- イントロ
(司会) 大戦前夜、哲学者三木清によって書かれた「人生論ノート」、一筋の希望として人々に読まれた。
怒りと憎しみ、虚栄心、嫉妬など、私たちを苛む情念について取り上げています。情念と同付き合えばよいのか、今回のテーマは「自分を苦しめるもの」ということなんです。
(指南) 怒りや憎しみ虚栄、嫉妬、そういう我々の生きることの妨げになるようなマイナスの感情のことです。
そういう感情は誰にでもあります。ですから三木は決して否定していません。例えば虚栄とは“人間そのもの”と言っていますし、とても人間的な感情だとも言っています。
- 時代背景
(司会) ファッシズムの嵐が吹き荒れ、言論の世界にも大きな影を与えていました。
同じ頃、日中戦争がはじまり、日本全体が暗い影におびえていた時代、三木は同時代の人に向けて、いかに生きるべきかという根源的な問題を問いかけます。
- 虚栄心とは何か
(朗読) 虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄はあらゆる人間的なもののうち、最も人間的なものである。
(司会) 人間は生きる上で、常に何らかの不安や恐れを抱えています。それから少しでも目を逸らせるために自分以上の自分を作り出そうするのです。
全ての人間的といわれるパッションはバニティ(虚栄)から生まれる。
自分をより高めたいという思いも虚栄心。いったい我々は虚栄心とどのようにして付き合えばよいのでしょうか。
三木は創造が鍵になると考えました。
(朗読) 如何にして虚栄心をなくすることができるのか。創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである。
フィクションの実在性を照明することである。
(司会) 虚栄とどう付き合っていけばいいのか、三木は3つの方法を提案しています。
(イラスト)
@ | 虚栄を徹底する |
A | 虚栄心を小出しにする |
B | 創造によって虚栄を駆逐する 創造的な生活のみが虚栄を知らない。 創造というのはフィクションを作ることである。 |
(指南) @ 虚栄を徹底する:仮面をかぶり続けて虚像をとことん演じきる。一生、仮面をかぶり続ければその虚像が本像になる。
そもそもperson(人間)はラテン語のペルソナです。ペルソナとは“仮面”のことです。人間とは仮面をかぶるものなのです。
(指南) A 虚栄心を小出しにする:ささやかな贅沢をする。ちょっとしたおしゃれをしたり、そんな工夫をすることと考えている。そこそこの虚栄心が必要だということです。
(指南) B 創造によって虚栄を駆逐する:創造とはフィクションを作ることである。
三木は、人生とはフィクションを作ること、と言ってるわけです。
人というのは孤独では居られない。独りでは居られないから他人の目や評価を常に気にするのですよね。
そういう気持ちから作られる人生は虚栄なのです。そうでない人生があるのだと。だから他者の評価、他社からどう見られるかではなく、自分の意志で創造していけば、
虚栄を駆逐することができる、との事です。
と言っても、虚栄は全てがダメという訳ではありません。
今ある自分よりもより上を目指す。その為に努力をする。これは虚栄心と言うよりむしろ向上心と言っていいと思うのです。
- 嫉妬について
(司会) 私たちの心を乱すものの中で一番厄介な感情、嫉妬についてご覧ください。
(朗読) どの様な情念でも天真爛漫に現れる場合、つねに或る美しさを持っている。しかるに嫉妬には天真爛漫という事がない。
愛は純粋であり得るに反して嫉妬はつねに陰険である。嫉妬こそ悪魔に最もふさわしい属性である。
(解説) 愛と嫉妬は似ています。それはどんな情念よりも術策的で、はるかに持続的な点において。
そのため他の情念よりも長続きして人間を苦しめるのです。
愛があるからこそ、想像力が働き、そして嫉妬が生まれる。
出歩いて家を守らない。常に多忙である。つまり、嫉妬が更に想像力を働かせて私たちの心を忙しくさせてしまうというのです。
更に、嫉妬にはこんな特徴がある。
(イラスト)
嫉妬の対象は
@ | 自分より高い地位にある人 |
A | 自分より幸福な状態にある人 |
B | 特殊なものや個性的なものではなく、量的なもの、一般的なもの |
(司会) つまり、嫉妬とは平均化を求める傾向があると言っているのです。
