「サピエンス全史」から仏教

2020/01/19 石井ト
12月27日(金)のNHKBs1の夜8時から10時、「衝撃の書が語る人類の未来〜サピエンス全史」という番組をやっていた。 内容は、ユヴァル・ノア・ハラリ という歴史学者へのインタビューを挟んで、著書の解説という形のものだが、 興味を惹かれる内容の本がとり上げられていた。
今回、それに触発されて図書館に予約していたその著書の中の一つ「サピエンス全史(下)」が手に入ったので読んでみた。
この本、下巻だけで264ページある本で、字も小さい。 従ってまだ、半分しか読んでないが、神、宗教、イデオロギーなど目から鱗の発見があった。結構面白い。段々、読んでみようと思う。
今回、我々に馴染みの仏教について述べた箇所(26p〜30p)から、興味深い箇所を抜粋し、 所感を記してみます。良かったらご覧ください。
  1. 抜粋:自然の法則より
    (一神教や多神教などの)宗教はみな、重要な特徴を一つ共有している。どれも、神あるいはそれ以外の超自然的存在に信仰の焦点を当てているのだ。
    紀元前1000年紀には、まったく新しい種類の宗教がアフロ・ユーラシア大陸中に広まり始めた。 インドのジャイナ教や仏教、中国の道教や儒教・・・は、神への無関心を特徴としていた。
    これらの教義は、世界を支配している超人的秩序は神の意思や気まぐれではなく自然法則の産物であるとする。 自然法則を信奉する古代宗教のうちで最も重要な仏教で、仏教は今なお、主要な宗教の一つであり続けている。
    仏教の中心的存在は神ではなくゴーダマ・シッダールタという人間だ。 それによると、心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛は常に不満を伴うというのがゴーダマの悟りだった。 心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。 快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。 したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。
    ゴーダマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。 心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。 人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。 実は悲しさの中には豊かさもありうる。喜びを経験しても、その喜びが長続きして強まることを渇愛しなければ、心の平穏を失うことなく喜びを感じ続ける。
    だが心に、渇愛することなく物事をあるがままに受け容れさせるにはどうしたらいいのか? どうしれば悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして、痛みを痛みとして受け容れられるのか? ゴーダマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。 この修行で心を鍛え、「私が何を経験していたいか?」ではなく「私は何を経験しているか?」にもっぱら注意を向けさせる。 このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない。
    ゴーダマはこの瞑想術の基礎を、人々が実際の経験に集中し、渇愛や空想に陥るのを避けやすくなるように意図された一揃いの論理的規則に置いた。 彼は弟子たちに、殺生や邪淫、窃盗を避けるように教えた。そうした行為は必ず(権力や官僚的快楽や富への)渇愛の火を掻き立てるからだ。 渇愛を消してしまえば、それに代わって完全な満足と平穏な状態が訪れる。それが「涅槃」として知られるものだ(この言葉の文字どおりの意味は「消火」だ)。 涅槃の境地に達した人々は、あらゆる苦しみからすっかり解放される。 彼らは空想や迷いとは無縁で、この上ない明瞭さをもって現実を経験する。 依然として不快感や痛みを経験することはほぼ確実だが、そうした経験のせいで苦悩に陥ることはない。渇愛しない人は苦しみようがないのだ。
    仏教の伝承によると、ゴーダマ自身は涅槃の境地に達し、苦しみから完全に解放されたという。 その後、「仏陀」と呼ばれるようになった。ブッダは「悟りを開いた人」を意味する。 ブッダは誰もが苦しみから解放されるように、自分の発見を他の人々に説くのに残りの人生を捧げた。 彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。 苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその方法だ。
    「ダルマ」として知られるこの法則を、仏教徒は普遍的な自然の法則と見なしている。 「苦しみは渇愛から生じる」というこの法則は、現代物理学ではE=mc2と全く同じで、常にどこでも正しい。 仏教徒とは、この法則を信じ、それを全活動の支えとしている人々だ。 一方、神への信仰は、彼らにとってそれほど重要ではない。一神教の第一原理は、「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」だ。 それに対して、仏教徒の第一原理は、「苦しみは存在する。それからどう逃げるか?」だ。
  2. 所感
    • 仏教発見の心境であること:
      自分は、生まれた時からの習慣で仏教徒だと信じていた。 だが、この本のこの部分を読んで、殆ど知らなかったに等しいことを知った。 知っていたのは、「シッダールタ」、「涅槃」、「仏陀」、「悟り」・・・くらいなもの。しかもその殆どが単語としての断片だけで、 それらが全体にどう絡むかは知らなかった。だが、この本のお陰で、仏教の基本が解った。
