「サピエンス全史(上)」から「認知革命」

2020/01/28 石井ト
  1. イントロ
    12月27日(金)のNHKBs1の夜8時から10時、「衝撃の書が語る人類の未来〜サピエンス全史」という番組をやっていた。 内容は、ユヴァル・ノア・ハラリ という歴史学者へのインタビューを挟んで、著書の解説という形のものだが、 興味を惹かれる内容の本がとり上げられていた。
    今回、それに触発されて図書館に予約していたその著書の中の一つ「サピエンス全史(上)」が手に入ったので読んでみた。
    この本、上巻だけで256ページある本で、字も小さい。 中は、「認知革命」、「農業革命」、「人類の統一」の三つの部に分かれている。
    今回は、その内の「認知革命」部について所感を記してみる。 このテーマは、一言で言えば、物として存在しないものが、ホモ・サピエンス(現在の人類)に掛かれば、実在の産物、云わば「バーチァル・ウェア」 になることを喝破したものだ。 これに遭っちゃ神も仏も一枚(イチミャー)がってんなか!(これ佐賀弁)存在になってしまう。 だが、信じるということの意味が解るような気がするものでもある。 良かったらご覧ください。
  2. 抜粋:「虚構が協力を可能にした」部より
    約七万年前から約三万年前にかけて、人類は舟やランプ、弓矢、針、を発明した。芸術と呼んで差し支えない最初の作品も、この時期にさかのぼるし、 宗教や交易、社会階層化の最初の明白な証拠にしても同じだ。
    このように七万年前から三万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場のことを、「認知革命」という。 その原因は何だったのか?それは定かではない。最も知られている説によれば、たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳の配線が変わり、 それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の原語を使って意思疎通したりすることが可能になったのだという。 その変位のことを「知恵の木の突然変異」と呼んでもいいかも知れない。 だがより重要なのは、「知恵の木の突然変異」の原因結果を理解することだ
    どんな動物も、何かしらの言語を持っている。多くの動物が口頭言語を持っている。 オウムは、電話の鳴る音や、ドアがパタンと閉まる音、けたたましく鳴るサイレンの音も真似できるし、アルベルト・シンシュタインが口にできることは全て言える。 アインシュタインがオウムに優っていたとしたら、それは口頭言語での表現ではなかった。 それでは、私たちの言語のいったいどこがそれほど特殊なのか?
    私たちの独特の言語は、周りの世界についての情報を共有する手段として発達したという点では、この説(口頭言語の説)と同じだ。 とはいえ、伝えるべき情報のうち最も重要なのは、ライオンやバイソンについてではなく人間についてのものであり、私たちの言語は、噂話のために発達したのだそうだ。 この説によれば、ホモ・サピエンスは本来、社会的な動物であるという。 私たちにとって社会的な協力は、生存と繁殖の鍵を握っている。
    ネアンデルタール人と太古のホモ・サピエンスもおそらく、中々陰口が利けなかった。 陰口を利くというのは、ひどく忌み嫌われる行為だが、大人数で協力するには実は不可欠なのだ。 新世代のサピエンスは、およそ七万年前に獲得した新しい言語技能のおかげで、何時間も噂話できるようになった。 誰が信頼できるかについての確かな情報があれば、小さな集団は大きな集団へと拡張でき、サピエンスは、より緊密でより精緻な種類の協力関係を築き上げられた。
    おそらく、「噂話」説と「川の近くにライオンがいる」説の両方とも妥当なのだろう。 とはいえ、私たちの言語が持つ比類ない特徴は、人間やライオンについての情報を伝達する能力ではない。 それは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。 見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともないない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るサピエンスだけだ。
    伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。 それまでも、「気をつけろ! ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。 だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンはわが部族の守護霊だ」という能力を獲得した。 虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。
    実在しない守護神に向かって何時間も祈っていたら、それは貴重な時間の無駄遣いで、その代わりに狩猟採集や戦闘、密通でもした方がいいのではないか?
