二人の友 S君とY君

浅井 孝郎*
私は今年八十六歳を迎えた。車椅子と杖を使っての生活であるが、妻に支えられて何とか頑張っている。そして、多くの友人の励ましを受けて、お蔭様で老春の日々を過ごして いる。今日は数多い中から、九州宮崎の二人S君とY君に登場して頂こう。
その両君は、私と同じ昭和六年生まれの、宮崎赤江小学校出身である。十九年四月、旧制の宮崎中学に一緒に進学して、二十年八月に終戦を迎えた。学制改革によって二十三年 に新制高校二年となり、翌二十四年には更なる学区制のあおりで、三名別々の高校に移らされた。当時のアメリカ占領軍の強制によるとは言え、今考えると全く無茶な政策を受け たものである。
S君は京都の大学を経て家業を継ぎ、Y君は宮崎の専門学校から県庁の勤務に就いた。一方私は大阪の大学後に、東京のM社に入り転勤族として各地を回ることになった。三人はそれぞれに進んで、二十年もの間、会う事も少なかった。
四十歳を過ぎた頃、赤江小学校同期有志の音頭で、同窓会のお呼びが掛かった。男女別にそれぞれ二クラス約二百名のうち、四十名ほどが集まり、久しぶりの懐かしい笑顔に、お互い喜び合い、あわせて毎年の約束を交わした。            
私は三十五歳の折に、父を亡くして以後、母親を宮崎市内の老人ホームに預けていたので、月に二回ほど帰郷していた。S君、Y君とは、二晩別々にホテル近くで、一杯やっていた。二人は好みも異なっていたので、会合以外は一緒に飲むことも少なく、申し訳なかったと思っている。
S君は、百名ほどの従業員を抱える経営者として、ロータリーメンバーのエリート意識の高い人である。日頃の服装は勿論のこと、愛車も好んで高級志向を通している。今も、全く変わらない若さを披露して元気だ。
ゴルフもハンディキャップ5の腕を示し、油絵は毎月のように愉しんで出展していた。素晴らしいのは「社長通信」と銘打って毎月従業員に給与支給の際、感謝をこめて、時事問題など感想文を同封している事である。会長職となって三十年経つが、今も継続している。そして五年ごとに三百部ほどエッセイ風に纏めて出版している。第三部の折に依頼を受けて、寄稿の機会を受けたことがあった。
またS君夫妻とは、海外を含めて数回の旅行をしたことも懐かしい思い出となっている。
互いに高齢となり離れているだけに、最近では、もっぱら電話での会話となった。毎月のエッセイも、つどに交換しているが、長く続くよう願っている。
一方のY君は、農業一筋に生きて来ているように拝察している。県内の人々のために尽くした功績は、東京の私からは計り知れない素晴らしさを感じる。農地改革にも大変な力を発揮していると思う。
自宅の庭の手入れも見事なもので、菊花の盆栽は三百を数え、その他の鉢と合わせて、南九州恒例の台風襲来時の対応は、さぞ大変だろうと推察している。本人は全く意に介すこともなく、多くの仲間の家におもむき、庭木剪定の世話をはじめ、野菜や草花の差し入れに勤しんでいるようだ。
Y君の面白いところは、高齢マイカー族の一人でありながら、普段六キロメートルほどの距離は徒歩でこなしている。とにかく足腰の鍛錬に努力しているのは立派だと思う。
彼の企画で、年四回ほど小学同期十数名が集まり、昼食会を開いているようだ。場所は亡くなった同期の内儀が頑張っている、県庁裏の「一平寿司店」を利用しており、仲間として本当に嬉しい。そして、会合のつどに、彼の携帯で数名が入れ替わって、私に激励の言葉をかけてくれる。
このように、S君、Y君からは、言葉で尽くし得ないほど温かい友情を頂戴している。遠く離れた郷里の友に感謝の日々だ。
いま一度振り帰る時に、S君、Y君の二人が心身ともに健康なのは、次の観点からと考えている。あくまでも、私の独り合点であると、勘弁して頂きたい。
一、長年愛する妻と共に過ごす。
二、緑の庭樹と共にに生きる。
三、日々芋焼酎の晩酌をたしなむ。
勝手な思いである。
今日も同じ空の下で、懐かしい友と生きる喜びを感謝したい。
東京より思いをこめて
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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