皆川達夫:宇宙の音楽が聴こえる

2020/05/16 石井ト
NHKEテレで、5月9日(土)13:00〜14:00「『こころの時代(再)』宇宙の音楽が聴こえる」を見た。 凄く面白かった。 内容は、皆川達夫というバッハ以前の西洋中世音楽研究家へのインタビュー番組だ。
始めは何気なくみていたが、はたと気付いて録画したが、時間は40分だけ。頭の20分の部分は、NHK+など色々手を尽くしたが再見できてない。
何処が面白いかと言えば、彼が、バッハ以前の西洋中世音楽を研究したことだ。 具体的に言えば、グレゴリオ聖歌などの日本で言えば御詠歌のような、云わば退屈な音楽にはまり、生涯を掛けてそれを研究したことである。
当時、終戦直後だが、日本では殆ど参考になる資料もなく、殆ど独学で取り掛かったそうである。
以下、氏の略歴と音楽への発端、宇宙の音楽とは如何なるものだったかを記してみる。以下の通りだ。
  1. 皆川達夫氏の略歴(ウイキペディアによる)
    皆川達夫(1927年4月25日 - 2020年4月19日)は、日本の音楽学者、合唱指揮者。称号は文学士(東京大学)、博士(芸術学)(明治学院大学)。 立教大学名誉教授。中世・ルネサンス音楽の研究で知られる。
  2. 発端(ウイキペディアによる)
    東京市で水戸藩士・皆川氏の家系に生まれ、幼時から謡曲を習う。1940年、東京府立第八中学校(東京都立小山台高等学校の前身)に入学。 同年、能「巴」に接して感動、しばしば能楽堂や歌舞伎座に通い、級友からは「アブちゃん」(abnormalから)という綽名で呼ばれていた。 やがてグレゴリオ聖歌やパレストリーナのレコードを聴いて感動したことがきっかけで、ルネサンス音楽に熱中し、音楽学を志すに至った。
  3. パレストリーナとは
    発端の中に出てくるパレストリーナは、ウイキペディアによると次のような人物だ。
    ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(1525年-1594年2月2日)は、イタリア・ルネサンス後期の音楽家である。
    発端で記したパレストリーナのレコードだが、この曲をネットで探した。 音楽は講釈より直接聴いた方が早いからだ。
    パレストリーナ作曲の中から彼の代表作とされる「教皇マルチェルスのミサ曲」にリンクを張ろう。 ここをクリックして下さい
  4. 宇宙の音楽とは
    番組の中で、皆川達夫氏は古代ローマ末期に書かれた「音楽綱要」という音楽理論書を紹介した。 著者は、アニキウス・マンリウス・トルクアトゥス・セウェリヌス・ボエティウス (Anicius Manlius Torquatus Severinus Boethius、480年 - 524年か525年)、 古代ローマ末期のイタリアの哲学者、政治家だ。
    彼は『音楽綱要』(De institutione musica、『音楽教程』)全5巻を著し、プトレマイオスの音階論を踏襲しながら、古代ギリシアの音楽論を伝承した。 彼はこの本の中で、音楽を「世界の調和としての音楽(ムジカ・ムンダーナ)」「人間の調和としての音楽(ムジカ・フマーナ)」 「楽器や声を通して実際に鳴り響く音楽(ムジカ・インストゥルメンターリス)」に分類している。この本は中世ヨーロッパにおいて広く影響を及ぼした。 詳しくはここをクリックのこと。
    氏の話を抜き書きすると、ボエティウスの『音楽綱要』を見せながら、キリスト教での崇拝の対象は偶像ではなく、耳で聞く音であり、 世界は、音楽(波)で出来ており、その波は次の3つに分けられると説いた。
    • 宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ:musica mundana):宇宙の調和を保つ音楽
    • 人間の音楽(ムジカ・フマーナ:musica humana):人間の調和を保つ音楽
    • 楽器の音楽(ムジカ・インスツルゥメンターリス:musica instrumentalis):楽器の調和を保つ音楽。人の発する声もこの中に入る。
    そして、宇宙の音楽とは、「ムジカ・インスツルゥメンターリス」に共鳴した倍音であると説明し、キリスト教ほど音楽を重要視した宗教はないと説いた。
  5. 所感
