昔を振り返ってみよう

浅井 孝郎*
私の住まいは板橋区のマンションの一室にある。三万坪の緑地帯の再開発地の一画で、比較的ゆったりとした間取りの、九十平米ほどである。
昭和三十年の入社以来、地方勤務が続き、四十五歳で漸く本社に入った折、タイミングよく大手開発にめぐり合って抽選に当たり、現在に至っている。早いもので入居して四十年が過ぎた。
三年前に体調を損じて以来、戸外は杖を頼りに歩き、室内は腰掛とベッドの生活となった。一日の大半は、玄関両脇の二室を根城として過ごしている。
北側百メートルあたりを高速道路が走っているため、両室は二重窓構造となっている。お陰様で通行車輛の騒音とか排気ガスの影響を感じることはない。これも住居対策の一環なのだろうと、有難く受け止めている。実は現在、八十年ぶりに二重窓生活を味わう日々を過ごしている。
なぜかと言えばその昔、私は大連市で生まれ、昭和六年夏から十七年春まで十年余を過ごした。かの地は大陸性気候で、夏の三十度を超す暑さに耐え、冬はマイナス十度の厳しさも体験した。父が満鉄勤務だったので、社宅は社風をモットーにした耐久性の煉瓦造りの建築が多く、ストーブ、スチーム等の暖房設備が整っていた。従って窓は全て二重構造で万端であったと覚えている。
思い出は、やがてD51機関車当時の列車の窓へと移って行く。小学五年の昭和十七年の春に大連から宮崎に引き揚げてきた私は、中学二年の夏に終戦を迎えた。戦後の混乱期のなか、転変の進学を経て高校二年に編入となった。物資不足で大変な時期であったが、青春の思い出を重ねて野球部に入り、楽しい遠征試合を何度か体験した。
九州一円を巡るとき、冷房設備のなかった当時の日豊本線と鹿児島本線は、窓を開けて走っていた。トンネル通過の際に、窓がそのままの時は、進行方向に向かって坐っている者の顔は、鼻の下が真っ黒となり、大笑いの対象となった。窓を閉めるのも忘れるくらいに、他愛なく喜んでいた仲間だった。
あわせて今も覚えているのは、大阪の大学に進んだ四年間、夏休みで帰省する時、急行「高千穂」 (京都〜都城)を利用していた。その十六時間余の旅は、途中二回ほど停車場に降りて、真っ黒な鼻をすすぐために洗顔を要したのだった。
全くの余談となるが、乗車の折は、なるべくなら一車両一ヶ所の洗面所側のシートは、避けた方が無難だった。理由は言わずもがなだと思う。
そして、私も何時しか八十六歳の爺となった。良くぞまあと驚きながら、これまで支えて頂いた皆さん方に感謝の念で一杯である。今まで何人の方にお会いしただろうと思うと人生って凄いなあと考えてしまう。
心の窓のアルバムを開いて思い出を振り返りながら、残る人生を楽しく過ごしたいものである。
テーマ 窓
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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