伊勢物語「筒井筒」と能「井筒」

 
石井俊雄
図書館でつい見かけた本がある。梅原猛著「世阿弥の恋」だ。
図書館の新刊書のコーナーに並んでいるのを見つけて読んでみることにした。 普通のコーナーに並んでいたら手に取ることはなかっただろう。
パラパラ読んでみた。 何故なら、「能」には聊かの興味というか好奇心というか憧れというか、不思議な魅力を感じていたからだ。
分厚い本で、中には幾つかの能の演目が取り上げられ、著者の解説が書かれている。 小生は、その最初に書かれている演目「井筒」を読んで、面白かったので、抜粋と所感を記すことにした。
その面白かった点は、「井筒」が伊勢物語第23段「筒井筒(つついづつ)」を種本にしていることだ。 それに、ずーと意味不明だった筒井筒という言葉の意味も分かったことだ。
皆さん、よかったらご一読下さい。
 
  1. 伊勢物語第23段「筒井筒」
     
    都を離れて田舎住まいをしている人の男の子が隣に住んでいた女の子と井戸の周りで遊んでいたが、大人になって互いに恥ずかしく思っていた。 男は「この人と結婚したい」と思っていて、女も親が目合わせようとする他の男に見向きもしなかった。 そこで男は女に次の歌を贈った。
    筒井つの井筒にかけしまろがたけ
    すぎにけらしな妹見ざるまに
    あなたを見ない間に私はあなたと背比べをして遊んでいた井筒即ち井戸の囲いの高さより背が高くなってしまった、という意味である。
    それに対して女は、
    くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ
    君ならずしてたれかあぐべき
    と返した。 あなたと背比べをしていた私の髪は、もうおかっぱ頭ではなく、肩まで垂れてきました。この髪をあげて女にするのはあなたしかありません、という意味である。
    こうして二人はめでたく夫婦になったのであるが、女の親が死に生活がくるしくなったので、男は河内の高安の女の許に通うようになる。
    しかし、「井筒の女」はそれを咎める様子もない。男は、女が別の男に心を移したのだろうと疑って、高安に出かける振りをして、 前栽(植木)の陰に隠れて様子をみていたら、女は美しく化粧してもの思いにふけりながら、
    風吹けば沖つしら浪たつた山
    よはにや君がひとりこゆらむ
    と、夜遅く龍田山を越えて高安へと向かう男の身を案じた。この歌を聞いて、男は「井筒の女」を限りなく愛しく思って、 以後高安の女には会いに行かなかったという。(以上、梅原猛著「世阿弥の恋」より抜粋)
     
    以上が第23段の話である。話しは非常にシンプルだが、小生、そこには3つの面白さがあると思う。
    1. 3首の和歌が素晴らしい。
    2. 筒井筒(幼馴染)のロマンスの成就が面白い。
    3. その後の待つ女の情念が凝縮された形で表現されている。
     
     
     
  2. 能「井筒」
     
    室町時代、世阿弥がこの伊勢物語「筒井筒」を元に能「井筒」を書いた。
    小生は、5歳のころまで祖母に育てられたが、祖母はよく謡いの会をやっていた。 どこが面白いのか「あんなもん!」とか思っていたが、小生の頭の中に詞は残らなかったがメロディはかすかに残ったようだ。 それが今ころになって「能」に聊かの関心を向けさせたのかも知れない。
    話しは跳ぶが、名文家で知られる樋口一葉は、子供の頃、常磐津を習っていたと友人に語ったそうだ。 一葉は25歳までしか生きなかったが、それなのに、「にごりえ」、「たけくらべ」など20編余りの名作を残している。 小生は、そんな歳でどうやったらあんな名文が書けるのか不思議だったが、子供の頃の常磐津を習った経験がその謎々の解ではないかと思う。
    だから、子供の頃の経験は、結構効いてくるのではないかと思うのだ。 小生ですら、謡曲に関心を示したのだから、少し遅かったけど。一葉の場合は強烈だった。 そう思って孫には良い作品を見せるようにしている。例えば、宮崎駿の「耳をすませば」とか「となりのトトロ」とか。 もう直ぐ3歳になるが、熱心に観るから後で効いてくるかも知れない。
    横道に逸れたが話を戻そう。
     
