「日本の自殺」抜粋

 
石井俊雄
先週土曜日(6月9日)、図書館で借りた文芸春秋3月号に面白い記事を発見した。その見出しには、予言の書「日本の自殺」再考とあった。
冒頭、次の説明が記されていた。
1975年、小誌にある論文が掲載された。それは高度経済成長を遂げ、反映を謳歌する日本に迫る内部崩壊の危機に警鐘を鳴らすものだった。 それから三十七年、朝日新聞の若宮啓文主筆が1月10日付朝刊の一面で、この論文に注目し、「日本の自殺」がかつてなく現実味を帯びて感じられる」と記した。 また、原論文は、保守系の学者たちが、「グループ一九八四年」の名で共同執筆したものであること。 その後、行政改革で活躍する経団連の土光敏夫会長がこのコピーを大量に配ったという逸話が残っているとも記している。
小生は、一読し、我が意を得たる思いであった。 よって、本HPにその抜粋を掲載することで、諸兄諸姉の本論文への関心を惹起したい。
良かったら、ご一読下さい。
なお、朝日新聞の記事の外、 原論文が文春新書「日本の自殺」(735円)として刊行されているらしく、週刊文春5月31日号に広告されているのを行きつけの歯医者の待合室で発見したことを申し添えます。
また、本記事は「抜粋」に終始し、私見は入れてないことも申し添えます。ただ、アンダーラインを付したのと「あとがき」は除きます。
 
 

「日本の自殺」抜粋

  1. イントロ
    過去6千年の諸文明とは、ミノス、シュメル、マヤ、インド、シナ、シリア、ヒッタイト、バビロニア、アンデス、メキシコ、ユカタン、エジプト、 フンズー、イラン、アラビア、ヘレニック、西欧、正教キリスト教、極東など、21の文明の「種」が発生し、成長し、 あるものはやがて没落し、消滅していったとし、20世紀の現在なおこの地球上に生き残ってる文明の「種」は、 西欧文明、近東における正教キリスト教世界の本体、ロシアにおける正教キリスト教世界の分枝、イスラム社会、ヒンズー社会、 シナにおける極東社会の本体、日本における極東社会の分枝、の7つの「種」であると、トインビーは分類している。
    過去6千年間におけるこの21の文明の「種」の栄枯盛衰の歴史ドラマとその比較研究は、文明の発生、成長、挫折、解体の原因やその一般的パターンについて、 我々に何らかの示唆を与えてくれるものであろうか。
    そしてこの歴史の教訓は、現代文明の進路選択、日本社会の進路選択に何らかの寄与をしてくれるものなのであろうか。 こうしてわれわれは、特に文明の没落過程の共同研究に着手したのである。
     
  2. 日本没落の予感
    小松左京氏は「日本沈没」という優れた風刺的作品を発表したが、われわれの問題意識は、日本沈没の可能性が単に地質学的なレベルで存在するのみならず、 政治学的、経済学的、社会学的、心理学的レベルでも存在するのではないかということであった。
    このような予感を与えずにはおかないような社会的衰退のムードや社会病理現象が我々の周囲に数多く観察された。 よって、これ等の数多くの断片を組織的に収集し、没落の諸兆候群を作成した。
    その諸兆候群を諸文明の没落とりわけギリシャ・ローマの没落研究と比較しつつ検討を加えるという手間のかかる作業を行った。
    プラトンによれば、ギリシャの没落の原因は、欲望の肥大化と悪平等主義とエゴイズムの氾濫にある。 道徳的自制を欠いた野放図な「自由」の主張と大衆迎合主義とが、無責任と放埓とを通じて社会秩序を崩壊させていったというのである。 こうした歴史的資料の断片を通じて、ギリシャ・ローマの没落過程の世界に脚を踏み入れていけば行くほど、 われわれ日本の政治的、経済的、社会的、文化的没落の危機の大きさを今更のように痛感させられたのであった。
     
