漢詩 代悲白頭翁
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石井俊雄
岩波文庫の「中国名詩選」(松枝茂夫編)の中にある、
劉希夷(りゅうきい)の「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わって)という漢詩を拾い読みした。
この詩は、「洛陽城東、桃李の花」で始まり、「年年歳歳、花相似たり」、
「歳歳年年、人同じからず」などと続く句で有名。
学校でも習ったので、馴染みの方も多いだろう。
この後、「言を寄す、全盛の紅顔の子」、「まさに憐れむべし、半死の白頭翁」などと続く、
全26句で終わる七言古詩だ。
半死の白頭翁と来るのがいやらしいが、「此の翁 白頭 真に憐れむ可し、これ昔は紅顔の美少年。」と来て、
「一朝病に臥して相識無く、三春の行楽 誰が辺りにか在る」というように展開されて行く。
時は今、桃李の候、実に、われわれにピッタシの詩ではないだろうか。
よって、健康に資すことを願い引用する。よかったらご覧ください。
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今日、花開いた杏の花だ。李の代わりのつもりだが勘弁ね。
塀際に辛うじて立つ花なのでアップで掲示する。引いて撮ると周りの異物が写って興を削ぐから。
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同じ樹の別の枝を撮ったもの。
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代悲白頭翁(5)
(白頭を悲しむ翁に代って)
洛陽城東桃李(1)花 | | 洛陽城東 桃李の花、 | |
飛來飛去落誰家 | | 飛び来たり飛び去って誰が家にか落つ。 | |
洛陽女兒惜顏色(2) | | 洛陽の女児 顔色を惜しみ、 | |
行逢落花長歎息 | | 行々落花に逢うて長歎息す。 | |
今年花落顏色改 | | 今年 花落ちて顔色改まり、 | |
明年花開復誰在 | | 明年 花開いて復(ま)た誰か在る。 | |
已見松柏摧爲薪 | | 已(すで)に見る 松柏の摧(くだ)かれて薪と為るを、 | |
更聞桑田變成海 | | 更に聞く 桑田の変じて海と成るを。 | |
古人無復洛城東 | | 古人 洛城の東に復(かえ)る無く、 | |
今人還對落花風 | | 今人 還(ま)た落花の風に対す。 | |
年年歳歳花相似 | | 年年歳歳 花相似たり、 | |
歳歳年年人不同 | | 歳歳年年 人同じからず。 | |
寄言(3)全盛紅顏子 | | 言を寄す 全盛の紅顔の子(こ)、 | |
應憐半死(4)白頭翁 | | 応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁。 | |
(口語訳)
洛陽の城東に咲き乱れる桃や李(すもも)の花は、風の吹くままに飛び散って、どこの家に落ちてゆくのか。
洛陽の乙女たちは、わが容色のうつろいやすさを思い、みちみち落花を眺めて深いため息をつく。
今年、花が散って春が逝くとともに、人の容色もしだいに衰える。来年花開く頃には誰がなお生きていることか。
常緑を謳われる松や柏も切り倒されて薪となるのを現に見たし、青々とした桑畑もいつしか海に変わってしまうことも話に聞いている。
昔、この洛陽の東で花の散るのを嘆じた人ももう二度と帰っては来ないし、今の人もまた花を吹き散らす風に向かって嘆いているのだ。
年ごとに咲く花は変わらぬが、年ごとに花見る人は変わってゆく。
今を盛りの紅顔の若者たちよ、どうかこの半ば死にかけた白髪の老人を憐れと思っておくれ。
此翁白頭眞可憐 | | 此の翁 白頭 真に憐れむ可し、 |
伊昔紅顏美少年 | | 伊(こ)れ昔は紅顔の美少年。 |
公子王孫(6)芳樹(7)下 | | 公子王孫 芳樹の下、 |