    こしらえものは井筒を現し、井筒の傍にはあたかも業平の霊が化したかのような薄が一叢生えている。
     
    「井筒」を見てゆこう。
    舞台は大和の石上の在原寺。在原寺はかつて、業平の邸があった所で、在原業平が幼な友達の紀有常の娘と井筒の傍で背を比べて遊んだ場所であり、 また、業平が有常の娘と一緒に住み、有常の娘が他の女の許へ通う業平の身を案じて歌を詠んだ所でもある。
    その場所は、今は荒れ果てた古寺になっていて、そこに業平を葬った塚がある。 辺一面、薄が繁っているが、思い出の井筒は残っている。その井筒の傍にもあたかも業平の霊が化したかのような薄が一叢生えている。
    それは秋、月の美しい夜であった。そこに一人の僧が訪れる。
    そのワキの僧は
    「ここは業平の墓があるが、かつて業平と有常の娘が住んでいた。夫婦の霊を弔おう」
    と言う。
    そこに前シテの里の女が、
    シテ『暁ごとの閼伽(あか:お供えする水のこと)の水、暁ごとの閼伽の水、月も心や澄ますらん』
    と言って登場する。
    シテ『さなきだに物の淋しき秋の夜の、人目稀なる古寺の、庭の松風ふけ過ぎて、月も傾く軒端の草、 忘れて過ぎしいにしへを、しのぶ顔にていつまでか、待つことなくてながらへん、げになにごとも思ひ出の、人には残る世の中かな』
    松風の音のみが寂しげに聞こえる秋の夜の、月の冴えわたる古寺で、女が井戸の水を汲んで塚に供えている。 女はひたすら男を待った人生を振り返る。女はこの世に希望を失い、仏に導かれて極楽に行くことを願っている。 その女の素振りを怪しんだワキの僧と女の間に問答が始まり、ワキは
    「このような古い塚に回向するのは業平に近い人であろう」
    と、女に問うが、女は
    「昔男と言われた業平は生きている時でも昔の人。そして今はさらに遠い昔の人。私と何の関係もありません」
    と答える。
    しかしワキがさらに追及すると、女は伊勢物語の語る業平の妻である有常の娘が、夜半に河内国高安の女のところに通う業平を思いやって歌を詠んだ話しや、 業平と有常の娘は幼なじみであり、業平は成長して女に歌を贈り、女もそれに応えて二人は夫婦になったという話しをする。
    地『宿を並べて門の前、井筒によりてうない(垂れ髪、おかっぱ頭)子の、友達語らひて、互いに影をみづかがみ、面を並べ袖を掛け、 心の水も底ひなく、うつる月日も重なりて』
    (中入)
    後場ではまずワキが、
    ワキ『更けゆくや、在原寺の夜の月、在原寺の夜の月、昔を返す衣手に、夢待ち添へて仮り枕、苔の筵に臥しにけり、苔の筵に臥しにけり』
    と後ジテの登場を待つ。そこに誘われてシテが登場する。
    シテ『あだなりと名こそ立てれ桜花、年に稀なる人も待ちけり、かやうに詠みしもわれなれば、人待つ女とも言はれしなり、われ筒井筒の昔より、 真弓槻弓年を経て、今は亡き世になりひらの、形見の直衣身に触れて』
    シテ『恥ずかしや、昔男に移り舞』
    地『雪を廻らす花の袖』
    世阿弥はこの待つ女に業平の冠を被らせ、業平の直衣を着せて登場させるのである。 女はゆっくり序の舞を舞うが、この舞ほど静かで、しかし女の複雑な情念を表す舞はない。 この舞をどれほど美しく、また哀れに舞うかによって演者の品位が問われると思われる。
    そして女は次のように語る。
    シテ『ここに来て、昔ぞ返す在原の』
    地『寺井に澄める、月ぞさやけき、月ぞさやけき』
    シテ『月やあらぬ、春や昔と詠(なが)めしも、いつの頃ぞや』
    シテ『筒井筒』
    地『筒井筒、井筒にかけし』
    シテ『まろがたけ』
    地『生ひにけらしな』
    シテ『老いにけるぞや』
    地『さながら見みえし、昔男の、冠直衣は、女とも見えず、男なりけり、業平の面影』
    これは女に業平が乗り移って語る言葉である。
    業平は子供の頃有常の娘と井筒の傍で遊んだことを思い出す。 しかし井戸の水に映る姿は女の姿ではない。「昔男」の姿だったのである。
    最後の詞は以下のようにある。
    シテ『見ればなつかしや』
    地『我ながらなつかしや、亡婦魄霊の姿は、しぼめる花の、色なうて匂ひ、残りて在原の、寺の鐘もほのぼのと、 明くれば古寺の、松風や芭蕉葉の、夢も破れて覚めにけり、夢は破れ明けにけり』
    やがて寺の鐘が鳴り、夜が明けると、女の姿も消えてなくなる。風に吹かれ散ってしまう芭蕉の葉のように、夢ははかなく破れてしまうというのである。 (以上、梅原猛著「世阿弥の恋」より抜粋)
     