    • 崇拝の対象が、偶像ではなく耳で聞く音楽だとは面白い。
    • 古代ギリシアの音楽論を発展させて今があることに驚いた。記録がなされてそれが生かさせる社会構造が素晴らしい。
    • 宇宙が波で出来ていることを古代ローマの末期のころには意識していたとは驚いた。 現代物理学でも波が主役であることに気がつき始めているのだから。問題は、波の素が解らないだけ。紐かも知れないし、空間自体の性質なのかも知れない。 でも主役は波のはずということになっている。それを実験装置もないころ、思推するだけで思いつくとは凄い!の一言だ。 単純なのは見た目を拝む、だがね。その見た目ではないところに思いを致す思考力が凄い。
    • 皆川達夫氏の面白いところは、バッハ以前の西洋中世音楽を研究したことだ。 具体的に言えば、グレゴリオ聖歌などの日本で言えば御詠歌のような、云わば退屈な音楽なのにも拘わらず、それを、生涯を掛けて研究したことである。 小生などは、バッハ以前の音楽なんて御詠歌並みで退屈と一蹴していた。知りもしないで生意気だったのだ。 しかし、彼は、自分の耳を信じ、それを追求したのだから偉い。彼は、幼時から謡曲を習ったとある。これが彼の音楽脳を育てたのだろう。 小生も、幼児の頃は祖母に育てられたが、よく謡曲の合唱を聴かされたものだ。全然反応しなかったけどね。彼と違って。若しかしたら、謡曲っていいのかもしれない。 音感育成に。私はプレイヤーとしては失格だが、リスナーとしては優秀だと思っている。イギリス人のようにである。
    • パレストリーナの代表作とされる「教皇マルチェルスのミサ曲」、長い曲だが聴いていると何か天から降ってくるように聴こえてくる。 代表作たる所以だろう。せかせかしないで聴くとはなしに聴いてるといい。中世音楽って見直しに値するかもだ。 例えば、ショスタコーヴィッチの第2ワルツなどと比べると、変化はないがメロディーがあるようで無いようで、飽きない音楽である。 時間の無い音楽、時間レスミュージックだと思う。・・・サイクリングの時聴くにはいい曲だろう。スマホに入れなくっちゃ!
    • キリスト教と音楽の関係を知ってキリスト教の世界観は自然に即しており、人工の手垢のつかない宗教だと思った。 仏教では、位牌を拝むが、それに魂を入れるお経があり、その反対に魂を抜くお経もあるやに聞いている。 位牌と魂の間にはどのような物理的関係があるというのだろうか。仏教はその点を説明していない。
      キリスト教の場合は創造主を拝むがその魂に当たるものは音楽であり、 創造主と音楽の間には波動(乃至は波を伝える媒質)という物理的関係があると言えるのであるからして、 そのようなものがない仏教は人工物だと思う。
      媒質で有名なのはエーテルだ。ウイキペディアによると、
      エーテルは、アリストテレス(前384年 - 前322年3月7日)によって四大元素説を拡張して天体を構成する第五元素として提唱された。これはスコラ学に受け継がれ、 中世のキリスト教的宇宙観においても、天界を構成する物質とされた。
      とある。詳しくはここをクリック
      このように、キリスト教の特徴は、神という観念が物理現象と結びついていることだ。仏教などは、観念はあるが物理現象との結びつきはない。 ただあるのは主張だけであり、実在するものとの関係は説明されない。喩えていえば、根の無い浮草のようなものだ。
    • 時間レスミュージックと、例えば、ショスタコーヴィッチの第2ワルツなどと比べると、 変化はないがメロディーがあるようで無いようで、飽きない音楽であると書いたが、考えてみれば、いざ作曲せよと云われると書くのは難しいのではないだろうか。 下手なら直ぐポイされるし、冗長であるだけなら眠られる。・・・簡単なようで難しい曲、かも知れないね、時間レスミュージックは。
     
  6. おまけ
    アリストテレス(前384年 - 前322年3月7日)によって天体を構成する第五元素として提唱されたエーテルという物質(媒質)や、 それを踏襲して宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ:musica mundana)という波で宇宙の調和が保たれているとなっている。
    現代物理学では、物理現象は、あらゆる地点で定義される場の変動が引き起こすと説く「場の量子論」が、有力な学説として研究されている。
