老いて明るく

浅井 孝郎*
いつしか八十七歳の年の瀬を迎える。時の流れは早いものだ。そんな私にも、幼い頃があったかと思うと、おかしいやら嬉しいやら自然に笑みがこぼれてくる。
私は当時の満州国大連市で生まれた。満鉄勤務だった両親の五男として育った。残念なことに、三男と四男の二人が、幼いころに病で亡くなり、私が実際には三男坊として大きくなった。そのため、私にとっての二人は、年齢差が十歳と八歳の開きがある。
なお余談であるが、私たち兄弟の名前は、全員「お」の字がついている。滋夫、敏男、孝郎と並び、また早く亡くなった三男と四男も英世、正雄だったと聞いている。
私は小学四年生までは、大連の光明小学校で学んだ。五年生以降は、世界大戦の推移を案じた母親の判断で、故郷の宮崎に二人引き揚げて赤江小学校に移ることになる。
長兄、次兄の二人は、当時の旧制中学だった大連二中にそれぞれ進学した。長兄は四年から一年飛び越して旧制の第六高等学校に、次兄は五年から同じく旅順高等学校へと進んだ。以降戦中それぞれに、大阪、東京の帝大へと進むのであるが、後日の話としたい。
時は戻って、私は三、四歳頃より極めておませな子供だったと聞く。食後には卓袱台を立てて、いかにも講釈師もどきで一席ぶっていたらしい。二人の兄は目を白黒させながら聞き入っていたと母からの後日談である。
また兄たちは、受験勉強の合間には、良い玩具としてわたしをからかっていたようだ。私もまた遊び相手となって、きゃあきゃあと騒いでいたらしく、兄たちにとっても、良き暇つぶしだったろう。
当時の我が家には三つの本棚が並び、中には世界文学全集はじめ講談社全集からグリム童話集、佐々木邦の全巻に至るなど、幅広い読み物が並んでいたような気がする。
当時、小学一年生から始まって、四年生の頃に至るまで、毎月本屋からの配達は、幼年クラブから少年倶楽部へ進んだが、私はとにかく読書が好きだった。もっとも、その当時は、今のようにテレビ等々の娯楽があったわけでなく、本当に文字が何より仲間だったと思う。
小学二年生になると、目線は世界文学全集のページに進んで、教科書そっちのけの日々となった。不思議なもので三年生の頃になると、担任の先生から声が掛かって、週二回ほど三十分ちかく教壇に立って、グリム童話の物語を語るようになった。いつしか話し上手な子供になっていたようだ。
このことが五年生の春、九州に引き揚げた時に、とても役に立ったのだから嬉しい話である。満州から帰郷して、宮崎の赤江小学校に転校した際に、服装、帽子の違い、言葉訛りなどで、同級生にいじめを受けていた。その折に担任の先生が私の個性を見て、日本童話の語りをやってみてはと、昼休みの二十分ほど私に時間を呉れたのだ。娯楽も本も少ない頃の当時、大いに受けて、一躍人気者となってすぐに仲間に溶け込めた。今も年老いた小学校仲間に会うと、本当に嬉しく語りかけてくれる。
戦後の一時期、昔を振り返る懐かしい書籍のブームがあった。嬉しい本の名前を見つけようと、神田、銀座に出かけた折は、本屋を歩き回ったものである。
山中峯太郎、大佛次郎、吉川英治など、名だたる作家には心躍らせ、横山隆一ふくちゃん、田河水泡のらくろシリーズに出会った時は頬ずりしそうになった。
海野十三、樺島勝一画家の挿絵には、毎号少年倶楽部が届くのが、どれだけ待ちどおしかったことか。今どきの子供たちには想像もつかないことだろう。独りほくそ笑む爺さんである。
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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先輩寄稿への感想
桑原
年齢の差こそ多少あっても、同じ時代を生きた空気感、戦後のワクワク感を想いだします。
末安君の追悼文でちょと触れましたが、小学4年生ごろ(昭和23年ごろ)彼の家の古い蔵を探検と称して埃まみれの戦前の少年倶楽部、のらくろ、たんくたんくろう、などなど手にした時の興奮。
今の現役世代との人生体験の共有部分が少なくなって、例えば子供時代に経験したワクワクの対象、年功序列に支えられた人生プランの安定感、高度成長期、バブルなど今どきのそれとは比較するのも難しい。こうしていつの間にか歴史の流れが変わっていくのかも。
振り返りも悪くないですね。
先輩寄稿への感想です。
(2018/12/9 11:21)
 

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