    だが、虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった。 聖書の天地創造の物語や、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。 そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。 だからこそサピエンスは世界を支配し、アリは私たちの残り物を食べ、チンパンジーは動物園や研究室に閉じ込められているのだ。
    効力を持つような物語を語るのは楽ではない。 難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。 歴史の大半は、どうやって膨大な数のヒトを納得させ、神、あるいは国民、 あるいは有限会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。 とはいえ、この試みが成功すると、サピエンスは途方もない力を得る。 なぜなら、そのおかげで無数の見知らぬ人同士が力を合わせ、共通の目的のために精を出すことが可能になるからだ。 想像してみて欲しい。若し私たちが、川や木やライオンのように、本当に存在するものついてしか話せなかったとしたら、国家や教会、法制度を創立するのは、 どれほど難しかったことか。
    想像上の現実は嘘と違い、誰もがその存在を信じているもので、その共有信念が存続する限り、その想像上の現実は社会の中で力をふるい続ける。 魔術師の内にはペテン師もいるが、ほとんどは神や魔物の存在を心の底から信じている。 百万長者の大半は、お金や有限責任会社の存在を信じている。 人権擁護運動家の大多数が、人権の存在を本当に信じている。
    サピエンスはこのように、認知革命以降ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。 一方には、川や木やライオンといった客観的現実が存在し、もう一方には、神や国民や法人と言った想像上の現実が存在する。 時が流れるうちに、想像上の現実は果てしなく力を増し、あらゆる川や木やライオンの存続そのものが、 神や国民や法人といった想像上の存在物あってこそになっているほどだ。
  3. 所感
    • 「客観的現実」と「想像上の現実」
      私は、この歳、81歳だが、それまで、この世にあるのは「客観的現実」だけで「想像上の現実」が在ることは意識していなかった。 だが、ハラリ氏の指摘で、第二の存在ともいうべき「虚構」という想像上の現実が存在することを知った。
      この「想像上の現実」というアイディアで、従来から疑問に思っていた宗教における信仰心の違いという不可思議な現象が説明できるかと思い、 内容をよく読み二つの現実の違いを比較表にまとめてみた。次表がその表だ。
      「客観的現実」と「想像上の現実」の比較表
      現実実体真偽の評価運動法則
      客観的現実物体個人=集合自然則(保存則など)
      想像上の現実言葉個人‡集合理性による認知
      比較の結果いえることは、「想像上の現実」の実体が言葉であることから、 個々人の解釈は、その人の認知能力に由ることから相異が生じるのは当然であり、結果として個人の解釈と集合の解釈が一致しない場合があることになる。
      もう一つの可能性は、他の言葉があった場合、二つの言葉の優劣を決める鍵が無いことだ。鍵とは拠って立つ何かだが、それが「客観的現実」なら、 「想像上の現実」の枠を外れるし、それが、言葉なら、三竦みの問題が生じるだけで、収斂する可能性はない。
      これが、信仰心の違いに終わりが無いことの原因だろう。 「客観的現実」の場合は、認識の違いは、実験で確かめられ正否が決まってくるから、時間と共に収斂する、即ち終わりがあるのだ。 「想像上の現実」の収斂無き世界、落ち着かない世界だよね。私は嫌いだな。逃げだせないが。
      この表から言えるもう一つのことは、両者の運動法則が違うので、「客観的現実」と「想像上の現実」の間には越えがたい溝があるということだ。 理由は、適用範囲が違うからである。例えば、他の惑星に知的生命体がいたとして、その星の太陽が二個ある惑星だった場合、 太陽神という神が二つ生まれる可能性が考えられ、想像力において地球人と他の惑星の知的生命体とは差異が生じる。 従って、「想像上の現実」の宇宙レベルでの普遍性はない、となるのだ。 だが、同一惑星内では互いに影響を及ぼし合うことはあるだろう。
    • 信念とは?
