短い門出を祈ろう

浅井 孝郎*
平成最後のお正月、三十一年一月一日、二日、三日と無事に過ぎた。 毎朝「おはよう」と起きてゆくと「ご無事でお目覚めおめでとう」の言葉が返ってきた。
年の瀬の十二月二十八日夕刻、二週間の入院生活だった私に、退院のお許しが出た。 それについて、担当の医師から受け止めようによっては厳しい通知を受けた。
「あなたの余命はあと二年以内と思って下さい。 血液の病気があるうえに高齢により血管がボロボロで手術が出来ません。延命治療は致しません」
この病院の対応がクールと言えるかは別として、八十七歳の私は比較的冷静に受け止めることが出来た。
心配顔の家内は
「この年末に自宅に帰り、どんな症状が考えられますか」
それに対して医師は
「朝、目が覚めたら冷たくなっているかも知れません。 また胸が痛く苦しくなったら救急車ですぐ来て下さい」
それでも、家内は初めての体験で、現実感が湧かないらしく、明るく振舞っているようだった。
このたび日大病院に入院治療を受ける経緯となったのは、次の次第である。
いつもながら、デイサービスに出席当日の十二月十五日(土曜)の朝、胃腹部にやや重みを感じて、 自宅マンション一階の青山医院に,十一時頃に診察をお願いした。 青山医師の判断で十一時半過ぎに救急車を手配して貰い、九月末から毎週木曜日に通院治療で縁のある、 日大病院集中治療室送りとなった。
そのまま入院となり、二週間の病院生活となった。 以後は車椅子の日々となりこんなに検査が多いものかと明けくれる毎日だった。
そして二十九日からの自宅療養となったのである。退院に際しては、毎週木曜日に通院して頑張るようにと、 大量の薬を渡された。
この度の宣告は受け止め方によっては厳しさを感じる人もいるかもしれない。
退院後に、連絡をくれた親しい友人三名ほどに話してみた。
「あと一、二年の寿命と聞かされちゃった」
三者三様ではあったが、それなりに絶句しながらも、驚いた言葉が返って来た。 そして、異口同音に心から励ましの言葉を頂戴した。有難いことである。
例年、晦日には、近くに住む長女が年越しそばを届けてくれる。今年も連絡を受けた。 新潟から里帰りで、自宅に帰ってきた婿殿が息子と赤羽の蕎麦屋で待ち合わせて、てんぷら蕎麦二人前を、 自宅分と共々に持参してくれた。
元日には昼過ぎに、長女宅四人家族で新年挨拶の来宅を受けた。 ここの孫も早や成人を迎えるので、お年玉も今年が終わりとなり、少しばかり奮発する。
藤沢在住の長男は二日の来訪だった。今日が家内の誕生日と覚えていて、途中の店でケーキを買ってきて、 大いに株を上げている。家内もわずかな間にいろいろとおせち料理を作ってくれた。 三時ごろ外出から戻った娘が立ち寄り、同じくケーキを持参した。 こちらは少し日持ちのするような気配りだった。
五十台の年齢を迎えた二人の姉弟、私と家内、久し振りに水入らずのお喋りに花が咲いた。 四人家族でこの家に引越して来て四〇年の歳月だ。
長男家族は角館に帰郷しており独り身の正月のようである。これも一興かもしれない。
今年は猪の歳とか、果たしていかなる夢が芽生えるか愉しみである。不安交錯しながらも、 新しい時代を迎えたいものである。
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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