十代の青春(小五から高卒まで)

浅井 孝郎*
現在八十六歳、杖を頼りに頑張っている。
父が満鉄に勤務していたので、満州大連市で生まれ育ったが、世界大戦の激化を案じた両親の思いで、昭和十七年小学五年の春に、母と二人で郷里宮崎市に引き上げてきた。
それからの三年半は、学業の傍ら、繁忙期の農村と、飛行場(現宮崎空港)の動員に駆り出される日々が続いた。 飛行場での作業は主に滑走路と掩体壕(飛行機の防空壕)の造成だった。戦時中の十九年四月、宮崎中学に進学した。
特攻基地の飛行場には、昭和二十年の春頃から、アメリカ空母からの艦載機による空爆が始まり、宮崎の市街地も、 終戦の数日前に焼夷弾投下で大半焼け野原となった。
三年生以上は八幡、延岡の軍需工場に動員されていたため、私たち二年生が最上級生として三交代で母校の警護に当っていた。 当番だった昼時に校舎が焼かれ、崩れ落ちる奉安殿を三十名ほどで、敬礼して見送った光景は今も瞼に焼き付いている。
宮崎中学二年の夏に終戦を迎えた。八月十五日正午、天皇玉音盤の終戦詔勅を疎開先の叔母の家のラジオで聞いた。カンカン照りの真夏日だった。放送に涙しながら、空襲もない、これでゆっくり眠れると、安堵の気持ちが湧いてきたことを記憶している。
その後一か月ほどして、海辺に焼け残っていた数棟のバラック兵舎を校舎として、帰って来た上級生と半年ほど通学した。十月半ば一台の進駐軍ジープが入って来た。降り立った一人の軍人が、教官と私たち生徒を校庭に召集し、通訳を介して演説をぶった。
「日本は民主国になった。君たちは、全てに自由だ。男女交際も映画鑑賞もOKだ?」
単純な中学生たちは、鬨の声を挙げて喜んだ。寂し気な表情の先生たちをさし置いて、戦火を免れていた映画館めざして一目散に走り出した。上原謙・田中絹代主演の『愛染かつら』が上映中だったと憶えている。
戦中戦後を通じて物不足はひどく、小学から中学にかけて、夏冬とも裸足、草履、地下足袋での通学生が多かった。ノート鉛筆など学用品はもとより、弁当持参もままならないご時世だった。
昭和二十三年春、宮崎神宮前の現在地に新築された校舎が、大宮高校として開校した。私も高校二年生の編入となった。
「七歳にして席を同じうせず」と育てられた六百名ほどの男女生徒は文系、理系、家庭の三コースに分かれて初めて一堂に会した。そして、クラスの編成、委員の選出、部活動スタートなどで、学内はすぐに明るい声で賑わった。
私は野球部に入り、二学期に新チームの三塁手となった。僅か数本のバットと十個余りのボール、数少ない帽子とユニホームがあるだけで、グローブやスパイクなどは全て自前だった。それでも野球が出来る喜びで十数名の部員は嬉々としてグランドを走り回った。
同じ二十三年十一月二十一日〜二十三日、第一回九州地区高校野球大会が佐世保市千盡球場で開かれ、各県から七校が集まった。選抜高校野球大会の前身だったが、沖縄県は、まだ日本に復帰していなかった。大宮高校は夜行の普通列車で八時間を要して参加した。
記念のメダルはなかったが、参加賞としてボールペン一本を貰った思い出が懐かしい。残念ながら一回戦で甲子園帰りの龍谷高校に延長十一回で敗退した。第一回記念として、二日目第一試合に、地元の佐世保北高校とのオープン戦が組まれ二試合を楽しんだ。
食べ物に不自由しながらも、用具の手入れと補修を重ねて試合を楽しみ、喜びに充ちた日々が続いた。そこにとんでもない出来事が起きた。
高校二年の一月上旬、アメリカ軍政官某が突然来校して通達した。
「四月より、市内を流れる大淀川を境として学校区を南北に分け、高校二つを編成する。該当する生徒は新学期から移るように」
当時のアメリカの指示は絶対だった。
高校三年の春、百名ほど大淀高校に否応なしに転校だった。そして私には更なる出来事があった。新規の高校で野球部に入部させられた直後の夏の予選で、今まで所属していた大宮高校チームとの対戦となった。
精神的にも幼かった私は耐えられず、当時在阪の長兄を頼り、大阪の天王寺高校に再度の転校をした。若さゆえだったのか、今では思いもよらない行動である。
そこで再び良き師と友に支えられて、進学の道を辿った。
転校の数年後、大宮高校から該当者を同期扱いとする連絡を受けた。思わず快哉を叫んだが、私たちほど数奇な時代を過ごした世代も少ないであろう。
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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