「巫山の雲」考

 
石井俊雄
陳瞬臣著の「日本語と中国語」を読んだ。
面白い。
陳瞬臣氏は、ウイキペディアに拠ると、「陳 舜臣(ちん しゅんしん、1924年2月18日 - )は、推理小説、 歴史小説作家、歴史著述家。代表作に『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。 『ルバイヤート』の翻訳でも知られる。神戸市出身。本籍は台湾台北だったが、1990年に日本国籍を取得している。 日本芸術院会員。」 とある。詳しくは、ここを参照のこと
彼の著作「日本的中国的」によると、五つか六つのころから、祖父に「三字経」、「小学」、「論語」、「詩経」を教わったそうだ。
その彼が、自著の「日本語と中国語」で、中国の文章の特長として、「性関係のことを婉曲に表現する」と書いており、 その話は戦前の右翼軍人たちが愛唱した「昭和維新の歌」にも及んでいる。
面白いので、その部分をそっくり抜粋すると、
仏典でも、サンスクリットの原典には、セックスにかんする事柄が続出しますが、漢訳仏典はたくみにそれを婉曲に表現しています。 たとえば、「抱擁」という言葉が出てくると、それに相当するサンスクリット語"alingand"をそのまま音訳して、「阿梨宜(アリギ)」としています。 普通の人には、さっぱり分からないでしょう。
・・・女色のほうの雅語はどうでしょうか?これもいろいろありますが、代表的なものは、「雲雨」あるいは「巫山」といったところでしょう。 もちろん、これも故事があります。
として、次の故事を紹介している。
楚の懐王は、高唐というところに遊び、夢に巫山の神女(みこ)と一夜をすごしました。その神女は立ち去るときに、
妾(わたし)は巫山の女、旦(あした)に雲となり、暮には雨となる。
と言ったのです。
と書いて、
中国の昔の軟文学を読んでいると、かんじんなところにくると、
雲雨のことあり。
一段の巫山の雲あり。
などさらりと逃げています。
戦前に、右翼軍人たちが、昭和維新をさけび、「昭和維新の歌」というのをつくり、壮士たちが大いに愛唱したものです。
その歌の冒頭はたしか、
泪羅の淵に波さわぎ
巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世にわれ立てば
悲憤に燃えて血潮湧く
というものでした。
憂国の詩人屈原が追放され、悲憤のあまり投身自殺したのは、たしかに泪羅(べきら)のほとりですから、憂国者がその地名を思う気持ちはわかります。 ところが第二句はなんでしょうか? 「巫山」の二字だけで、「男女の情事」を指すことであり、巫山の雲(または雨、あるいは夢)となれば、もうまちがいなしに、セックスのことであります。 それが乱れとぶのですから、これは乱交パーティーをおもわせます。
・・・しかし、これを盛んに唱った壮士は、乱れとぶ巫山の雲を、なにやら悲壮感をただよわせたシーンと受けとっていたようです。 何人かの人に訊きましたが、誰一人、それをセックスに関係のあることとは認識していませんでした。
とのこと。
これが真実なら、この歌を唱って放歌高吟する面々って滑稽にして噴飯ものだ。
押並べて言えば、故事、神話、宗教がらみの慣用語は、ホーリナー(隣人、部外者)にとっては難しい。 この場合も、作詞者はネイティブ中国人に監修を仰ぐべきだったかも知れない。
小生、陳舜臣説の信憑性を論ずるほどの学識・知見を持たないので、これが正しいとまでは言わないが、斯かる知見もあることを紹介しておく。
最後に歴史上の疑問を一つ、中国の昔の軟文学、果たして売れたのだろうか?
 
 
 
 
陳瞬臣氏の受け売りだけではつまらないので、実際の漢詩を挙げておく。 李白の「清平調詩二」だ。
一枝農艶露凝香一枝の農艶 露 香を凝らす
雲雨巫山枉断腸  雲雨巫山 枉(ま)げて断腸
借問漢宮誰得似  借問す 漢宮 誰れか似たるを得ん
可憐飛燕倚新粧  可憐の飛燕 新粧に倚る
「枉」はむだなこと。「飛燕」は趙飛燕、古来の代表的な美人の一人。「倚新粧」は、新粧は化粧したて。倚はたのみとすること。 化粧したばかりの美しさをたのみ、誇らかに示すことをいう。(以上、岩波書店「唐詩選」より抜粋)
「清平調詩二」は、楊貴妃の美しさを讃えた漢詩三首の二番目のものだが、貴妃を趙飛燕に擬えたところがあるのは、貴妃をいやしい女として侮辱したものだと讒言され、 李白は官職を得ることが出来なかったそうだ。
この漢詩では、セックスの意味が伺えないようにも思える。陳舜臣説は硬文学では通用しないのかも。 それとも、時代を下るにつれ軟文学を通して意味が変化したのかもしれない。
そんな意味では、折角挙げた漢詩の例も枉例だったか!
 
 
 
 
 
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