(指南) この“平均化”ですが、よくよく考えるとその通りです。自分と同じ人には人は嫉妬しません。ただ、似ていてちょっと上といった状態の人に対してもたげてくる情念です。
虚栄心は自分を高めようとしますが、嫉妬は対象を低めようとします。その低めようとする作用が“平均化“です。
そんなにして人を低めようとする。本当は自分を高めようとしなければいけないのに、自分を高めようとする努力をしないで、相手の価値を貶めようとする、ということですね。
これが平均化という言葉で表されているところです。
今の日本社会は全体が平均化を求める傾向があります。
(司会) 問題はどうやったらなくせるのでしょうか。
(指南) それは個性を認めることですね、一言で言えば。自信が無いから嫉妬する。他の人のようになりたいと思うわけでしょう。
でも、自分しかいないわけだから、この自分を認めることから始めるしかない。
そのように自分を認めることで、他人を認めることができる。そうすることで嫉妬という感情を乗り越えることができる。
- 怒りについて
(朗読) 世界が人間的に、余りに人間的になったときに必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。
今日、愛については誰もが語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるのか。切に義人を思う。義人とは何か。・・・怒ることを知れるものである。
(司会) 怒りについて三木は人間に必要なものだとして肯定する。憎しみについては激しく否定しました。
(朗読) 今日、怒りの倫理的意味ほど多く忘れられているものはない。
怒りはただ避くべきものであるかの様に考えられてる。
しかしながら、もし何物かがあらゆる場合に避句べきで」あるとすれば、それは憎しみであって怒りではない。怒はより深いものである。
(指南) 腹が立った時、内に籠って憎しみつづけるよりは、からっと怒った方がよいという意味だ。
社会の利害関係の中で生まれる怒りというのは、確かにありますし、この世にいればいろんな不正が満ち満ちているでしょう。
そんなものに対し怒りを覚えるというのは必要だと思いますし、三木自身も「公憤」という言葉を使っているのです。
そういう正義感から異を唱えることは必ず必要な事だと思っていますし、そういうこともできない現実に三木は憤りを感じていた。
(司会) 三木は怒りと憎しみをこのように分類しています。
(イラスト)
怒り | 憎しみ |
突発的 | 習慣的で永続的 |
純粋性、単純性、精神性 | 自然性(反知性的) |
目の前にいる人に対して | 目の前にいない人に対して アノニム |
(指南) 怒りの場合は、少なくとも目の前にいる人に向けられるわけですから理由があるはずなのですね。そう言う意味では知性的です。
でも憎しみというのは、自然性と書いてあるのは、理由が無いのですよね。
怒りと憎しみでは対象自体も違いますね。
怒りは目の前にいる人に対して作り出される感情です。
他方、憎しみは、目の前にいない人に対して作られる感情であるという風に考えています。
だから、アノニム(匿名)という言葉を使っている。ヘイトスピーチなどがその最たるものですね。個人ではないですよね。
そういう情からどうやったら脱却できるのかという話をしたいのですけれども、反知性的なものですから知性的であればいいわけですよね。
具体的に言えば、個人レベルで相手を認めるということが出来れば、憎しみという感情から逃れることが出来ます。
- 偽善について
(司会) 偽善者が恐ろしいのは、彼が偽善的であるためである、というよりも彼が意識的な人間であるためである。
偽善者が意識しているのは、たえず他人であり、社会である。彼らは他者の評価や社会的評判だけを意識して、求められた役割だけを果たそうとします。
つまり、善悪の価値基準を他人に預け、自分では判断しないのです。
三木はそれを精神のオートマティズムと名付けました。
(朗読) 道徳の社会性というが如きことが力説されるようになって以来、いかに多くの偽善者が生じたであろうか。
今日、どれだけの著作家が表現の恐ろしさをほんとに理解しているか。
偽善者はおうおにして権力に媚びへつらい、時には他人までをも破滅させる。
偽善者についての言葉は、国策に阿る言論人への警鐘だったのかも知れない。
(司会) 道徳の社会性というのが聞き慣れないけれども。
(指南) 一つは個人よりも社会が優先されるべきだという考えですよね。
