哲学的トピック

H28/4/18
石井俊雄
4月17日(日)の毎日新聞朝刊に面白い記事を発見した。
書評欄に書かれた記事で「神話、狂気、哄笑」という書物(マルクス・ガブリエル 、スラヴォイ・ジジェク著 堀之内出版・3780円)を斉藤環という方が評を投じておられる。
小生、哲学は疎いので、その中から二つだけ面白うそうなトピック(話題)を抜き書きすることにした。 皆さんも、興味をそそられるのではないかと思ったからだ。
二つの哲学的トピック(哲学的話題)とは、次の二つである。
一つは、「世界は存在しない」ということ。 もう一つは、「我々の世界認識は神話的である」ということ。
  1. 抜萃1:「世界は存在しない」というものの見方について
    イマヌエル・カント以降の哲学において、世界は物としての巨大な容器ではなく、 むしろ同定可能な対象物ではないとみなす「世界の地平モデル」が用いられる。 つまり、世界は世界のうちでは現れないのであり、これをもって「世界は存在しない」とされている。
    一方、マルクス・ガブリエルの主張は、 物や事実は世界の中に存在する。これらの存在を認識し記述するために「世界」が必要とされる。 しかし「世界」そのものを語ろうとすると、それを対象化するためにより高度の「世界」が必要となる。 このように、どこまでもメタレベルの「世界」を生み出してしまういたちごっこの構造が、 世界そのものの構造である。世界を世界として考察できるような、絶対的な立脚点は存在しない。 ゆえに、世界は存在しない。
  2. 抜萃2:「我々が世界を認識する時のかかわり方は、厳密な意味で神話的である」ということについて
    ・・・やや唐突にヴィトゲンシュタインを引用する。 この「世界は事実の総体である」という命題で知られる哲学者は 「我々が世界を認識する時のかかわり方は、厳密な意味で神話的である」とした。 これは信仰の有無とは無関係に、我々の日常的なあらゆる営みが、 ある種の体系的な信念の網に投げ入れられているということを意味する。 それは科学的でも命題的でもないが、我々の日常において基礎的なことがらなのである。
以上、抜粋終わり。
以降、少し私見を書こう。
  1. 私見1:「世界は存在しない」というものの見方について
    「世界は存在しない」と言われると我々は戸惑ってしまう。 何故なら、そこにあるからだ。 ・・・でも、その境目を観察できない。だから無いとなるようだ。
    「世界」を「国」として考えてみると分かりやすい。 「国」は、他の国があるから、比較同定できる。 例えば、これから新しい国を作るとしよう。 そうならば、先ず考えるのは、既存の国の中で、どのような国を参考にするか考えるだろう。 そして、そのような思考を重ねて新しい国が構想されるのだ。 ・・・ところが、世界に国が無い場合、例えば、国々が合体して世界連邦国ができたとしたら、 「国」は認識されなくなる。何故なら、国境が無くなるからだ。だから「国」はなくなる。 ・・・だから、この命題は正しい、と思う。
  2. 私見2:「我々の世界認識は神話的である」ということについて
    我々は、どのような人間でも、ある瞬間は神や仏に祈るものだ。 私だって、毎朝、仏壇にお茶を供え、家内安全を祈っているのだ。 これは、ノーベル物理学賞に輝く学者さんでも、ある瞬間は神にすがるものであることからも明らかだ。
    また、験を担ぐということもある。例えば、結婚式は仏滅を避けるだろうし、葬式は友引を避けるだろう。 これは、理屈ではなく、人間が極めて神話的である証左だろう。
    ・・・だから、この命題は正しい、長年の疑問が解けた思いだ。 人間は本来的に神話的にできているのだ。・・・ますますご先祖様へのお願いが増えるかもだが。
    ちなみに、「神話的」の反対は「論理的」だ。先の例でのノーベル物理学賞に輝く学者さんは、 論理的人物の象徴として掲げたものである。
  3. 私見3:「神話性」、定言できるのか?
