次なる科学
2050年の世界 英『エコノミスト誌は予測する』より
石井俊雄
一冊の本がある。
「2050年の世界 英『エコノミスト誌は予測する』」という本だ。
第一刷は2012年8月5日、著者は「英『エコノミスト』編集部」とある。
内容の紹介は、先の「人口の配当」で紹介すみなので省略する。
小生は、その中から幾つかの論文を拾い読みしたので、面白いと思った部分を抜粋することで紹介することにする。
抜粋だから、小生の私見は書かない。だが私見を書くときはその旨を表示しよう。
そしたら、「英『エコノミスト』編集部」の予測なのか、小生の私見に無駄な時間を費やさないために読み飛ばす可き箇所なのか、鮮明に分かるだろう。
第16章「次なる科学」から抜粋
- 序論
- 人類の知への探求は新たな領域に入り、そこでは上下関係に苦しむ東洋より、リベラルで序列にとらわれない欧米諸国の方が、より多く研究し、
より多くの実りを手にする。
- 次なる科学のフロンティアは、化学でも物理でもなく生物学にある。
生物学とナノ化学、情報科学、天文学などが結びつき、様々な発見と人類にとっての進歩をもたらす。
- もうひとつ科学の世界に大きな変化があるとすれば、知的なものではなく地理的なものだ。
非欧米諸国が経済面で欧米諸国と肩を並べるようになると、その多くが科学の面でも追いつこうとするだろう。
その努力が成功すれば、知的集団がどっと科学界に流れ込んで活躍を始め、科学の世界は変貌する。
しかし、成功するという保証ははない。というのも、そういう国が科学の面で欧米諸国に並ぶには社会的代償を支払わねばならず、
その国の指導者が好まないかもしれないからだ。
- 未来の科学は何か
- 遺伝子解明
- 新しい脳スキャンの技術を駆使すれば、脳のどの部分が身体各所の細胞レベルとどう連携しているか明らかになるだろう。
高速化し、高機能化したコンピューターなら、そういう発見をソフトウエアでモデル化できる。
- そうなれば脳の仕組みが明らかになり、同じ原理を使った人工知能の組立も可能になる。
これはロボット工学を進歩させるだけではない。今のところそれらしい糸口がなく、手付かずとなっているひとつの自然現象である”意識”の壁が、
科学の力で打ち破られる公算も高い。
- 遺伝子操作
- 脳の理解が深まることによってもたらされる成果がある。人類の自己感を変えるかもしれない。
例えば、地球の様々な地域に生まれた個体群−−−政治的に含みの多い言葉を使うなら人種−−−の間には、
本質的な精神構造の重大かつ系統だった違いがあるのか、それとも、人類はほんとうに”ひと皮むけばみな兄弟姉妹”なのか、
そいうことも、いずれ明らかになるだろう。
- 研究者たちはまた、人生の成功のどこまでが個人の遺伝子構造にくみこまれたもので、どこからが教育によって得られたものかを解明するだろう。
教育分野そのものが、新しい脳科学によって生まれ変わるはずだ。
こどもの遺伝子を操作して子孫によりよいチャンスを与えてやれるようになる可能性もある。
- 神による創造を信じない人でさえ、植物や他の動物とは切り離された存在として人間を区別する傾向がある。
しかし、今後ホモ・サピエンスの進化論的、遺伝的な祖先が明らかになり、人間の特異性が、つまるところ生存と生殖の機能でしかない”進化論的適応”
のひと言でかたづけられると、そういう考えかたは受け入れられなくなるだろう。
- 天文学
- 惑星の大気中に遊離酸素が含まれていれば、それはその惑星に生命体が存在する決定的証拠となる
(酸素は反応性が高く、欠乏させないためには恒常的に供給する必要があり、生物を媒介させずに供給する方法はまだ見つかっていない)。
逆に言うと、酸素が存在した形跡、もしくは、酸素がなくても他の何らかの方法で化学平衡を抜け出そうな形跡
(生命体が存在しない星では、大気は化学平衡を保って変動しない)が大気に認められなければ、その星にはおそらく生命体は存在しない。
- ここで、地球上の生命体はどのように誕生したのかという難問中の難問に突き当たる。
答えは現代人の細胞の仕組みを掘り下げることでわかる。
すなわち、細胞の中の真に原始的で、従って最初に生命活動が始まったときに発生したと思われる部分を見極め、実験室内の実験で、
原材料とエネルギーを注入するだけで忠実に自己再生できる最も単純な化学反応システムを見つけるのだ。
- 遺伝情報を伝達する核酸と働き者のたんぱく質をもとに、生物を私たちの知るそのままの姿で再生できれば、大きな前進になる。
それはまた生物学者に、これまでと異なる新たな生命体を誕生させる道を模索させることになる。
そういう正真正銘の人口生命体の代謝作用は、宇宙生物学者の望遠鏡が酸素以外のどんな気体を宇宙空間に探せばいいのかという問いに答えてくれるかもしれない。
- 中国で科学は発展するか
- 「未来の科学は何か」を論じるのはここいら辺でやめておこう。しかし、次に、未来の科学は何処に向かうかという第2の問が立ちはだかる。
科学の表舞台では今後も、欧米諸国の活躍が続くのだろうか、それとも日の出の勢いのアジア諸国が台頭してくるのか?
