いつまでも瞼に残る自然

浅井 孝郎*
満州大連に生まれた私が、満鉄勤務の父を置いて、母と二人、九州宮崎に引き揚げるようになったのは、昭和十七年三月。小学五年に進級の春だった。
昭和十六年十二月に米英と戦火を交えることになり、母は満州での生活を案じ、私と二人は、郷里宮崎に帰る決心をした。
その時、二人の兄たちは、既に旧制高校の寮生活で、岡山と東に在住していた。
当時、主たる日満の連絡は、大連と門司を結ぶ二泊三日の客船で、七千トン級の三隻が就航していた。
父も見送るために同行し、三人で一緒したのは「吉林丸」と付けた、当時の一級船舶だった。私たちには帰郷みやげとして、豪華な一等客室の旅を贈ってもらった。
私は、子供心に夢中になり、有頂天になって甲板やデッキを走り回った。父は朝昼晩の食事時には船長、機関長のテーブル席にも一緒についてくれた。
子供の私には気付かなかったが、母が離れたテーブルに座る一団を目ざとく見つけた。柳家金語楼、花菱あちゃこ、横山エンタツ、古川ロッパ、川田晴久等々、今でいうお笑いの豪華な一団であった。支那(中国)事変の慰問に行った帰りと聞いた。
母は私の耳元にそっとささやいた。
「あとで色紙を渡すから、あの人たちから、サインをもらってきて頂戴?」
部屋に戻って承知した私は、彼らの部屋を訪ねて、快く返事を貰った。
「そのテーブルに置いておきなさい。君の部屋は何号室ですか?後で届けましょう」
小躍りしながら部屋に戻る途中、甲板からの眺めに思わず絶句した。
何と海の面が真っ黄色ではないか。初めて見る光景に、幼少の私は言葉も出なかった。はるか黄河から流れ来る、大河の色の希なる絶景を、目の当たりにしたのだった。
翌日、ボーイから託されてサイン一式が届けられた。数名の色紙と、柳家金語楼師匠のサイン入りブロマイド写真だった。大喜びの母は帰郷したあとに、大切に額に収めて一室に飾っていた。思わぬ後日談があるがそれはまた改めて。
三日目の朝、無事に門司港に錨を下した。子供心に初めて見る日本の山々の緑に、思わず息を呑んだ。なんと素晴らしい姿と色だ。樹々が生きて、緑が映えているではないか。満州で過ごした山々は、草も木も生えずに、すべて土色だった。鞍山、旅順、二百三高地等々、いずれの山も幼い私の目には、厳しい眺めだった。
門司から宮崎までの直通列車は、日豊本線の普通列車で七時間を要した。それも、二便しかなく、当時はそれが常識だったようだ。数多いトンネルの煙に閉口しながら、窓からの緑の山々と、清らかな川の流れを、見つめていた。
いま振り返って見ると、よくぞ無事で三日の船旅を満喫出来たと考えている。長い時間の穏やかな海の上を、潜水艦の攻撃を受けることもなく、無事に帰ってこれたと、わが身の強運を喜んでいる次第だ。
もうひとつ、色紙にともなった話がある。私が宮崎に帰って来て間もない頃、熱を出して、近くの街医者に往診をして貰ったことがあった。診察を終えた医者のひと言だった。金語楼師匠の写真を見て
「ご主人ですか?」
昭和十七年当時のことだから無理もない。
師匠たちがラジオ、テレビで『二十の扉』『私は誰でしょう』『素人のどじまん』などの番組で登場し始めたのは、戦後の二十三年過ぎた頃だったように思う。藤倉修一、高橋圭三、宮田輝はじめ、司会の皆さんも懐かしい顔ぶれである。
小学生の頃から、早や七十数年が過ぎる。今もくっきりと記憶に残る思い出は、やはり満州から引き揚げる時の、船上からの黄河の黄色と、門司港に着いた時にデッキから見た日本の山々の緑だった。老いた目に、今も、しっかり瞼に焼き付いている。
テーマ 忘れられない光景 
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* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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