  3. ローマ帝国滅亡との類似
    トインビーによれば、諸文明の没落は宿命的、決定論的なものでもなければ、天災や外的の侵入などの災害によるものでもない。 それは根本的には「魂の分裂」と「社会の崩壊」による「自己決定能力の喪失」にこそある。
    しかして、如何にしてローマは滅亡したか。
    1. 第一に、巨大な富を集中し反映を謳歌したローマ市民は、次第にその欲望を肥大化させ、労働を忘れ消費と娯楽、レジャーに明け暮れるようになり、 節度を失って放縦と堕落への衰弱の道を歩みはじめた。それはまさに繁栄の代償とでも呼ぶべきものであった。
    2. 第二に、ローマ各地から流入する人口によってローマ市の人口は適正規模を超えて膨張し終に強固な結束を持つ市民団のコミュニティを崩壊させてしまったのである。 かくて一種の「大衆社会化状況」が拡大していった。 ローマは、故郷喪失者からなる大衆の集積地と化し、この巨大な大衆を統合する組織原理、人間関係の原理を見出すことができないまま凝集力を喪失していった。
    3. 第三に、ポエニ戦争などで経済的に没落し、事実上無産者と化した市民が、市民権の名において救済と保障を、つまり「シビル・ミニマム」を要求するようになった。 よく知られている「パンとサーカス」の要求である。 彼らは大土地所有者や政治家の門前に群がって「パン」を求め、大土地所有者や政治家もまたこれら市民大衆の支持と人気を得るために一人一人に「パン」を与えたのである。 このように働かずして無料の「パン」を保障された市民大衆は、時間をもてあまさざるを得ない。 そのため退屈しのぎのためのマス・レジャー対策として「サーカス」が登場する。 「サーカス」とは、円形競技場を指す言葉であり、巨大な競技場、集会場、娯楽施設、公衆浴場などの公共施設は、 遊民化した市民大衆のための「シビル・ミニマス」だったのである。 だがこうして無償で「パンとサーカス」の供給を受け、権利を主張するが責任や義務を負うことを忘れて遊民化したローマ市民大衆は、その途端に、恐るべき精神的、 道徳的退廃と衰弱を開始したのである。
    4. 第四に、市民大衆が際限なく「パンとサーカス」を要求し続けるとき、経済はインフレーションからスタグフレーションへと進んでいくほかない。 過去の諸文明が、その挫折と解体の過程でいずれもインフレーションに悩やまされていることは真に興味深い歴史的事実である。 しかも、社会の衰退課程で次第に生産性が低下し、富の獲得が思うように行かなくなって不況が発生し、 にも拘わらず大衆はこの事実に目を瞑って身勝手な要求貫徹を主張し続けた結果、インフレと不況は相携えてスタグフレーションという形をとるほかないのである。 スタグフレーションは大衆社会の病であり、没落課程の社会につきものの病理現象なのであった。
    5. 第五に、文明の没落過程では必ずといってよいほどにエゴの氾濫と悪平等主義の流行が起る。その結果、民主主義ははその活力を失って、一方で放縦に走り、 無秩序と解体をもたらし、他方で悪平等主義に走って画一化と全体主義の中に腐敗していく。こうして擬似民主主義は没落のイデオロギーとなり、 指導者と大衆を衆愚政治の腐敗に引きずり込んでいく。
    古代都市ローマには世界国家の全域から無数の人口が流入してきて、都市の規模は急速に巨大化し、ローマ市民団という共同体の人間関係のきずなは崩壊して、 遊民化し、ばらばらになった市民大衆からなる大衆社会化状況が出現してくる。世界国家の富に群がる遊民が、 無償の「パンとサーカス」と自制なき権利を要求して活力なき「福祉国家」、怠慢な「レジャー社会」への道をたどるとき、社会の心臓部は老衰し、動脈は硬化し、 頭脳はかつての輝きを失い、神経は鈍化し、麻痺し、社会は衰退していく運命をたどることになるのである。
     
  4. 日本が直面する困難
    1. 資源・エネルギー問題
    2. 環境問題
    3. 賃金と物価の悪循環の問題
    確かに、ここに挙げた3つの問題は、日本経済にとって命とりになりかねない重大な危機を内包している。 だが、この危機の本質的な性格は、経済的なものであるというよりは、社会的、心理的、文化的、政治的なものであり、何よりも文明論的な性格を帯びているのである。
     