      この他にも、神、宗教、イデオロギーなど目から鱗の発見があったが、段々、書いてみようと思う。
      今回は身近な仏教から取り上げてみた。その中特に吃驚したのは、「涅槃」だ。私は、横たわって瞑想する状態を指す言葉だと思っていた。
      だが、実際は、「涅槃」のウイキペディアによると、
      原語はサンスクリット語のニルヴァーナ。古くは煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ、悟りの境地をいう。「涅槃」はこれらの原語の音写である。
      特に吃驚は、「涅槃」はサンスクリット語の音写であること。漢字は表意文字だからとて漢字の意味を斟酌するのは意味が無いわけだ。 音写なら初めっからカナで書いてくれれば親切だったのに・・・と思う。しかし、物知りはそう親切ではない。 自分の博識をひけらかすチャンスをそう簡単に明け渡すはずはないのだ。・・・むしろ逆転の可能性さへ秘めている。 即ち、文意より博識の披露という奴を優先するやり方だ。特に漢字の場合、身に着けるまでに払う努力の程度が大きいだけに、元をとるという発想が生まれるのだろうと思う。 その点、表音文字は、例えば、英語ならアルファベット26文字を憶えればいいから、元手回収の発想は生まれない。
      また、この本が示すように、この言葉の文字どおりの意味は「消火」という箇所。
      従って、ここから、涅槃とは「渇愛の火を消すこと」となるようだ。・・・日本語は、漢字の影響を受け、漢字表記の文を用いるが、用いた漢字が音写、 即ち、表音文字として使われた場合は、見ただけではその言葉の意味は分らない。固有名詞なら不知、普通名詞おやで、見当もつかないのである。 今更、文句を言っても仕方ないがぼやきたくもなる、というものだ。・・・この際、ぼやくのは渇愛の顕れであるから、ダルマ違反である。 かと言ってぼやかないのは、現状維持という停滞に繋がるのではないだろうか。 逃げるというのはそういうことだ。逃げることで自分は救われるだろうが、他はどうだろう。そのままの状態におかれたまま残る。 ・・・これでは近代において西欧文化に遅れをとるはず、となる。・・・小乗仏教の限界である。
    • 自然法則について:
      驚くのはこの本が、
      1. 「仏教の教義は、世界を支配している超人的秩序は神の意思や気まぐれではなく自然法則の産物であるとする。」とする箇所
      2. 「ダルマ」として知られるこの法則を、仏教徒は普遍的な自然の法則と見なしている。 苦しみは渇愛から生じる」というこの法則は、現代物理学ではE=mc2と全く同じで、常にどこでも正しい。
      と記していることだ。
      これは流石に聊かの勇み足ではないかと思う。
      特に顕著なのが、「ダルマ」は現代物理学の成果E=mc2(ここに、Eはエネルギー、mは質量、cは光速を表す)と同じ自然法則だと記している箇所。
      ここで、E=mc2が全宇宙で成り立つ自然法則だが、「ダルマ」は精々人間世界だけで通用する自然法則だろうから、 両者が「全く同じ」とは言えないだろうということだ。
    • 戒律について:
      宗教と言えば、よく「戒律」という言葉が浮かぶ。厳密で非人間的で情け容赦ない、というイメージだ。 その部分を抜粋すると、
      ゴーダマはこの瞑想術の基礎を、人々が実際の経験に集中し、渇愛や空想に陥るのを避けやすくなるように意図された一揃いの論理的規則に置いた。
      とある。
      「戒律」と言えば、厳密で非人間的で情け容赦ない、というイメージだったが、これですっきりした。 要するに、渇愛や空想に陥るのを避けやすくするための手段、即ち論理的規則が「戒律」なのである。・・・使用目的がはっきりしたから守れそうな気がした。 白状すると私は、修行から逃げ出さないための罰則かと思っていたのだ。
    • 神と仏教:
      神と仏教の根本的な相異について触れている。 その部分を抜粋すると、
      1. (一神教や多神教などの)宗教はみな、重要な特徴を一つ共有している。どれも、神あるいはそれ以外の超自然的存在に信仰の焦点を当てているのだ。
      2. 紀元前1000年紀には、まったく新しい種類の宗教がアフロ・ユーラシア大陸中に広まり始めた。 インドのジャイナ教や仏教、中国の道教や儒教・・・は、神への無関心を特徴としていた。 これらの教義は、世界を支配している超人的秩序は神の意思や気まぐれではなく自然法則の産物であるとする。
      とある箇所である。
      1.の「超自然的存在」とは、神が自然的存在の上に在るという意味、即ち、世界を支配している超人的秩序は自然の外に在るという意味である。 即ち、自然の一部ではないと言っているのだ。もっと言えば、自然を造った存在、ということだ。 2.の「世界を支配している超人的秩序は神の意思や気まぐれではなく自然法則の産物」とは、 世界を支配している超人的秩序は自然の内にある自然法則だという意味だ。超人的秩序は、誰が造ったものでもない「自然」に備わったもの、という意味だ。
      世界を支配している超人的秩序が、自然の内に在るのか、外に在るのか、という点が基本的に違ってくる。即ち、外に在れば超人的秩序が自然を造ったと云う意味だし、 内にあれば自然の一部ということで、誰が自然を造ったかには言及していない。 私の直観では、超人的秩序が、自然の外に在るという発想は、我々には思いつかないのではないかと思う。 メタな視点の極みだから。
      その点、仏教は自然の中から出ていない。極めて生活臭の強い宗教だと思う。
 
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