- これは奇妙な設問に聞こえるかもしれない。人種差別的な響きを感じる向きもあるだろうが、それは本意ではない。
主旨はむしろ、どんな社会であれば、好奇心を原動力にした研究が花開くかというところにある。
科学に関して、今までひとつ真実であり続けたのは、それがもっぱら現代西洋社会の産物だということだ。
昨今の多文化の時代、バグダッドのカリフや中国の宋王朝を、革新的な科学を勝利した為政者として賛美する風潮がある。
同様に、ヨーロッパの科学革命は古代ギリシャに負うところ大だという説もある。
さらには、コロンブス到来以前のアステカやインカ、マヤ王朝の科学までが、一部では褒め称えられる。
しかし、そういう歴史上の先達の存在は、まやかしの後光にくるまれている。
- ギリシャ思想の再発見は、確かにルネッサンスの科学的な面に刺激を与えた。
しかし、数学的な発想を別にすると、ギリシャ人の自然観がほぼ全面的に的はずれだったことは記憶しておく必要がある。
プトレマイオスの天動説に始まり、四体液説をもとにしたガレノスの医学に至るまで、ギリシャの学説は実効性に乏しく、
西洋科学の黎明期には、ほんものの真理に迫るべく、古来受け継がれてきたギリシャの叡智のしがらみを脱却することに多大な努力が注がれた。
- アラブと中国も、同じくらい買いかぶられてきた。どちらも多くのデータとかなり実用的な技術を生みながら、
たいした理論を(ここでも数学は別として)生まなかった。
更にどちらも、致命的な欠点として、実験による理論を検証し、必要なら旧来の学識を排していくという姿勢を持たなかった(1)。
優れた科学は、それとは正反対に統制を嫌い、権威ではなくデータのみを尊重する。
- そして、そこにジレンマが生じる。
アジア諸国、特に中国は科学の振興を目指すことを言明している。
科学振興は実際、中国近代化四大戦略のひとつだった。
ところが科学は、権威に従うのではなく挑むことで進展する。
今のところ非西洋では随一の技術大国である日本でさえ、本格的な基礎科学の研究は立ち後れている。
日本人研究者で科学部門のノーベル賞を受賞したのはわずか15人。
それは、例えばオーストリアの受賞者より1人多いだけ−−−オーストリアの人口は日本の人口の7パーセント以下−−−で、
その理由のひとつとして、日本の若手科学者が先達の理論に迎合しがちなことがしばしば挙げられる。
これに対し欧米では旧来の理論を否定することでキャリアが築かれる。
権威の軽視によってもたらされるものは、個人のキャリアにとどまらない。
西洋科学の隆盛に伴いリベラルな思考様式が広まって、やがて世の中に政治的変容がもたらされ、ガリレオからダーウィンに至る科学者たちは、
当時の権力者が長らく依存していた社会規範を覆してきたのだ。
- アジアの新興国はこれまでのところ、革新につきものの破壊思考に手を焼くこともなく、4世紀にまたがる西洋の科学革命がもたらした実りだけを享受してきた。
そして低雇用層の活性化に資金をつぎ込み、先進諸国が目にしたこともないような経済成長を達成している。
しかし、一旦、欧米諸国に追いついたら、アジア諸国は次に何を目指すのだろう?
