おまけ
アリストテレス(前384年 - 前322年3月7日)によって天体を構成する第五元素として提唱されたエーテルという物質(媒質)や、
それを踏襲して宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ:musica mundana)という波で宇宙の調和が保たれているとなっている。
現代物理学では、物理現象は、あらゆる地点で定義される場の変動が引き起こすと説く「場の量子論」が、有力な学説として研究されている。
その量子論的な世界では、場のネットワークを通じて、内部空間で生起する波が相互に伝わっていくことで、あらゆる物理現象が実現されるため、
物質が要素(即ち、原子とか素粒子とか、我々が中学・高校で習った要素物質のこと)から構成されるという見方が成り立たない。
即ち、この世は「場のネットワークを通じて、内部空間で生起する波が相互に伝わっていく」ものなのである。(この段、吉田伸夫著「量子論はなぜわかりにくいか」より引用)
これが、現代版宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)である。波という概念で語られることが、キリスト教世界での世界説明と、
現代の場の量子論が語る世界説明と共通していて面白い。
2300年も前に、エーテルを発想し、それを受け継いだムジカ・ムンダーナという考え、
そして現代の場の量子論が語る世界説明、この継承性、類似性が西洋文明に異彩を放っている。
中国には、五行思想または五行説があって、万物は火・水・木・金・土の5種類の元素からなるという説があるが、
それが現代の自然科学に繋がって生き残った形跡はない。
また、インド哲学の「五大」地・水・火・風・虚空を見ても同じである。
西洋文明だけが2300年の歴史を現代科学に活かしている文明なのである。
その原因を知りたいものだ。・・・多分、思想と事物を結びつけて考える癖が他の文明に対し特異なのではないだろうか。
事物には自然則という縛りがあるから事物を結びつけて考える思想には自然則というアンカーがかかることになり、
思想の暴走を制限することが出来ると考えられる。
一方、思想だけでは何の縛りもないから何でも言えるとなる。敢えて縛るとしたら人間同士のルールである。その代表は「礼」とか「孝」とかだろう。
だから、生み出される思想は人間臭くなるのである。即ち、人文科学は発達するも、自然科学は停滞するとなる。
更に、思想に善悪の基準を与えるものとして、宗教戒律がある。
だが、わが国の仏教の場合、実社会を縛るほどの力は失せ、最早、葬式用と化している。
理由は、経典が漢文で解り難く、邦訳のお経もあるが漢文が多く意味が解り難いので、庶民化せず、
その戒律を盾にある思想の暴走を阻止することができないからだ。
一つ例を挙げれば、「色不異空、空不異色」という経文を「色は空に異ならず、空は色に異ならず」というように書き下しもせず、
「シキフーイークークーフーイーシキ」と音読みのまま唱える訳ですから、初めて聞いた人には何のことやらわかるはずもありません。」
(仏教入門:ひらさちや編著:池田書店より引用)がある。
仏教伝来いらい千数百年の間、これを不思議とせず、放置したノー神経には驚かざるを得ない。
仏教界の長年の努力不足の結果だろうか? 寧ろ、善男善女であり続けることを善しとした所為ではないだろうか。
徳川幕府の政治思想「寄らしむべし識らしむべからず」の仏教版だ。
要するに知識階級の驕りが見える。それを現在も引きずっているように思える。そして、それを許してきた宗教の限界を見る思いだ。
斯くて教訓は、思想にはアンカーを着けるべし、となる。即ち、事実を慮るべし、なのである。
わが国は、古くから中華文明の影響を受け、その解読に力を注いできた。ゼロから出発して自らが考える癖が著しく疎外された歴史を持っている。
仏教の漢文音読みが初動段階での思考癖をいい加減なものにしてしまったのだ。・・・現代でもそれを引きずっている。
例えば、パソコンとかスマホ、この導入段階では、上辺だけ真似し、その核心技術を学ばす応用技術だけで突っ走ってきた。
その付けが今の情報技術の停滞をもたらしている。
考えるに、パソコンの黎明期、徹底的に"unix"を学ぶべきだったと思う。個人レベルではなく企業・国家としてだ。
それを怠り、上っ面の箱ものに過ぎないパソコンを大量生産し、心臓部たるOSを輸入に頼ったのであるから、いずれ息詰まるのは予想できたはず。
眞に仏教の現代版だ。・・・云っちゃなんだけど、わが国のインテリジェンスって無いに等しいのではないかと思う。