抜粋:「虚構が協力を可能にした」部より
約七万年前から約三万年前にかけて、人類は舟やランプ、弓矢、針、を発明した。芸術と呼んで差し支えない最初の作品も、この時期にさかのぼるし、
宗教や交易、社会階層化の最初の明白な証拠にしても同じだ。
このように七万年前から三万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場のことを、「認知革命」という。
その原因は何だったのか?それは定かではない。最も知られている説によれば、たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳の配線が変わり、
それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の原語を使って意思疎通したりすることが可能になったのだという。
その変位のことを「知恵の木の突然変異」と呼んでもいいかも知れない。
だがより重要なのは、「知恵の木の突然変異」の原因結果を理解することだ
どんな動物も、何かしらの言語を持っている。多くの動物が口頭言語を持っている。
オウムは、電話の鳴る音や、ドアがパタンと閉まる音、けたたましく鳴るサイレンの音も真似できるし、アルベルト・シンシュタインが口にできることは全て言える。
アインシュタインがオウムに優っていたとしたら、それは口頭言語での表現ではなかった。
それでは、私たちの言語のいったいどこがそれほど特殊なのか?
私たちの独特の言語は、周りの世界についての情報を共有する手段として発達したという点では、この説(口頭言語の説)と同じだ。
とはいえ、伝えるべき情報のうち最も重要なのは、ライオンやバイソンについてではなく人間についてのものであり、私たちの言語は、噂話のために発達したのだそうだ。
この説によれば、ホモ・サピエンスは本来、社会的な動物であるという。
私たちにとって社会的な協力は、生存と繁殖の鍵を握っている。
ネアンデルタール人と太古のホモ・サピエンスもおそらく、中々陰口が利けなかった。
陰口を利くというのは、ひどく忌み嫌われる行為だが、大人数で協力するには実は不可欠なのだ。
新世代のサピエンスは、およそ七万年前に獲得した新しい言語技能のおかげで、何時間も噂話できるようになった。
誰が信頼できるかについての確かな情報があれば、小さな集団は大きな集団へと拡張でき、サピエンスは、より緊密でより精緻な種類の協力関係を築き上げられた。
おそらく、「噂話」説と「川の近くにライオンがいる」説の両方とも妥当なのだろう。
とはいえ、私たちの言語が持つ比類ない特徴は、人間やライオンについての情報を伝達する能力ではない。
それは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。
見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともないない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るサピエンスだけだ。
伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。
それまでも、「気をつけろ! ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。
だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンはわが部族の守護霊だ」という能力を獲得した。
虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。
実在しない守護神に向かって何時間も祈っていたら、それは貴重な時間の無駄遣いで、その代わりに狩猟採集や戦闘、密通でもした方がいいのではないか?
だが、虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった。
聖書の天地創造の物語や、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。
そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。
だからこそサピエンスは世界を支配し、アリは私たちの残り物を食べ、チンパンジーは動物園や研究室に閉じ込められているのだ。
効力を持つような物語を語るのは楽ではない。
難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。
歴史の大半は、どうやって膨大な数のヒトを納得させ、神、あるいは国民、
あるいは有限会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。
とはいえ、この試みが成功すると、サピエンスは途方もない力を得る。
なぜなら、そのおかげで無数の見知らぬ人同士が力を合わせ、共通の目的のために精を出すことが可能になるからだ。
想像してみて欲しい。若し私たちが、川や木やライオンのように、本当に存在するものついてしか話せなかったとしたら、国家や教会、法制度を創立するのは、
どれほど難しかったことか。
想像上の現実は嘘と違い、誰もがその存在を信じているもので、その共有信念が存続する限り、その想像上の現実は社会の中で力をふるい続ける。
魔術師の内にはペテン師もいるが、ほとんどは神や魔物の存在を心の底から信じている。
百万長者の大半は、お金や有限責任会社の存在を信じている。
人権擁護運動家の大多数が、人権の存在を本当に信じている。
サピエンスはこのように、認知革命以降ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。
一方には、川や木やライオンといった客観的現実が存在し、もう一方には、神や国民や法人と言った想像上の現実が存在する。
時が流れるうちに、想像上の現実は果てしなく力を増し、あらゆる川や木やライオンの存続そのものが、
神や国民や法人といった想像上の存在物あってこそになっているほどだ。