義姉二人のうちから

浅井 孝郎*
私は十歳と八歳違いの、齢の離れた、三人兄弟の末っ子である。実際は五男だったらしいが、間の二人が幼くして亡くなったと聞いている。お蔭で、お前は学校にも行くことが出来たんだと、笑い話に聞かされていた。
昭和六年生まれの私は、いわゆる戦中戦後のさなかに育った。兄二人は旧制高校から、長兄が当時は帝大と称されていた阪大、次兄は東大に進み、物理と土木の学部にそれぞれ進んだ。
長兄は理学部で二十六歳から電波探知器の研究に取り組み、次兄は満鉄勤務の父に呼ばれて、大学に籍を置いたまま満州に移り鉄道の開発に励んでいた。お蔭で二人とも、戦火に巻き込まれることはなかった。
父を満州に置いて、私は母と二人小学五年から宮崎に住み、中学二年で終戦を迎えた。戦後の混乱と変遷は、筆紙に尽くしがたいほどの有為転変が有った。
実は、二人の兄のそれぞれの義姉は、弟である私が紹介、お世話をした縁で結ばれている。今回は二人の兄のうち、次兄と義姉の話をしてみよう。
戦後の学制改革によって、宮崎中学と宮崎高女が、大宮高校として一元化されて、私は新制高校二年として編入された。
その頃満州で終戦を迎えた次兄は、技術者としてソ連に抑留される間際に、大連のある家庭にかくまわれた。その家族の一員として日本に引き揚げ、それぞれ身寄りを頼って、先方は東京に、本人は宮崎に、ひとまず落ち着いた。昭和二十一年の夏だった。
二年が過ぎて次兄も体調を回復して東大に復学出来た。それから二年を終え、建設省に入ったが、全く威張ることのない、官僚らしからぬ役人であった。
翌年の春、独りの女性を伴って宮崎に帰郷したことがあった。母の話では、街ゆく人たちが一斉に振り向くほどの美貌とスタイルだったらしい。その女性はIさん。終戦当時、次兄を大連市でかくまってくれたお宅の娘さんで、引き揚げてから、実践女子大学を卒業して「人物往来社」に入り、記者として活躍中だった。
一方、私は大阪に出て、夏冬の休みに宮崎に里帰りする学生生活が続いた。当時の夜行列車「高千穂」(京都〜都城)で、時折一緒になる後輩がいた。東京で学ぶN君という。その彼から帰省の都度に、親しく自宅に招かれるようになった。市内に居を構える指折りの銘茶の卸商宅であった。
その彼がある日、私に語りかけてきた。
「実は折り入ってお話があります。私方の姉を、お宅の兄様に貰って頂けませんか。何分にも世間知らずの箱入りですが」
勿論、家族と相談の上でと持ち帰った。
帰郷した折の次兄に、Iさんの存在を知った上で話を告げた。冷静に耳を傾けた兄は、落ち着いて述べた。
「自分たちの仕事は、地味なタイプの女房が良いのかなあ。恋は恋として、自分も理性ある役人として考えなければと思っているよ」
当時、汚職賄賂が飛び交い、役人の腐敗が叩かれている頃だった。それだけに本人も自分を抑えたのかも知れない。
母もまた、地元のお嫁さんが、何かにつけて心強いかも知れないねと話していた。
N家との縁を決めて、宮崎で挙式した次兄は、間もなく栃木県庁に移り、川治ダムの建設を担うことになった。ここからスタートして、熊本、福岡、群馬、新潟と廻り、昭和四十八年に、愛媛に転じた。我が国初の「本四国架橋」の責任者として呼ばれたのだった。
春三月に単身赴任した兄は、土木事務所の多数の幹部と一日も早く親しくなるために、自分の休日を返上して、それぞれの所属五名と交互に四国八十八か所巡りを始めた。
その事故は昭和四十八年十一月二十三日に起きた。参詣帰りの兄たち五人の乗用車が、冷凍ミカン満載のトラックと正面衝突した。国道で全員即死の悲劇が起きたのだった。
当時、北九州に在勤していた私は、急な報せに松山に飛んだ。兄嫁と長女次女の二人も新潟から駆け付け悲しい対面となった。
葬儀は子規堂を借り切って行われた。どんなに盛大な法要でも、悲しみが消えることは無かった。限りなく涙が流れるなか、多くの花環のなかに、Iさんの名前が私の瞼に強く焼き付いた。
あれから四十数年が過ぎた。兄嫁も三年ほど前に他界した。長女次女は揃って立派な社会人となった。上は一男一女の良き母となり下は独身ながらM大学の経済学部教授となっている。次兄も義姉も天国から安心して見守っている事だろう。
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* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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