    ところで、ネットでしらべると、「哲学」とは、「人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、 理性によって求めようとする学問。 ギリシア語 philosophia (=知への愛)の訳語。「哲」は叡智(えいち)の意。」とあった。
    この文章のキーワードは、「原理を、理性によって求めようとする学問」という箇所だ。
    この中の「理性」と前出の「論理的」は親和性がありそうだが、「理性」と前出の「神話的」、 果たして親和性、あるのだろうか、ないのだろうか。
    無いとしたら、「我々の世界認識は神話的である」という命題は、 理性の枠外に「神話性」という性が存在することをしめしている。
    となると、我々の精神は、「理性」の他に「神話性」とでも呼ぶべき根源的な資質を有していることになる。
    となると、この「神話性」、定言できるのかな? 化け物のような言葉だが。
    もう一つの可能性は、「原理を、理性によって求めようとする学問」が哲学なら、 「原理を、神話性によって求めようとする学問」があってもおかしくない、ということになる。 ・・・そんなのあるの?
    おそらく「神学」がそうだろうか? 私はよく知らないが、そうだとしたら都合がいい。「神話性」のアリバイ(存在証明)がとれるから。
  4. 私見4:philosophia (=知への愛)の実践
    哲学の原語は、ギリシャ語のphilosophia (=知への愛)だ。 昔、ギリシャの貴族社会は、奴隷制の下、貴族たちは暇潰しに精を出したと思われる。 その中の一つがスポーツだし、もう一つが "philosophia" であったと思われる。
    監獄の囚人は「暇潰しのためならどんなことも厭わない」ときいたことがある。 おそらく、ギリシャの貴族たちも同じ思いであったことだろう。 その方法の一つとして発展したのが哲学だ。暇潰しのエネルギーが知への愛という言葉で定言化したものだろう。
    そのように理解すると、我々年寄りにとっても知への愛という生き方が相応しい、となるだろう。 街で見かける囲碁・将棋、数字パズル、麻雀などなど、知への愛という生き方の顕れである。 即ち、それらの遊びは哲学の実践、ということになる。
    斯くの如く、遊びと学問は対極のものではなく、極めて近い存在であるとなる。 そうならば、我々に相応しい合言葉は、
    老人よ、大いに遊べ!
    だな。
    西郷隆盛が大久保利通に寄せた詩『偶成』の一節を書いておこう。
    一家の遺事人知るや否や、児孫の為に美田を買わず
    もう一つ、漢代の古詩「生年不満百」(生年は百に満たず)から抜萃だ。
    生年不満百 (生年は百に満たず)
    常懐千歳憂 (常に千歳の憂いを懐く)
    昼短苦夜長 (昼は短く夜の長きに苦しむ)
    何不点燭遊 (何ぞ燭を点って遊ばざる)
    為楽当及時 (楽しみを為すは当に時に及ぶべし)
    何能待来年 (何ぞ能く来年を待たん)
    愚者愛惜費 (愚者は費を愛惜し)
    但為後世嗤 (但だ後世の嗤と為るのみ)
    仙人王子喬 (仙人王子喬とは)
    難可与等期 (与に期を等しゅうす可きこと難し)
    作者は「無名氏」、即ち、「読人しらず」である。「中国名詩選」(岩波文庫)より抜粋。 ちょっと投げやり的だからあまり好きではないが、ご参考まで。 なお、王子喬は周の霊王の太子晋のこと。仙人になったといわれている。
  5. 私見5:「神話的」とは?