  5. 危機は日本人の内部にある
    文明の挫折と解体は、宿命的なものでもなければ、災害や外からの攻撃などによるものでもない。 没落は、基本的には社会内部の自壊作用によって惹き起こされる。 これが、エジプト文明、インド文明、ヒッタイト文明、バビロニア文明、ヘレニック文明など、 既に滅亡してしまった十六の文明のサーベイを通じて我々が得た基本的な認識であった。
    ローマに関して言えば、この社会内部からの自壊は、 世界国家の心臓部の繁栄→豊かさの代償としての放縦と堕落→共同体の崩壊と大衆社会化状況の出現→「パンとサーカス」という「シビル・ミニマム」 →増大する福祉コストとインフレとローマ市民の活力の喪失→エゴと悪平等主義の氾濫→社会解体 というプロセスで進行したのであった。
    この自壊のプロセスは驚くほど現在の日本の社会過程と類似している。 確かにいま日本経済はかつてない試練に直面している。その試練は極めてきびしいものであり、その困難は途方もなく大きいものにみえるが、 しかし、日本社会がその生命力を失わず、自立性と「自己決定能力」を失わない限り、これらの困難は決して克服できないものではないであろう。 日本の没落の危険は資源問題や輸出市場などの客観的、外部的、物質的制約条件のなかに存するのではなく、 日本社会の内部的、主体的、精神的、社会的条件のなかにこそひそんでいるのである。 この自壊作用こそが、一切の束縛から解放された自由精神が全力を挙げて戦っていかなければならない我々の「内部の敵」なのである。
    自制と調和を忘れた時には、豊かさにも、福祉にも自由、平和、平等にも恐るべきマイナスの副作用が現れることを我々は今やはっきりと自覚しなければならないのである。 この自覚を欠くとき、福祉国家は人間と社会を堕落させるしかないし、自由は無秩序と放縦に転化してしまうことになるであろうし、 また民主主義は終に全体主義と衆愚社会をもたらすに至るであろう。 この歴史にひそむおそるべき逆説的構造がみえないものは、社会の変革について語る資格を有しないものと我々は考える。
     
  6. 豊かさの代償
    日本を第二のローマ帝国としてしまいかねない日本社会内部の自壊作用のメカニズムを、先ず豊かさの代償という角度から順次解剖していくことにしたい。
    1. 豊かさの代償の第一は、資源の枯渇と環境破壊
    2. 豊かさの代償第二として、使い捨て的な、大量生産、大量消費の生活様式が人間精神に与えるマイナスの諸影響に触れておかなければならない。 消費面からみると量産品の画一化、単調化、生産面でみると、大量生産過程における労働の単調化、過度の分業がもたらす人間精神と肉体への悪影響がある。
    3. 豊かさの代償第三は、生活環境が温室化すればするほど、教育は過保護と甘えの中に低迷していた。 こうして、自制心、克己心、忍耐力、持続力のない青少年が大量生産され、さらには、強靭なる意志力、論理的思考能力、創造性、豊かな感受性、責任感などを欠いた 過保護に甘えた欠陥青少年が大量に発生することとなった。
     
  7. 現代文明がもたらす幼稚化
    ファシズムとスターリニズムの暗雲が、低くヨーロッパにたれこめていた1930年代の危機の時代の最中に、この狂気のような社会に対する二つの優れた批判が 公にされた。スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」とオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの「朝の影のなかに」がそれである。
    ホイジンガは記している。「判断能力の発展段階からみて、それ相応以下に振舞う社会、子供を大人に引き上げようとはせず、逆に子供の行動に合わせて振舞う社会、 このような社会の精神態度をピュアリズムと名付けようと思う。
    今日このピュアリズムは日常茶飯事にわたってみられ、その例はどこにでも転がっている」。
    この精神状況を特徴づけるものは、「適切なことと適切ではないことを見分ける感情の欠落、他人及び他人の意見を尊重する配慮の欠如、個人の尊厳の無視、 自分自身のことに対する過大な関心である」。判断力と批判意欲の衰弱がその基礎にある。
    現代人に見られるこの思考力、判断力の全般的衰弱と幼稚化傾向は、一体なにによってもたらされたのであろうか。 実に憂慮すべきことに、驚くべき技術の発達、物質的豊かさの増大、都市化、情報化の発展と教育の普及など高度現代文明がもたらした恩恵それ自体が、 このような精神状態を副作用として惹き起こしていたのである。
    思考力、判断力の全般的衰弱と幼稚化の原因は、
    1. オートメーション社会下で知っている必要があることは、どのボタンを押せば、どういう便益がえられるのかということ、 つまり、インプットとアウトプットの一覧表だけである。 インプットとアウトプットとを結び付ける複雑な仕組みについて思考や判断を働かせるのは馬鹿げたことだ。そんなものはブラック・ボックスのままで結構である。 こうして技術世界は、大人たちにとっておもちゃの世界になってしまった。おもちゃを手にした現代人が子供のように振舞ったからといって何の不思議があろう。
    2. 情報化の代償、つまりマスコミの発達と教育の普及の代償として生じている。 学歴ある文盲とでも呼ぶべき現代人のあいだに見受けられる恐るべき知力の低下、倫理能力の喪失、 判断力の全般的衰弱の秘密が、いまこそ本格的に解明されなければならない。 かつての時代の農民、漁民あるいは職人たちは完全に自分自身の生活体験を通じてテストした知識の枠内で人生や世界を測っていた。 それに引きかえ現代人は自分の直接経験をしっかりとみつめる時間を失い、自分の頭でものを考えることを停止したまま中途半端で、皮相な知識の請け売りで、 世界中のできごとに偉そうに口を挟んでイライラと生きているのである。
     