清歌妙舞落花前 | | 清歌妙舞す 落花の前。 |
光祿池臺開錦繍 | | 光禄の池台 錦繍を開き、 |
將軍樓閣畫神仙 | | 将軍の楼閣 神仙を画く。 |
一朝臥病無相識(8) | | 一朝病に臥して相識(そうしき)無く、 |
三春(9)行樂在誰邊 | | 三春の行楽 誰が辺りにか在る。 |
宛転(10)蛾眉(11)能幾時 | | 宛転(えんてん)たる蛾眉(がび) 能(よ)く幾時ぞ、 |
須臾(12)鶴髪(13)亂如絲 | | 須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ) 乱れて糸の如し。 |
但看古來歌舞地 | | 但(た)だ看る 古来歌舞の地、 |
惟有黄昏鳥雀悲 | | 惟(た)だ黄昏 鳥雀の悲しむ有るのみ。 |
(口語訳)
なるほどこの老いぼれの白髪頭はまことに憐れむべきものだが、これでも昔は紅顔の美少年だったのだ。
貴公子たちとともに花かおる樹のもとにうちつどい、散る花の前で清やかに歌い、品よく舞って遊んだものだ。
音にきく漢の光禄勳王根の、錦をくりひろげたような池殿や、大将軍梁冀の館の、神仙を画いた楼閣のそれもかくやと思うばかりの、贅を尽くした宴席にも列なったものだ。
しかしいったん病の床に臥してからは、もはやひとりの友もなく、あの春の日の行楽はどこへ行ってしまったことやら。
思えば眉うるわしい時期がどれほど続くというのか。たちまちにして乱れた糸のような白髪頭になってしまうのだ。
見よ、かつて歌舞を楽しんだ場所も、今はただ夕暮れ時に小鳥たちが悲しくさえずっているばかりではないか。
(註)
- 桃李 … 桃と、すもも。
- 顔色 … 顔の様子。容色。「かおいろ」の意ではない。
- 寄言 … 聞きなさい。呼びかけの冒頭におく言葉。
- 半死 … 死にかかっている。
- 白頭翁 … 白髪の老人。
- 公子王孫 … 貴族の子弟。
- 芳樹 … 花の咲いている木。
- 相識 … 知人。友人。
- 三春 … 陰暦の春三か月。孟春・仲春・季春をいう。
- 宛転 … 眉が美しく曲がっているさま。
- 蛾眉 … 三日月形の美しい女性の眉。
- 須臾 … ほんのわずかの時間。
- 鶴髪 … 鶴の羽のような白い髪。白髪のたとえ。
以上、受け取り方はいろいろだろうが、老いという宿命、受けて立ちましょう。
力を合わせて、励ましあって。
劉希夷(西暦651−679?)。字は庭芝。一説に名は庭芝、字は希夷。
琵琶の名手で美男の誉れ高かったが、素行が悪く、675年進士となるが終生官位につけなかったとか。
字(あざな)という言葉が出たので、少々調べてみた。
出典は、陳瞬臣の「日本的中国的」(徳間文庫)だ。
それによると、
「原則として名は与えられるもので、字は自分で選ぶ。
では、何故、字をつけるのかと言えば、同姓同名が日本より多いからである。
中国人の姓は五百か六百くらいしかない。同姓同名の人が多くなるのは当然だろう。」
と書いている。
東夷・西戎・南蛮・北狄という言葉があることからも分かるように、「夷」(えびす、えみし)という文字は、
差別用語だ。それに、「希」という字を被せて「希夷」。
これは、名前に適さない字、例えば、病、死、苦、醜などあるが、その中から使った例として、
漢代の将軍「去病」(病を去る)があるが、それと同じように、「希夷」(薄いえびす)としたのだろうか。
なお、「去病」(病を去る)までは、陳瞬臣だが、「希夷」(薄いえびす)は小生の作。
陳さんの名誉を汚してもなんだから記しておく。
なお、題名の「白頭を悲しむ翁に代わって」の「代わって」の意味は、作者が若いから、老人に代わって詠んだ、と云う意味だろう。
卒年に「?」が付いているが、それでも結構若くして亡くなったようだ。
何故なら、母方の叔父宋之問が「年年歳歳・・・」の句を譲って欲しいと求めたが、これを拒絶したため、
宋の奴僕に殺されたという。自然死ではない所為だ。