個人の幸福を唱えてはいけないという時代背景があってこのような言葉が使われています。
もう一つは、倫理とか道徳が上から押し付けられる時世を念頭において道徳の社会性という言葉を使っています。
一人一人が納得して行かないといけないし、時々、疑問を感じ、時には否定して行かないといけないのに、
道徳とはこのようなものだという押し付けがされる時代というのは、非常に危険だと思う。
異を唱えないものが生まれてきてる、その人たちのことを偽善者だというのです。
本当はこんなことが起こったら駄目になる。組織も国も駄目になると思っていても敢えて異を唱えない人が現れはじめて来た時代だったのです。
今、自らが何を言わないといけないか、仮令、それが自己保身と真逆の結果をもたらすとしても、ここで言うべきだという、そういう表現者としての責任を決して忘れてはいけない。
三木自身も葛藤があったはずなのです。でも、彼は逃げなかったし、発言しました。
三木は思想を理由に殺されたのですよね。ついこの間のことなのです。
そういう思想や信条を理由に人が殺されることがあったのを忘れてはいけないし、これから同じことが繰り返されないように、言うべきことは言う勇気を持っていかなくてはいけない。
- 所感
(小生) 特に感じたことは、表現者としての責任を果たすべし、という三木の主張だ。
言うべき時に言わないで、後になって被害者顔するのは偽善者の最たるものだと思う。
虚栄、嫉妬、怒り、偽善、の四者の中で、偽善が最悪。・・・つい、ヘイトスピーチになっちゃいました。
しかし、冷静に考えると偽善者ですよね、殆どが。
偽善者でない人って存在するのかな?・・・多分いないでしょう。偽悪者ならいるかも知れないが。
- インフォメーション
- 放送スケジュール(既に放送は終了していますのでご参考までです)
- 第1回 4/3 午後10:25〜10:50
「真の幸福とは何か」
指南役 岸見一郎(哲学者)
朗読 市川猿之助
- 第2回 4/10 午後10:25〜10:50
「自分を苦しめるもの」
指南役 岸見一郎(哲学者)
朗読 市川猿之助
- 第3回 4/17 午後10:25〜10:50
(再)4/19 午前5:30〜5:55
(再)4/19 午後0:00〜0:25
「孤独や虚無と向き合う」
- 第4回 4/24 午後10:25〜10:50
(再)4/26 午前5:30〜5:55
(再)4/26 午後0:00〜0:25
「死を見つめて生きる」
- 各回指南役・朗読
- 指南役 岸見一郎(哲学者)
- 朗読 市川猿之助(歌舞伎役者)
- 龍野が生んだ現代の文化人(再掲)
兵庫県たつの市に住んでおられる同期の副島茂君から、龍野が生んだ現代の文化人、三木露風、内海信之、矢野勘治、三木清ら
4氏に関する文献が文献や資料が一堂に揃えられている「霞城館」や、「三木露風生家」など、三木清に関する資料を頂戴いした。
その中から、抜萃する。
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三木露風はご存知「赤とんぼ」の作者である。
「赤とんぼ」の詩は4番まであるが、今回送って頂いた資料で初めて知ったののは、
その4番の歌詞「赤とんぼ とまっているよ 竿の先」という部分は、
露風が小学校6年のとき書いた俳句だそうである。・・・驚くべき才能だよね。
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内海信之は地方文化の先覚者として、時流に媚びず、孤高の生活を守りつづけた。
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矢野勘治は一高の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」を書いた人。
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三木清は、「Eテレ100分de名著」が採りあげた「人生ノート」を書いた哲学者である。
知らなかったのは小生くらいだろう。・・・日本語で書いたオリジナルな実践哲学書が貴重。
「文学界」の編集長 小林秀雄から、一般向けの哲学的エッセイを書かないかと誘われて書いたのが「人生論ノート」。
実践哲学の良書で、初版刊行(1941年)以来、現在108刷りのロングセラーとなった。
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