  8. デマによる集団ヒステリー
    数年来我々の周囲には、センセーショナルな情報の大量氾濫が惹き起こした心因性のトラブルが激増している。 明らかにこれらのトラブルは、大衆が粗悪な、質の悪い欠陥情報に汚染された結果、一種の集団ヒステリー症状に陥ることによっている。
     
  9. 情報の洪水が人間を劣化させる
    何故、情報の洪水が人間を劣化させるのか。
    そのメカニズムと情報環境の特質を考察しておくことにしよう。
    1. 第一に、マス・コミュニケーションの発達は一方において人間経験の世界を、各個人が直接経験できる時間・空間の限界を超えて外延的に拡大させる。 他方、この外延的に拡大した経験世界の内容はますます希薄化し、断片化し、空虚なものとなる。 こうしてマスコミの作り出す虚構の世界は無意識のうちにひとびとに人為的「擬似経験」を強要することとなるのである。 こうして人間の視界を拡大し、その知力を高めるために作られたはずのマス・コミュニケーションによって人間が騙され、知力を低下させられ、 真実の世界を妨げられるという皮肉な現象が生じることとなる。 テレビの代償は無視し得ぬほど大きなものであった。豊富に与えられる映像はかえって青少年の想像力、創造力などを衰弱させ、自主的な思考を妨げ、 分裂症的傾向を助長していくのである。
    2. 第二に、情報過多に伴う各種の不適応症状の問題である。 高速度に流れる大量情報が、人間の脳の情報処理量を大幅に上回った場合、人間はしばしば情報過多の神経症状に陥る。 その典型的な症状の中には、@短絡型、A自閉症型、B分裂症型という3つのタイプがある。
    3. 第三に、膨大な現在進行型の情報の氾濫の中で情報のライフ・サイクルは短縮化し消耗品化し、情報使い捨ての傾向が極端になってくる。 大量高速情報から自己を防衛する「安易な方法は、忘れっぽくなること、つまり健忘症になることであり、 歴史的な連続性の感覚を喪失して刹那主義的な生き方を採用することである。 こうして、一時性の情報環境の中で深い人間的感動を伴う経験の昇華の余裕のないままに、希薄な好奇心だけが肥大化させられ、 人間は精神的・情緒的安定を失って、「今、今、今・・・」をうわべだけで追い求めるようになる。
    4. 第四に、本来、人間の思考能力や創造性は受信と発信の反復を通じて初めて可能となるものであるのに、この思考過程をじっくりと通過させないために、 短絡型の論理的思考能力のない人間が量産されてくることになる。
    5. 第五に、マス・メディアにより、異常現象だけを拡大してみせつけるというメカニズムが異常に肥大化し、その結果、 マスコミは異常な虚構の世界を作り上げることとなり、国民の欲求不満を異常に高めることとなったのである。
     