    (所感)
    クライマックスは、
    「さながら見みえし、昔男の、冠直衣(かむりのうし)は、女とも見えず、男なりけり、業平の面影」
    と書かれ、女に業平が乗り移り、その井筒をのぞき込むシーンだ。待つ女の情念がそこで凝縮された形で表現される。 即ち、女の情念が井戸の水面に恋しい男の姿を見るのだ。
     
    女に業平が乗り移り、その井筒をのぞき込むシーン。
    待つ女の情念がそこで凝縮された形で表現される。
     
    「井筒」は、女の男に対する恋慕の情を美しく謡い上げている。 殊に死後までも続く女の純真な情は、恋愛の永遠性を感じさせるものになっていると思う。
     
     
     
  3. 流行歌「湯島の白梅」
    昭和になって「湯島の白梅」という流行歌が大ヒットしたが、 その歌詞の2番に「筒井筒」の詞がある。
    忘れられよか筒井筒
    岸の柳の縁結び
    かたいちぎりを義理ゆえに
    水に流すも江戸育ち
    この中の「筒井筒」の意味がずーっと分からなくて今まできたが、伊勢物語第23段を読んで、井戸の囲いのことだと分かった。 井戸の囲いで遊んだ友達同士という意味から幼馴染という意味に転じたものだ。 やれやれ。
    湯島天神は千代田区湯島3丁目にあるが、そこは、上野不忍池のすぐ近くにあり江戸下町の真っ只中という土地なのだ。 そんな江戸下町では、幼馴染のことを「筒井筒」と言ってたわけだから、小生から見ると奥ゆかしい気がする。 何しろ伊勢物語由来だから。・・・正直いうと意外だ。 江戸下町風情と伊勢物語の取合せが面白い。
    江戸時代の町方の市井では小倉百人一首も手習いの教本に使われて結構ポピュラーなものだったことを思いあわせると、 伊勢物語も我々が思う以上に市井に溶け込んでいたことだろう。
     
     
     
  4. おわりに
    最後に、告白のシーンをもう一度思いだそう。
    筒井つの井筒にかけしまろがたけ
    すぎにけらしな妹見ざるまに
    「井筒にかけしまろがたけ」の「かけ」は「欠け」ではないだろうか。「たけ」は「丈」だよね。
    それに対して女は、
    くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ
    君ならずしてたれかあぐべき
    と返した。「肩すぎぬ」は「肩過ぎぬ」、「たれかあぐべき」は「誰か上ぐべき」だろう。
    このところがいい。「伊勢物語」の中でも最も有名な歌だけのことはある。
    今度生まれ変わったら、筒井筒に衣でも掛けてみたい。
    だけど、能「井筒」は、
    「我ながらなつかしや、亡婦魄霊に姿は、しぼめる花の、色なうて匂ひ、残りて在原の、寺の鐘もほのぼのと、 明くれば古寺の、松風や芭蕉葉の、夢も破れて覚めにけり、夢は破れ明けにけり」
    で終る。
    これは、紀貫之の「古今集」仮名序の「在原業平は、萎める花の、色無くて、匂ひ残れるがごとし」 を引用したものだ。
    であれば、筒井筒のロマンスを実現させるには、筒井筒に衣を掛けただけでは駄目で、 「色無くて、匂ひ残れるがごとし」と言われるように生まれ変わらなければならないことになる。 ・・・総替だ!
     