- この問に対する答えのなかに、科学の未来、および人類の未来がある。
欧米諸国が苦労してやっと獲得した、科学の繁栄につながるリベラルで知的な環境を新興国でも実現できるなら、その国は科学の面ばかりか社会的、
政治的な面でも繁栄するだろう。
もし実現しないなら、あるいは実現できないなら、彼らの行く末には日本と同じ運命が待ち受ける。
つまり、ぬるま湯のような暮らしの中でぼんやり日を過ごし、真に新しいことには気持ちがむかなくなるのだ。(2)
日本のこの現状に鑑みれば、科学者たちが民主的な序列にとらわれないインド(伝統的に数学に強いもうひとつの国)の方が、
永遠のライバルである権威主義的な中国より前途有望だと言えるだろう。
- まとめ
- 次なる科学のフロンティアは、化学でも物理でもなく生物学にある。
生物学とナノ化学、情報科学、天文学などが結びつき、様々な発見と人類にとっての進歩をもたらす。
- 経済成長によって東アジアの国々は、科学分野でもさまざまに進出しているが、真に独創的な研究は、権威を根こそぎひっくり返す革新性を必要とする。
その意味で、東アジアの儒教的な上下関係、あるいは中国の専制的な政治体制はマイナスに働く。
その意味で、専制的な中国よりも、民主的なインドにおいて科学は発展するだろう。
- 非西洋では随一の技術大国である日本でさえ、本格的な基礎科学の研究は立ち後れている。
その理由のひとつとして、日本の若手科学者が先達の理論に迎合しがちなことがしばしば挙げられる。
これに対して欧米では、旧来の理論を否定することでキャリアが築かれる。
私見
- 現代西洋社会が成し遂げてきた科学革新の源泉は、「実験による理論の検証」(アンダーラインの箇所(1))と、
「リベラルで知的な環境」(アンダーラインの箇所(2))であろう。
- 「実験による理論の検証」という考え方は漢籍を通した学問では聞いたことがない。そんな考えが絶無だからだろう。
江戸期に勃興した国学においても同様だ。「理論」とか「実験」という概念あるいは言葉があっただろうか。恐らく明治初期の造語だろう。
そのような科学的思想に無関心の風潮は、今でも脈々と受け継がれていると思う。
- 「リベラルで知的な環境」とは、儒教的な上下関係、あるいは「和の尊重」という価値観に汚染されないという意味である。
儒教とは、そもそも政治学の範疇の学門である。
徳川家康に仕えて政治顧問を務めた儒官林羅山、6代将軍家宣に仕えて政治顧問を務めた儒官新井白石を見れば明らかだ。
ということは、自然科学的真実とは無關係の人間社会の諸調整術を専らとしてると思う。
また、和の考えも儒教同様、人間社会の調整術の1つであり、自然科学的真実とは關係ないのだ。
- 我々は、儒教や和の価値観から、時代にふさわしい価値観に乗り換えて行かなければならない。
知に働けば角が立つと言ったのは、夏目漱石だが、先進国として誇りある地位を維持し世界の発展に資するためには、情に流されてばかりではいられないだろう。
- 遺伝子操作が出来るようになると、例えば、「親知らず」は無くなるかも知れない。というのは、親知らずというのは、
そもそも歯列の幅が短すぎることに原因があるのだからして、歯列の幅を広げてやればいいわけだ。
その歯列の幅を広げるにはどうするかだけど、頭の寸法を広げればいいとなる。
従って、結論を言えば、「頭の寸法、特に奥行を決める遺伝子を特定し長頭型の遺伝子と置き換える」となる。
世界で一番長頭型の人種はエジプト人だそうだから、そこからパクるのがいいかも。
・・・だが、遺伝子の特定は難題だろう。何故なら、頭の形を決める遺伝子と、その鞘に収まる内容物の遺伝子との相互調整の仕組み、
などなど、解明されなければならない仕組みの数は多いだろうから。・・・そもそも、容れ物(頭のこと)と中身とどちらが優先順位が高いのか。
中身の大きさが先に決まって、容れ物に「あと少し広がってくれ!」などと言うのだろうか。それとも、容れ物の大きさが先に決まって、
中身はそこに隙間なく収まるように成長するのだろうか。恐らく容れ物と中身はお互いに会話しあいながら形成されていくことだろう。
原理は単純だろうが、見つけるのは大変かな。だが面白そう。
- 人種間には、本質的な精神構造の重大かつ系統だった違いがあるのか、それとも、人類はほんとうに”ひと皮むけばみな兄弟姉妹”なのか、