    その量子論的な世界では、場のネットワークを通じて、内部空間で生起する波が相互に伝わっていくことで、あらゆる物理現象が実現されるため、 物質が要素(即ち、原子とか素粒子とか、我々が中学・高校で習った要素物質のこと)から構成されるという見方が成り立たない。 即ち、この世は「場のネットワークを通じて、内部空間で生起する波が相互に伝わっていく」ものなのである。(この段、吉田伸夫著「量子論はなぜわかりにくいか」より引用)
    これが、現代版宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)である。波という概念で語られることが、キリスト教世界での世界説明と、 現代の場の量子論が語る世界説明と共通していて面白い。 2300年も前に、エーテルを発想し、それを受け継いだムジカ・ムンダーナという考え、 そして現代の場の量子論が語る世界説明、この継承性、類似性が西洋文明に異彩を放っている。
    中国には、五行思想または五行説があって、万物は火・水・木・金・土の5種類の元素からなるという説があるが、 それが現代の自然科学に繋がって生き残った形跡はない。 また、インド哲学の「五大」地・水・火・風・虚空を見ても同じである。
    西洋文明だけが2300年の歴史を現代科学に活かしている文明なのである。 その原因を知りたいものだ。・・・多分、思想と事物を結びつけて考える癖が他の文明に対し特異なのではないだろうか。 事物には自然則という縛りがあるから事物を結びつけて考える思想には自然則というアンカーがかかることになり、 思想の暴走を制限することが出来ると考えられる。
    一方、思想だけでは何の縛りもないから何でも言えるとなる。敢えて縛るとしたら人間同士のルールである。その代表は「礼」とか「孝」とかだろう。 だから、生み出される思想は人間臭くなるのである。即ち、人文科学は発達するも、自然科学は停滞するとなる。
    更に、思想に善悪の基準を与えるものとして、宗教戒律がある。 だが、わが国の仏教の場合、実社会を縛るほどの力は失せ、最早、葬式用と化している。 理由は、経典が漢文で解り難く、邦訳のお経もあるが漢文が多く意味が解り難いので、庶民化せず、 その戒律を盾にある思想の暴走を阻止することができないからだ。
    一つ例を挙げれば、「色不異空、空不異色」という経文を「色は空に異ならず、空は色に異ならず」というように書き下しもせず、 「シキフーイークークーフーイーシキ」と音読みのまま唱える訳ですから、初めて聞いた人には何のことやらわかるはずもありません。」 (仏教入門:ひらさちや編著:池田書店より引用)がある。
    仏教伝来いらい千数百年の間、これを不思議とせず、放置したノー神経には驚かざるを得ない。 仏教界の長年の努力不足の結果だろうか? 寧ろ、善男善女であり続けることを善しとした所為ではないだろうか。 徳川幕府の政治思想「寄らしむべし識らしむべからず」の仏教版だ。 要するに知識階級の驕りが見える。それを現在も引きずっているように思える。そして、それを許してきた宗教の限界を見る思いだ。
    斯くて教訓は、思想にはアンカーを着けるべし、となる。即ち、事実を慮るべし、なのである。
    わが国は、古くから中華文明の影響を受け、その解読に力を注いできた。ゼロから出発して自らが考える癖が著しく疎外された歴史を持っている。 仏教の漢文音読みが初動段階での思考癖をいい加減なものにしてしまったのだ。・・・現代でもそれを引きずっている。 例えば、パソコンとかスマホ、この導入段階では、上辺だけ真似し、その核心技術を学ばす応用技術だけで突っ走ってきた。 その付けが今の情報技術の停滞をもたらしている。 考えるに、パソコンの黎明期、徹底的に"unix"を学ぶべきだったと思う。個人レベルではなく企業・国家としてだ。 それを怠り、上っ面の箱ものに過ぎないパソコンを大量生産し、心臓部たるOSを輸入に頼ったのであるから、いずれ息詰まるのは予想できたはず。 眞に仏教の現代版だ。・・・云っちゃなんだけど、わが国のインテリジェンスって無いに等しいのではないかと思う。
 
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