それにしても、この若さで、これだけ書ければ、大したものだ。名誉はずーっと残って今、我々に影響を与えている。
若し、譲って、長生きしたとしても、これだけの功績は残らなかったかもしれない。
そう言う意味で、彼の若い死は、「コラテラル・ダメージ」(Collateral Damage)
(目的達成のための副次的犠牲)だった。
でも、本人は不本意というかもだ。
もう一つ、陳瞬臣の「日本的中国的」から採れば、白頭が髪全体が白いことなら、では、白黒半ばする場合、
どう言うかといえば、「頒白」(はんぱく)と言うそうだ。
小生の場合がそれだ。禿頭(とくとう)ではない。近いところもあるけど。
冗談はさておき、この本、実に面白い。何故なら、日本人の性質をかなり的確に捉えているように思えるから。
それに、中国人の性質や考え方の基本が少しだが分かるようにも書いてある。
例えば、
「秦の始皇帝が天下を統一して、統制国家をつくり、次の漢代で儒教が国教として定着しはじめてから、
想像力というものは次第に異端視されるようになった。
なにしろ儒教の姿勢は、『論語』にもあるように、『述べて作らず』・・・作り事をしないように、厳しく戒める。
そして事実をそのとおり述べる。前代から受け継いだものを、そっくりそのまま次の代に伝えることを重んじた。」
この記述から、中国人の基本姿勢として『述べて作らず』があることが分かる。
日本人だけでは、そこまでは分からないだろう。
この基本姿勢のデメリットは、既成事実からの脱却に必要な重要要素である『想像力』が生まれないことに繋がるのだ。
このことから、近代中国の停滞が必然だったことが分かるのだ。
以前から、儒教の弊害として想像力の欠如をあげた記述を、どこかで読んだことがあるが、
中身的にはそういうことだったのかと合点が行ったことだった。・・・まだ他の要素もあるから、そう簡単に合点すべきではないと思うが。
更に、日本については、次のような指摘がある。
「隣に中国という議論好きで、しかも記録好きの国があり、ありとあらゆることを記述した書物を日本に流し込んだ。
学習用トラの巻を渡されたたので、問題に出会っても、すぐ解答を見ることができた。
あれこれ考えることや、段階的理論の組み立ては、からごごろとして軽くいなし、それよりも、
もっぱら情緒に磨きをかけることを心がけたのではあるまいか。」
・・・
「事実より先に知識が存在したのは、良かったか悪かったか。幕末に魏源の『海国図志』など、阿片戦争関係の文書が、
唐船によって長崎にもたらされたが、これは西洋の侵略という事実の起こる前に、それについての知識が与えられたのだから、
大そう幸福なケースといえる。」
・・・
「こんな風に、政治面では、やはり先取りが望ましい。だが、精神面についていえば、あらかじめパターンをつきつけられると、かえってまずいのではあるまいか。
オリジナリティが特に尊重されるジャンルでは、パターン、ことに強烈なパターンの存在は、
迷惑千万というほかはない。」
我々には、「何も無いところから作り上げてきたもの」って在るのだろうか?
縄文時代はともかくとして、弥生期辺りからは、中国文明の影響を受けてきた。
確かに、陳さんが言うように大きな参考書があったのだ。
どの国も何らかの影響を受けないで、自国だけで大きくなった国は無い。
でも、わが国ほど文明の受容に無抵抗だった国は無いのではないかな?
要するに、基本的な部分にオリジナリティの底が無いのかも知れないのだ。
だから、底が抜けてる可能性がある。
ま、言うなれば受験生みたいなものだ。・・・要検証だな。
底が無ければ、世界をリードして行く役割は無理。
自由と民主主義など、西欧文明が生み出した基本理念だ。
わが国は、G8などと言っているが、基本理念は借り物で乗かっているに過ぎないのかも知れない。
でも、中国はオリジナリティを生んだ国。受け入れないことはあり得る。
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