      「虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴」であることから、その「架空の事物」に存在証明(アリバイ) は無い。在るのは言葉だけ。・・・これが「信念」の正体だ。「信仰」といってもいい。
    • 言葉の力
      キリスト教の新約聖書のパウロ福音書に「始めに言葉ありき」という件があるそうだが、 それに用いられている「言葉」の意味とこの表で使われている「言葉」の意味は同じだと思う。
      それどころか、従来はピンと来てなかったその力が認知革命を経て、改めて認識されることになった。 虚構、即ち、伝説や神話、企業や法制度、国家や国民、人権、自由、平等、などの実体は言葉であるから、言葉の力の大きさが実体を持つものとして目の前に展開された思いである。 パウロの福音書の一節で触れられたに過ぎなかった「言葉」という存在が、キリスト教徒のみならず現代の全サピエンスに君臨することになろうとは、驚きだ。
    • 道徳観
      道徳観も「想像上の現実」の一つであり、振舞いは統計的だ。ある人の道徳観と別の人のそれが同じではないからと云って驚いてはいけない。
    • 「認知革命」というアイディア
      ハラリ氏のこのアイディア、・・・既に誰かが言い出していたかどうかは知らないが、革命的だと思う。 別な言葉で言えば、ハラリ氏は、「言葉」を発見した、と言えると思う。但し、パウロ以外では。
      今まで聞いてきた歴史的事件は、二足歩行、石器、火、火薬の発見、文字の発見、天動説、新大陸発見、産業革命、相対性理論の発見、 などだが、皆、物についての歴史的事件についてであった。 だが、ハラリ氏の「認知革命」は目に見えない架空の事実の発見事件と言える。物にだけ気をとられていては駄目ということだろう。 「AI革命」も起こりつつあるし、「言葉」から「アルゴリズム」へ、ここ100年、 ・・・「始めに言葉在りき」から、「終わりにアルゴリズム在りき?」へ、どう変わるのか知りたいものだ。
    • サピエンス全史事件と日本人
      ここまで読むと、サピエンス全史事件に日本人がどう関わったかが見えてくる。 別に、国家主義(ナショナリズム)から言うわけではないが、 上節の歴史的事件、即ち、二足歩行、石器、火、火薬の発見、文字の発見、天動説、新大陸発見、産業革命、相対性理論の発見、をとっても、日本人が起した事件はない。 決して、基本的な能力に欠けているわけではなく、東海の片隅に逼塞していたから、というのがその理由の一かも知れないが、 それだけ日本人は世界史的に見れば若いと云えるのではないだろうか。 そろそろ、サピエンス全史にデビューしてもいいころだろう。・・・そのためには、もっと大風呂敷を広げないといけないと思う。 いい学校出て、いい会社に入って、波風たたないように身を処して、こじんまりとした一生を送る、なんてもうやめた方がいい。 多分、そんなのは成り立たないだろう。・・・受け身ではなく能動的にならないといけない。
      このハラリ氏の本、「サピエンス全史(上)(下)」、「ホモ・デウス(上)(下)」読んでみることだ。 面白いし、退屈しのぎになるし、一旗揚げる気になるかもしれないし、である。
      ユダヤ人って面白いね! アインシュタインもユダヤ人だし、ハラリ氏もそうだし。兎に角優秀、・・・この本読めば、そのものの見方が分るかも。 一言で言えば、東洋的思想には生活臭があり、西洋的思想にはそれがない、が分るだろう。
    • 歴史の方向:歴史は統一に向かって進み続ける
      話は跳ぶが、この本「サピエンス全史(上)」の第3部「人類の統一」から引用する。
      歴史の方向性に気付くかどうかは、じつは視点の問題だ。・・・長期的な過程を理解するには、鳥瞰的な視点は、あまりに視野が狭すぎる。 鳥の視点の代わりに、宇宙を飛ぶスパイ衛星の視点を採用したほうがいい。この視点からなら、数百年ではなく数千年が見渡せる。 そのような視点に立てば、歴史は統一に向かって執拗に進み続けていることが歴然とする。
      ・・・これが、ハラリ氏のものの見方の原点のように思われる。生活臭がしないはずだよね。
      アインシュタインもものの見方は常人と違っていた。彼は、そこいら辺に溢れている「光」に注目したのだ。ニュートンはただのリンゴに注目した。 即ち、常人には、気付かない視点がそこにあったのだ。ハラリ氏のものの見方も常人と違っているはずと思っていたが、 スパイ衛星と来たようだ。”天才=頭脳+視点 但し、頭脳<視点”ということだろう。 ・・・天才条件式とネーミングしよう。
 
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