戦時の宮崎中学へ

浅井 孝郎*
私が宮崎中学に入学したのは、昭和十九年四月であった。今から七十四年も前のことである。昭和十七年春、世界大戦を案じた母と二人、満州から両親の郷里宮崎に引き揚げてきた。赤江小学五年編入となり、その二年後に十五名の仲間と共に進学したのであった。
校庭のはずれに生徒が馴染む池があった。弦月湖と呼び、開校以来何十年もの間、同窓一同に愛され親しまれていた。懐かしい思いである。
当時の宮崎中学は、県下一円の受験生を合わせて、一年生五クラス二百五十名だった。寄宿舎も備わり、各学年三十名ほどの入学生があった。
もちろん県内全般で、延岡、都城、小林の各中学ともに、上級学校への進学率を競っていた。
その年の宮崎中学の入学試験は、身体検査と簡単な面接と口頭試問による極めて形式的なものであったように記憶している。二日後には合否の発表があった。
私は一年一組に入り、土持綱世先生の担当となった。当時としては、英語力の素晴らしい先生で、生徒に対して決して叱ったり、腕力を振るうことはなかった。後々、いくつかの校長職に就かれたと聞いている。
入学して感激したのは、新しく習い始めた科目だった。代数、幾何、物理、化学、東洋史、教練、等々、とにかく見るもの聞くもの全てが初めてであった。しかし、半年を過ぎるあたりから、国内の状況が次第に変わって来た。
十九年後半に入ると、東京、大阪の大都市をはじめ、各工業地区などに対するアメリカ空軍の爆撃が熾烈になってきた。宮崎のような地方都市にも、やがてその矛先が向いてくると思われた。
当時の通勤通学は、自転車が最大の交通手段だった。悲しいかな我が家には自転車が無く、また当時として一般家庭で求めることも難しかった。私も通学六キロほどの道のりを頑張って徒歩で通学した。
登校の際には戦闘帽をかぶり、地下足袋にゲートルを巻いていた。通学が二人以上になると必ず隊列をなして歩いた。自転車の教官が、後ろから生徒を追い越す時には、右側の者が
「歩調とれ。頭ぁ右」
とやったものである。
配属になっている職業軍人三名の、大佐、中尉、曹長が、生徒たちの軍事教官として日常訓練を担当していた。
二学期に入ると、三年生と二年生は先輩として後輩の指導に当たり、農家、工場の作業手助けに汗を流した。そちらの方が勉学よりも時間は多かったかも知れない。
昭和二十年の四月に入って、私たちは二年生となった。先輩四年生は。延岡の旭化成の軍需産業に住み込みの配属となり、三年生は最寄りの農場に泊まり込みとなった。もはや勉学どころではない、作業に専念の日々であった。
私たちは、一年生を伴い、出征して人手のなくなった農家の農作業の手伝いに当った。農家で午後の一服の折に出される握り飯は、当時の食料事情として、どれだけ嬉しかったことか、その時代を体験した者でなければ、理解できないかも知れない。
私の住まいだった赤江町は、宮崎空港の近くにあった。空襲の危険を感じた母は、郊外山手の下北地区に疎開することを決めた。母の行動の手早い事には驚くばかりであった。
宮崎中学で最上級生となった私たち二年生のうち九十名が選ばれて、三班に分かれ教室に泊まり込みで、警備を担当することになった。私もその中の一員として任に当たるよう命ぜられた。
二十年八月十一日十一時、数機のアメリカ戦闘機による焼夷弾の空爆が始まった。木造主体の宮崎の住宅街はたちまちのうちに焦土と化した。母校にも、火の手が回るのは早かった。名ばかりの警備体員だった私たちは、あっという間に崩れ落ちる奉安殿と校舎の前に佇んでしまった。手の施しようもない火の手を前に、戦闘帽の職員生徒一同三十名ほどは万歳三唱して見送りをしたのだった。
八月十五日の正午、玉音放送があると予告があり、二年、一年数十名の生徒が緊張した正午だった。校庭の前で初めて陛下のお声を聞いて、身も心も震えたのは、私だけではなかったと思う。
宮崎中学の一年半あまりは、何ものにも代えがたい経験であり、その間に出会った人びとは、もう二度と会えない素晴らしい人たちだった。今もなお、友人、先輩の名前を幾度も思い起こそうとする私である。
* 八期生浅井伸子さんのご主人です。(HP管理者)
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