人生あれこれ

浅井 孝郎*
通り過ぎてきた人生を振り返ると、短いような、長いような、今では楽しい思い出しか浮かばない。昭和六年生まれ、八十六年半に及ぶ歳月である。
私は、十歳と八歳も年齢の離れた兄二人を持つ三男坊の末っ子として育った。父は満鉄勤務だったが私が満州大連市で小学三年の時に、兄たちは、早や、旧制高校生として弊衣破帽の青春を謳歌していた。
昭和十六年十二月、日本は欧米諸国と戦端の火蓋を切った。満州での生活の危機を案じた母は、父を残して私と二人、郷里宮崎に引き揚げた。以来、家族は長年の間、四か所に別れての生活となる。
すでに長兄は、阪大理学部で電子工学を学び、電波探知機の開発に当っていた。ために兵役は免れていた。
二年遅れて次兄も東大工学部で、土木建築を学んでいた。戦火激しくなった東京で、食事をはじめ日常生活に苦労していた様子に、父は、その身を案じて満鉄技師として大連に呼び寄せた。
現地に着いた次兄は、大変な喜びようで、
「食べ物は何でも有るし、まるで天国です」
と宮崎の母に書いてよこした。ただ気になる一行が見受けられた。
「お父さんの身の回りの世話をしている女性がいます。遠縁に当たる方のようです」
昭和二十年八月、そのような次兄の喜びと報告を、ぶち壊すかのように、ソ連軍の無法な満州侵攻を見た。父と次兄の二人は、別々に一年半余の抑留生活を過ごすことになる。
私は九州宮崎で戦中戦後の混乱期も、無事通り抜けた。
戦後二年目を迎えた九月に、父が抑留の身から解放されて、中国から引き揚げてきた。私が中学三年の秋に、連絡を受けて叔母と二人喜んで宮崎駅に迎えに行った。大連時代の父に同居の女性がいることを知っていた母は自宅で待つと言った。
元気に降りてきた父には一人のお連れがいた。私も幼い頃から知っていた、母の従妹にあたるKさんだった。宮崎神宮前で書店を営むKさんの弟が迎えに来ていた。
一年ほどして、そのKさんは我が家に出入りするようになった。血縁だったからなのか彼女の人柄なのか不思議に思っている。いづれにしても、母の引揚者としての相手に対する優しさなのか、老いを感じるようになっての気遣いなのか、嬉しく感じていた。
父が帰国して二か月後に、次兄も健康を損じながらも帰国出来た。半年ほど宮崎で静養して東京の学窓に戻って行った。
私自身は中学四年を終えた時に、学区制の変更で高校二年に編入となり、男女共学となった。大学も新しい制度に変わって四年制となった。私も時代の波に乗って、大阪の新制大学の経済学部に入った。
以来、家族それぞれに独立して生きることになる。そして二十年ほど経った頃だった。
私が社会人としてM社の北九州支店在職の折に、建設省勤務だった次兄が出張時に立ち寄って、一杯やったことがある。その時に、ぽつりと切り出した。
「昔の話になるがK女史の事があったなあ。あの話、お前はどう思うかな」
渋っていた私を、まあまあと差し置いて 
「実は、あの時はお父さんのことををひどいと思っていたんだが、数年もの間、お父さんを独りにしていたお母さんにも責任があったんじゃないだろうか。夫婦とは、矢張り絆が大切だと思うよ」
なるほど、大人の目線は、子供の目とは、やや異なっていたのかも知れないんだと感じた。兄との会話から数十年経った今も、記憶に残る思い出となっている。
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コメント
桑原峰征
先輩の寄稿エッセイには、人生の先達として大いに参考にさせていただいています。
今回の家族に関連しての大人の目線と子供の目線、ある意味で普遍的なテーマだと思います。

私は幼少時代、母親とのスキンシップが余りなかったとのやや寂しい記憶があります。後年姉兄から母親が肺結核を患っていて子供たちを遠ざけていたとの話を聞きました。兄弟間でも年齢差により違うものだと感じました。
父とは子供時代からあまり会話もなく、反発することが多く出来れば接触したくない存在。最近亡父の著書(回想録)を読んで、子供たちの栄養状態を懸念しての帰郷、また教育機会を考えての上京などが記されていてしんみりしました。
また、経済的にも姉兄はいかなかった幼稚園に私は行かせてくれたこと、姉は高校時代デパートでアルバイト、兄姉は奨学金受給、私は応募せずなど兄弟間でも時代を反映して違い親に対する感じ方に違いがあるように思います。

自分の子供・孫たちとの関係も似たようなものがあり、親子は順送りとの想いです。
(2018/03/11 11:56)
原理主義と相対主義
石井ト
桑原君のコメントに接して、最近思っていることを書いてみる。
私は、人の世で、人の行動原理は大きく2つに分けられると思っている。
一つは、基本的な原理原則を厳格に守ろうとする立場と、もう一つは原理原則に依らず、周りの人間の思いに配慮した言わば相対的という立場、である。
このような二つの立場の存在を認めるなら、一般的に、父のは前者、母のは後者、ではないだろうか。
桑原君のお父君は、原理主義者の典型のような気がするが、どうだろう。
いま、この世で、「イスラム原理主義」などの用語が頻出するせいで、「原理主義」なる言葉にずーっと反発してきたが、最近よく考えると、 科学者というのは、言わば原理に従って思考する者どもということになるから、原理主義とは、否定的な主張ではなく、 むしろ世の中の進歩に欠かせない考え方ではないかと思うようになっている。
だから原理主義者と呼ばれるのは決して悪いことではない。
ところで、原理主義の反対の立場はどう呼ぶかと言えば、「相対主義」だろう。決まった論拠が無く、言わば浮草のようなものである。 人間主義と言ってもいいかもだ。
両者の例を挙げるとすると、「あの人の顔を立てて云々・・・」という人は相対主義者。・・・江戸っ子に多いのかも。
「契約(約束)だから云々・・・」という人は原理主義者、だろう。・・・地方に多いのかも。
あなたはどちら?
私は、自分を原理主義者だと思っているが・・・

だが、「原理主義」という言葉は、英語の"fundamentalism"を訳したもの。だから、「原理主義」という言葉を、言葉の意味論的に解釈するのは、 "fundamentalism"が指し示す内容のものと違っているかも知れない。だから、より原語"fundamentalism"に近い訳は、 もともとがキリスト教の用語であることから、「根本主義」、或は「原教義主義」とすべきかも知れない。 さもないと科学者に気の毒な気がする。
(2018/03/11 17:25)
 

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