  10. 自殺のイデオロギー
    諸文明の没落の歴史を辿っていくと、われわれは没落の過程で必ずといってよいほど不可避的に発生してくる文明の「自殺のイデオロギー」 とでも呼ぶべきものに遭遇する。 諸没落文明の「自殺のイデオロギー」に一貫して共通するものは極端な平等主義のイデオロギーであるということができる。
    この平等主義のイデオロギーは、社会秩序を崩壊させ、大衆社会化状況を生み出しつつ全社会を恐るべき力で風化し、砂漠化していくのである。 我国の「自殺のイデオロギー」は、日教組イデオロギーに代表される戦後「民主教育」にある。
    戦後「民主教育」は、差別反対、人間平等の名のもとに、実は画一主義と均質化を教育の世界にもたらしてきた。 生徒の成績表に「オール3」をつけたり、「オール5」をつけたりする教師や、 成績をつけるという行為自体が人間差別つらなるとして学籍簿への記入を拒否した「民主的」教師たちの行動は、 ある意味で、戦後「民主教育」のイデオロギーを最も単純な形で表現したものに過ぎなかった。
    「オール3」教師や「オール5」教師は、臆面もなくこう言ってのけたものだ。 「人間は全て平等である。出来の悪い生徒ができるのは全て社会に責任があり、社会が悪いから子供には何の責任もない。 子供は同じ様に努力したのだから、全部同じ点をつけるのが正義である」と。
    誤れる「民主教育」は、平等主義や差別反対の名のもとに、人間の個性化、教育の多様化の重要性を理解せず、クラスの平均や底辺に進度を合わせた教育をこころみる。 その結果、優秀な子供たちは、やる気を失い、いたずらに教室で時間を浪費しているのである。
    また、誤れる「民主教育」の主張者たちは、エリート教育を差別教育として全面的に否定する。 次の時代を背負うべき優秀な子供たちの才能がその発育を押し留められ、均質化させられつつあるのである。 こうしたことの社会的損失は、恐らく百年も経たないとその波及的損害の全貌をつかむことはできないであろう。
    教育の世界に広がる悪平等主義のイデオロギーほど強力な「自殺のイデオロギー」はないであろう。
     
  11. 戦後民主主義の弊害
    「戦後民主主義」という名の擬似民主主義のイデオロギーは、全て現代日本の「自殺のイデオロギー」として機能している。 われわれが擬似民主主義と呼ぶ理由は、それが民主主義本来のあり方とは似て非なるものだからである。
    擬似民主主義は次のようないくつかの特徴を持っている。 これを擬似民主主義徴候群と呼ぼう。
    1. 第一徴候群は、その非科学的性格である。擬似民主主義は、イデオロギー上のドグマ、即ち独断的命題の無批判的受容から出発する。 そのドグマに従って行動するならば、必ずや全人類の解放が実現され、一切の社会問題が完全な解決をみるであろうと主張する。 その命題は唯一、絶対的なものであり、完全で、誤りなきものである。 これは政治上の救世主主義(メシア)の一種である。宗教上の信仰の場合と同様に、この政治上の信仰の場合にも、スローガンは「信ぜよ。さらば救われん」なのである。
    2. 第二徴候群は、その画一的、一元的、全体主義的性向である。この徴候は、多数決原理の誤った認識の仕方に端的に示されている。 真の民主主義の本質のひとつは、多元主義の承認である。ところが、擬似民主主義は本来、多元主義のための一時的、かつ極めて限定された調整のための手段、 便法として工夫された多数決を、画一的、一元的、全体主義のための武器に巧妙に転用するのである。 こうして多数決の決定は、擬似民主主義の支配する集団のなかでしばしば村八分のための踏み絵のような役割すら果たし、多様なものの見方の存在を否認する方向で作用することになる。
    3. 第三徴候群は、権利の一面的強調の仕方にある。 あらゆる機会に「権利」、「権利」ということが声高に叫ばれながら、権利主張の基本前提となるべき義務と責任の重要性については、強調されることはあまりなかった。 権利、権利と主張し、取れるだけのものは取り、義務と責任は出来るだけ拒絶する。その結果、企業や国が困れば、それは寧ろ「体制」が弱ることだから歓迎すべきことである。 この場合、権利の一面的強調は、「体制」を弱めるための戦術となっている。
    4. 第四徴候群は、批判と反対のみで、建設的な提案能力に著しく欠けるということである。 個人や社会のアラ捜しをすることは、ある意味で易しいことである。 擬似民主主義が批判のための批判をしたり、反対したりするときは、欠陥の是正に関心があるよりも、その結果、一層悪化することを期待しているフシがある。
    5. 第五徴候群は、そのエリ−ト否定、大衆迎合的な性格である。 現代の複雑な政治問題、社会問題が短期間のアマチュアだけの井戸端会議や大衆社会で正しく扱われうるはずがない。 専門家を否定し、リーダーシップを否定するならば、その結果はどうしようもない衆愚政治の泥沼に落ち込んでいくほかない。
    6. 第六徴候群は、コスト的観点の欠如である。 擬似民主主義は、その権利主張の一面的性格、提案能力の欠如、大衆迎合主義などから、大衆の気に入りそうなことを並べ立るだけで、その制約条件を覆い隠そうとする。 こうした偽善的なポーズで、大衆の人気取りをしている限り、国家は破産し、社会は滅亡するしかないのである。
     