そいうことが明らかになれば面白い。
だが、解るのは統計的なものだろう。例えば、「音楽的感性の上位者において、X型遺伝子の保有者は90%だ」とか。
そして、「A人種のX型遺伝子保有者は80%だ」とか。・・・分かったような分からないような表現だけど、恐らく、大騒動になるだろう。
- 私見の最初に、現代西洋社会が成し遂げてきた科学革新の源泉は、「実験による理論の検証」と「リベラルで知的な環境」と書いたが、
この2つの源泉の更なる源泉は何だろう?という疑問が生じる。
・・・・考えるにその答えは、国民一人一人の「オープンマインド」と言う類の習性にあるのではないだろうか。
今の言葉で言えば、「情報公開」だ。
そういう観点から我が国のやり方というか習性を眺めると、家元制に代表される秘密主義にぶっつかる。
考えれば、秘密主義と和の精神は密接に連携した我が国民の習性かもしれない。
となると、「リベラルで知的な環境」の実現はかなり難しくなる。
・・・従って、ノーベル賞受賞者を量産するには、国内産は無理で、外国の研究所に依存することになるかもしれない。
なんともはや、情けない結論だ。
「オープンマインド」と「秘密主義」の違いは、前者が基本的には情報公開するのに対し、後者は基本的には情報公開しないことだ。
どこまで行っても秘密主義を貫くのだ。
これでは、特許制度は必要ない。特許制度は「情報公開」が前提だからだ。これでは、国レベルでは先進国の後塵を拝することになるだろう。
- しかし、この章の「未来の科学は何か」という問の「科学」は、主に基礎科学を指しているように思われる。
となると、応用科学、所謂、工学のレベルの研究についてまで、その主張を適用してよいものだろうかとの疑念が生じるのだ。
この章を書いた記者が主張するように、「ぬるま湯のような暮らしの中でぼんやり日を過ごし、真に新しいことには気持ちがむかなくなる」のであれば、
戦後、わが国が為し遂げた経済大国第二位の実績は、どうやって説明したらいいのだろうか?
・・・そんな疑問が起きてくる。・・・若しかして、「和の精神」が物作りに果たす役割を軽視し過ぎていはしないだろうか?
・・・西洋人の目から見た論旨については、偏することなくよくよく考えねばならないだろう。
しかし、経済大国第二位の実績と言っても、高々ここ半世紀のこと。その程度のスパンでは、線香花火程度のことかもしれない。
・・・多分、そうだろう。問題は、悠久の歴史の中では継続性にこそあるのだから。
- もう少し書き足そう。
いままで、現代西洋社会が成し遂げてきた科学革新の源泉は、「実験による理論の検証」と、「リベラルで知的な環境」であろうと論じ、
さらに、この2つの源泉の源泉は、国民一人一人の「オープンマインド」と言う類の習性にあるとし、
その習性は情報公開型社会の形成に繋がったのだと推論した。
そして、ここで書き足したいのは、その情報公開型社会がもたらしたものは何かということだ。
・・・その答えは、「学会」ではないだろうか。情報公開の世界では自ずと意見交換の場を必要とすることになることは想像に難くないからだ。
わが国では、明治以降、西洋に倣っていろいろな学会が作られたが、それまでは自発の学会というのは聞いたことがない。
基本的には秘密主義の社会では必要ないからだ。
秘密主義についての追求は暫く置くとしよう。重要なのは「学会」の効用だ。
今日、NHKで「素数の魔力に囚われた人々」(再放送)を見ていたら、
プリンストン高等研究所で行われたある学会での数学者と素粒子物理学者の偶然の出会いが、
素数と物理現象を結びつける大きな発見に繋がったと述べていた。
普段は接触のない別世界の科学者が学会を機に接触したとき世紀の発見があることもあるのだ。
かくて閉じた世界と開かれた世界の差の大きさが分かるというもので、現代西洋社会が一歩も二歩も先を行くわけである。
家元制度とか原子力村とか、このような閉ざされた世界を生み育てる社会に、世界のリーダーの資格があるのだろうか?・・・ないよね。
・・・あるのは精々脇役だろう。
(この段追記、2012/9/11)
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