抜粋:自然の法則より
(一神教や多神教などの)宗教はみな、重要な特徴を一つ共有している。どれも、神あるいはそれ以外の超自然的存在に信仰の焦点を当てているのだ。
紀元前1000年紀には、まったく新しい種類の宗教がアフロ・ユーラシア大陸中に広まり始めた。
インドのジャイナ教や仏教、中国の道教や儒教・・・は、神への無関心を特徴としていた。
これらの教義は、世界を支配している超人的秩序は神の意思や気まぐれではなく自然法則の産物であるとする。
自然法則を信奉する古代宗教のうちで最も重要な仏教で、仏教は今なお、主要な宗教の一つであり続けている。
仏教の中心的存在は神ではなくゴーダマ・シッダールタという人間だ。
それによると、心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛は常に不満を伴うというのがゴーダマの悟りだった。
心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。
快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。
したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。
ゴーダマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。
心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。
人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。
実は悲しさの中には豊かさもありうる。喜びを経験しても、その喜びが長続きして強まることを渇愛しなければ、心の平穏を失うことなく喜びを感じ続ける。
だが心に、渇愛することなく物事をあるがままに受け容れさせるにはどうしたらいいのか?
どうしれば悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして、痛みを痛みとして受け容れられるのか?
ゴーダマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。
この修行で心を鍛え、「私が何を経験していたいか?」ではなく「私は何を経験しているか?」にもっぱら注意を向けさせる。
このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない。
ゴーダマはこの瞑想術の基礎を、人々が実際の経験に集中し、渇愛や空想に陥るのを避けやすくなるように意図された一揃いの論理的規則に置いた。
彼は弟子たちに、殺生や邪淫、窃盗を避けるように教えた。そうした行為は必ず(権力や官僚的快楽や富への)渇愛の火を掻き立てるからだ。
渇愛を消してしまえば、それに代わって完全な満足と平穏な状態が訪れる。それが「涅槃」として知られるものだ(この言葉の文字どおりの意味は「消火」だ)。
涅槃の境地に達した人々は、あらゆる苦しみからすっかり解放される。
彼らは空想や迷いとは無縁で、この上ない明瞭さをもって現実を経験する。
依然として不快感や痛みを経験することはほぼ確実だが、そうした経験のせいで苦悩に陥ることはない。渇愛しない人は苦しみようがないのだ。
仏教の伝承によると、ゴーダマ自身は涅槃の境地に達し、苦しみから完全に解放されたという。
その後、「仏陀」と呼ばれるようになった。ブッダは「悟りを開いた人」を意味する。
ブッダは誰もが苦しみから解放されるように、自分の発見を他の人々に説くのに残りの人生を捧げた。
彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。
苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその方法だ。
「ダルマ」として知られるこの法則を、仏教徒は普遍的な自然の法則と見なしている。
「苦しみは渇愛から生じる」というこの法則は、現代物理学ではE=mc2と全く同じで、常にどこでも正しい。
仏教徒とは、この法則を信じ、それを全活動の支えとしている人々だ。
一方、神への信仰は、彼らにとってそれほど重要ではない。一神教の第一原理は、「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」だ。
それに対して、仏教徒の第一原理は、「苦しみは存在する。それからどう逃げるか?」だ。