青春回顧録(大学進学への思い出)

浅井 孝郎*
昭和二十五年春、阪大経済学部に進んだ。昭和二十三年、学制改革に伴い、高校二年に編入されて、僅か二年の間に宮崎大宮、宮崎大淀、大阪天王寺の三校で学んだ。その間の経緯は先述のエッセイの通りで、今でも懐かしい思い出となっている。
二十四年夏の天王寺高校への転校試験は、今振り返っても無残な結果であったが、数名の志望生の中で私一人を残して貰ったのは、全く不思議で、その幸運に感謝している。
同校での二学期と三学期は、校風に副ってよく遊びよく学んだ。夕食後の八時から十二時の四時間だけ、時間割を樹てて机に向かって集中した。テレビも普及していない頃で、ラジオも映画にも関心が薄かった貧しい日々が、結果的に幸せとなった。
関西屈指の進学校という環境のためか、毎学期に席次がつけられていた。卒業時に男子生徒五クラス二百五十名の中で丁度二十番となり、三十名の優等生の一人として表彰されたことは、私の長い人生での数少ない記録と言えよう。
文武両道を謳った校風で、当年甲子園出場(一回戦敗退)。ラグビー全国大会優勝と、ハンドボール国体優勝の偉業を遂げた。
その年の、国公立一期の入試は、三日間で五科目だった。私は国語、英語、数学(解析1)、人文地理、生物を選択した。
仲間の渦に巻き込まれたように、四十名ほど一緒の阪大合格だった。他に国公立一期として東京、京都、神戸、大阪市など合わせて五十名ほどの名前があったと思う。
高校から大学にかけて三人の親しい友人がいた。久貴忠彦、遠田義昭、中西和男の三君である。それぞれ大学教授、弁護士、JR幹部として活躍された。不本意なことに大卒後十年ほどして、私の会社生活で転勤が続き、心ならずも縁が遠くなった事を、一代の不覚と扼腕している。
特に三君からは、趣味教養の面でも感化を受けた。文楽人形を学び、AGОT(朝日会館学生音楽友の会)では、バイオリニストの諏訪根自子、巖本真理を知り、関西交響楽団の朝比奈隆のタクトに酔った。
また当時、歌舞伎の関西若手三羽烏として中村扇雀、坂東鶴之助、市川雷蔵が活躍中であり、中でも市川雷蔵は、天王寺高校の同期として格別の親近感があった。
久貴君からは京都南座の歳末の顔見世興行に誘われて、公演初日に昼夜通しで五百円の三階席に陣取って楽しんだことが懐かしい。歌舞伎が学生にも身近な時代だったと思うと昔日の感がしている。以来、一幕席などが、すっかり嬉しい縁となった。
しかし私にとってショッキングな事が起きた。大学一年の夏、身体検査で肺結核症との診断を受け一年間の休学を命ぜられた。目の前が真っ暗になり、急きょ宮崎の両親の許に帰ることになった。
帰郷してからは田舎の澄んだ空気のもと、両親の心のこもった食事として生卵と納豆、鮮度抜群の獲れたて鰯、自家栽培の新鮮野菜を日々三度の食膳に出して貰った。若さもあったと思うが、翌春、完全に回復して、二十六年四月に一年遅れで復学する事が出来た。親しい友人諸兄には置いて行かれたが、何よりも戻れたことを感謝した。
幸運にも、学生課の配慮で、希望者の多かった阪急石橋の「待兼寮」に入る事ができ、卒業までの四年間を過ごした。三人合部屋の夕食のみであったが、当時としては入寮だけでも天国に住む思いだった。三人交代で夕食補充の献立を考えた炊事当番が懐かしい。
当時の学費と食費は、日本育英会と宮崎県から奨学金で支えて貰い、家庭教師のアルバイトと合わせて、質素ながら学生生活を無事に終えたことに感謝している。なお卒業年次のゼミは、経済原論の高田保馬教授に教えを受けた。この年齢になって、先生の和服袴で教壇に立たれたお姿とご高名に、今も身が引き締まるのを覚える。
昭和三十年三月卒である。二年ほど前から大変な不況期を迎え、驚くほどの就職難だった。極めて優秀な者、強力なコネのある者、抜群の運動選手を除いては、大変なご時世だった。休学で一年遅れの私にとっては尚更で八社ほど連敗が続いた。
幸い一社の幹部の眼に適い、何回かの面接を受けて入社させて貰った。その後、当社で昭和三十年四月から七十年六月まで満四十年の勤務を全うすることが出来た。まさに感謝の一語である。
八十六歳になった今も、最寄りに住む社友との集いを隔月持っている。また、小学から高校に至る旧友諸兄姉とも、宮崎、東京それぞれの思い出の場所で例会を楽しんでいる。この様子は改めて記したいと思う。
二〇一七年秋
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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