     
    能「井筒」を覗いてみたい方は、 ここをクリックして下さい。
    この録画、少し笛の音が高すぎて、謡い方との音のバランスが崩れている。 小鼓の音も高すぎる。
    謡い方、囃子方とも和音(ハーモニー)は無い。 掛け声によりリズムはある。 謡いに単調だがメロディーもある。 指揮者はいない。
    思うに、能とは極端に抽象様式化されたミュージカル劇ではなかろうか。 その意味で俳句や短歌などのような短詩的ミュージカルと言えるかも。 西洋の演劇や中国の京劇などとは全くの異質のもの。 それだけにそのオリジナリティは称賛に値する。 特徴は淡々と演じられるクライマックス。 それと観る人の想像力への依存だろう。

    謡いによって謡われる詞、これが主役なのではなかろうか。 舞も囃子もそう言う意味では脇役のような気がする。
    そこのところをキリスト教的に言うと、「元始(はじめ)に言葉ありき」ということだろう。 これは、旧約聖書の「創世」に書かれている言葉だ。 小生は、キリスト教の信者でもないので、別に宣伝する心算はないが、言葉の力の大きさを認めている証拠の一つとして掲げてみた。
    それを受けて、のちに使徒パウロは記した。「言葉は生ける神の口から出て、自身、創造の力を持つ生けるものであった。」と。(犬養道子著「旧約聖書物語」より)
    これは俄かには信じがたいことだ。言葉がなにものかを創造するというのだから。だが、言葉の持つ力の大きさはある程度認めてもいいのではないだろうか。 そういう意味で、言葉は能のベースを成すものだろう。あるいは、そう言う意味で「能」は純粋芸術(持続性のある芸術)に近いのかも知れない。 バックミュージックや演者の舞に影響される度合いの少ない分だけ。

    となると、当然の帰結として「日本語に依存するのか、それともそうではないのか」が問題となる。 能に限っては言葉の力が日本語限定かも知れない。何故なら、落語とか講談とか我が国ほど話芸の盛んなところは珍しいからだ。 また一方、能は言語フリーの存在かも知れない。
    この答えは、小生には分からない。だが、ここでは仮に言語フリーという立場をとるとすると、能はまたそぞろに広まることだろう。 それまで生きていることは不可能だろうけど、数百年後の「能」ってどんなものだろう? 想像するだけでも楽しいような気がする。 その頃の国際語は何?となると、多分英語だろう。 そうなると、「英語の謡い」ってどんなもの?となる。 英語と日本語では音律が違うからメロディは違ったものになるはずだ。 さらに、英語は子音の多い言語だ。それは母音の多い日本語と、発声が異なることを意味する。 となると、日本語が持つ気合的な発声というか力んだ発声の連続が英語でも可能だろうか疑問だ。 英語の流れるような言葉は、単音を発する鼓に役割を与え続けるだろうか、これも疑問だ。 ハーモニーは多分あることになるだろう。 そうなると、謡い自体が相当変わってしまうはず。 ストーリーは? テーマは? など等、多様な変化を伴うだろうが「解らない」というのが正直なところだ。
    ただ一つだけ言えることは、多分、英語能のスタートは既存の能の翻訳ものから始まる可能性が高い。 となると、この「井筒」などよろしいのではないだろうか。 また、羽衣なども。「持って帰って家の宝にしよう」と謡うのだから分かり易いこと請け合いだ。
    原文では、 「これなる松に美しき衣懸かれり。寄りて見れば色香妙にして常の衣にあらず。いかさま取りて帰り古き人にも見せ。家の寶となさばやと存じ候」 となるわけだ。ただ、惜しむらくはこの本では「羽衣」をとりあげていない。ファンタジックものとしては素晴らしいと思うのだが。 ちなみにこの本が取り上げたものは、恋、狂、闇、老、などの範疇のもの。どうやらシュエークスピア的な演目がお好みらしい。
     
     
     
     
     
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