日の爺様の携帯メールをのぞかせて貰ったものを付記しました。
おもわず、ふき出してしまいました。七三歳の私も、忘れていたエープリイルフールです。
何歳になっても、持ちつずけたいユーモアです。
(四月一日の爺様の携帯メール)
◎老いてもユーモアの心を
日曜朝、区内の勉強会の友人よりメール
「お早うございます。思うところがあり、高い鬘(かつら)を買いました。着けてみると、自分ではそれほど似合わなくもないと思っています。次回のおしゃれの会で、忌憚のない見た目の印象をお聞かせ下さい。 井出」
驚き且つ喜んで一〇分後に。
「素晴らしい事です。若さに対する憧れと、お洒落する心に敬意を表します。少しばかりの羨望と嫉妬の心をこめて。浅井」
返信直後に感じる処あり直ちに。
「追伸 普段の貴君の人柄から、ふと思うところあり。もしや今日四月一日のユーモアではなかりしや。」 
夜分遅く再度のメールあり。
「若しやではなくエイプリルフールです」
 
 
 

 
 
 
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
 
 
 
 
 
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百人一首考
石井俊雄
百人一首の中に、”老春”の一首があります。
それは、

   君がため 惜しからざりし いのちさへ 長くもがなと 思ひけるかな

というもの。
作者は、藤原義孝。容姿端麗だったそうですが、天然痘で21歳(西暦974年)で没しました。

歌意は、
「君がため、惜しからざりし命」とするか、「君がため惜しからざりし、命」とするかで違ってきます。
私の解釈は前の方。
「惜しからざりし命」とはとりもなおさず、年寄りの命を表しています。惜しくないのだから年寄りですよね。若者ならそんなことは言いません。
一方、「君がため惜しからざりし」で切れば、年齢は関係なくなります。歳とったから惜しくないのではなく、君がため惜しくないわけですね。

分析はそれ位にして、小生の解釈による和歌全体の歌意は、

  あなたのために、齢を重ねた私でさえ、長生きしたいと思うことですよ!

となります。
当に、”老春思想”ではないでしょうか。
作者は、若いので、多分、「違う!違う!」というでしょう。
だけど私は、云う心算、「そういうことにしといてくれよ!」と。・・・あなたたちを代表して。
(2012/4/7 9:26)