  12. 没落を阻止するために
    以上みてきたように、擬似民主主義は放縦とエゴ、画一化と抑圧とを通じて、日本社会を内部から自壊させる強力なイデオロギーであった。 この「自殺のイデオロギー」が超克されないかぎり、日本の没落は不可避である。
    一体どうすればわれわれはこの自殺への危険な衝動を阻止することができるのか。そのためには、過去の諸文明の没落の歴史から、若干の教訓を引き出し整理しておくことが必要である。
    1. 第一の教訓は、国民が狭い利己的な欲求の追求に没頭して、自らのエゴを自制することを忘れたとき経済社会は自壊していく以外にないということである。
    2. 第二の教訓は、国民が自らのことは自らの力で解決するという自立の精神と気概を失うとき、国家社会は滅亡するほかないということである。 福祉の代償の恐ろしさは当にこの点にある。
    3. 第三の教訓は、エリートが精神の貴族主義を失って大衆迎合主義に走るとき、その国は滅ぶということである。
    4. 第四の教訓は、年上の世代は、いたずらに年下の世代にこびへつらってはならないということである。
    5. 第五の教訓は、人間の幸福や不幸というものが、決して賃金の額や、年金の多い少ないや、物量の豊富さなどによって計れるものではないということである。 戦後日本は物質的には目覚しい再建を成し遂げたが、精神的には未だ再建されてはいない。
 
 
 
 
  1. あとがき(抜粋作業を終って、聊かの感慨を書いてみたもの)
    本抜粋を書きながら思ったことは、我々が都の敬老制度として便益を受けているシルバーパス、これって若しかしたら「パンとサーカス」の「パン」ではないかということ。
    色々理屈はあるにしても、極僅かな自己負担で都内の全てのバス、都営地下鉄、都電が乗り放題というのは、その気配が無いとは言えない。 これが大衆迎合主義の発露とまでは言えないにしても、これ以上の拡大は止めた方が良いと思う。 只より高くつくものはないと言うではないか。
    e.「危機は日本人の内部にある」でアンダーラインを付した箇所、「・・・一切の束縛から解放された自由精神・・・」とは、 人間は、法律、宗教、稼業、家族、隣近所など色んなしがらみの中で辛うじて生きてるというのが実態であろうから、そのしがらみを脱してという意味に解せられる。 目的は文明を守るためである。
    しかし、ここで面白いことに気が付く。 それは、この論文を書いた「グループ一九八四」は、各分野の専門家二十数名からなる学者の集団とあるだけで、構成メンバの名前を明らかにしていないこと。 となると、「覆面をしたまま言いたいことを言った」となるのであり、これが果たして「・・・一切の束縛から解放された自由精神・・・」と言えるのだろうか。 ・・・「よく言うわ!」という感じ無きにしも非ずだよね。
    k.「戦後民主主義の弊害」でアンダーラインを付した箇所、 『宗教上の信仰の場合と同様に、この政治上の信仰の場合にも、スローガンは「信ぜよ。さらば救われん」なのである。 』は面白い。 この「信ぜよ。さらば救われん」という言葉、恐らく普遍的事実だろう。 だが、その対象たる命題はいろいろ。良いのもあれば悪いのもある。玉石混交なのだ。 だから、この普遍的事実に、ある命題を載せる場合、載せる命題が正しければよいが、悪しき場合はこの普遍的事実は悪用されることとなる。 では、正しい命題ってどんなこと? となるが、難しい。恐らく人間一人一人で違うのだろう。 自然科学の世界では普遍的事実がある。実験や観測によって証明された命題だ。 人間界は非対称、証明が難しい。人口分の真実があるから。
     
     
     
     
     
     
     
     
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