    抜萃2に掲げた文言には、
    「我々が世界を認識する時のかかわり方は、厳密な意味で神話的である」
    とあるが、その中の「神話的」とはどのような意味かを考えてみた。
    「神話的」とは、端的に言えば「思い込み」ということだろう。 要するに「根拠のない確信」である。 根拠はあっても、その根拠の根拠がない場合も「根拠のない確信」である。
    では、根拠とは何だろう? 根拠とは揺るぎのない真実=原理、ということだ。 普通、それは科学的に証明されたこと、ということになるが、そのようなものは、 開闢以来のものを数えあげても多寡が知れている。 その根拠ある真実=原理でカバーできないこの世の事象について、その穴を埋めているのが「思い込み」、 即ち「神話」である。
    だから、この世には、二つの原理が存在していることになる。 一つは科学的原理ともう一つは神話的原理だ。 前者はその根拠を「自然」に求め、後者は「神」に求める、ということになる。
    「神」が「自然」を創ったとなるかも知れないが、今のところ、その科学的証明はない。 決着が付くのは、「自然」が「自然」を創ったとの証明があったときだろう。
    だが、その証明があったとしても、人間の「神話性」は生き残るだろう。 何故なら、人間の認識能力は限定的だからだ。 「自然」の多様性と限定的な人間の認識能力のアンバランスを埋めるのは、神話的原理である。
    ・・・それで幸せならいいじゃないか!である。
  6. 私見6:マルクス・ガブリエルについて
    この本の著者マルクス・ガブリエルについてネットで調べてみた。 以下、ネットからの抜粋である。
    ガブリエルは29歳のときにボン大学の認識論・近現代哲学講座の主任教授に就任、現在33歳である。 ドイツの哲学界でこんな若くして正教授になる例はない。メディアは彼を「神童」扱いし、本書も話題にしている。 国際的に影が薄くなったドイツ哲学を活性化する役回りを期待しているのかもしれない。
    売れる哲学書には二つのタイプがある。よくできた解説書か、生命や愛などを扱った実践哲学か。 彼の本はそのどちらでもない本格的な認識論だ。それでも売れているのは、表現が面白いからだ。
    古代ギリシャ以来、哲学者がその存在を前提としてきた「世界」を、ガブリエルは、 個々の事象をすべて収容できる巨大テントにたとえる。 テント全体を見ようとする人は外に出なければいけない。 外に出た途端、今までのテントと、それを外で眺めている人を収容できるもっと大きなテント(=世界) の想定が必要になる。こうして少し前まで「世界」とされていたものも、ただのテント (=個別の事象)に転落。これが「世界」が存在できない理由だそうだ。
    「世界」が存在できない理由についての説明は、私も「私見1」で試みたが、 ガブリエル本人のテントの例が解りやすい。流石の俊才、脱帽だ。
    また、ウイキペディアによれば、彼はこうも言っている。
    物を絶対的に構成している何か大きなものがあるという考えは、 それが自然的なものであれ理性が不可避的に有する性質であれ、幻想なのです。
    聊か夢も希望もないことを主張しているようだ。 そういう意味で、彼はニヒルな人のようである。 もっとドイツロマン派の伝統を受け継いだロマンティストであって欲しい。 このままでは、量子力学と相対性理論を統合した統一理論に向け励んでいる物理学者たちをがっかりさせてしまいそう だから。
  7. 私見7:統一理論について
    マルクス・ガブリエルは、その経歴をみるに、初めから文系の学問だけで育ったようである。 ウイキペディアによると、次のように書かれている。
    ガブリエルは哲学、古典文献学、近代ドイツ文学、ドイツ学をハーゲン大学、ボン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。
    一方、ヴィトゲンシュタインは、物理学者で統計力学を創始したボルツマンに興味を持つなど、文系だけではなく、 理系への関心も高かったようだ。その辺りのことをウイキペディアから拾うと次の様である。
    ボルツマンの講演集を読んで、ボルツマンのいるウィーン大学への進学を希望するが、 ボルツマンの自殺により叶わなかった。 また、数学への関心から、バートランド・ラッセルの『数学原論』などを読んで数学基礎論に興味を持つようになり、 その後、現代の数理論理学の祖といわれるゴットロープ・フレーゲのもとで短期間学んだ。
    などと書かれている。
    どうやらヴィトゲンシュタインは、哲学に数理論理学を持ち込もうとしたようだ。
    人間はミスを犯すという観点からこの二人のアプローチの仕方を見て、 ヴィトゲンシュタインの方にが正確さが期待できそう。何故なら、数理論理学は記号化されているからだ。
    従って、統一理論の将来性については、 ガブリエルの悲観論よりヴィトゲンシュタインの学説に期待したい。
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