森鴎外と脚気

2020/06/04 石井ト
  1. イントロ:エリート・ジキル博士論
    一昨日、寝ようとしたころ、何気なく点けたNHKBs3で、23:45分から、面白いのをやっていたので、寝るのを少し延ばして見ていたが、 つい最後まで見てしまった。「フランケンシュタイン」という番組だ。 内容は、標題に掲げた通りだが、森鴎外と脚気の関係、この番組で初めて知って、目から鱗の驚きだったので、紹介することにした。 ご覧になった方、ご存じの方もおられると思うが、念のため書いてみる。何故なら、エリートにしてはお粗末な負の経歴を刻んだと思うからだ。 エリ−トと言えども、秀才と煩悩の両面を持つ人格が滲んでいる。即ち、エリート・ジキル博士論(ジキル博士とハイド氏からもちいたもの)である。
  2. 鴎外の軍医歴
    鴎外は東京帝國大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であった。医学先進国のドイツに4年間留学した。 留学中に執筆した二本の論文「日本兵食論」および「日本兵食論大意」は、師のホフマンらの研究論文と1882年(明治15年) 頃の日本国内論文を種本に切り貼りして書かれ臨床実験もまったく行われていない論文捏造だった。 帰国した1889年(明治22年)8月?12月には陸軍兵食試験の主任を務めた。その試験は、当時の栄養学の最先端に位置していた。 日清戦争と日露戦争に出征した鴎外は、小倉時代を除くと、常に東京で勤務、それも重要なポジションに就いており、 最終的に軍医総監(中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権を握るトップの陸軍省医務局長にまで上りつめた。 (「森鴎外」ウイキペディアより抜粋) 詳しくはここをクリックのこと
  3. 脚気とは
    日本では、白米が流行した江戸において疾患が流行したため「江戸患い」と呼ばれた。大正時代には、結核と並ぶ二大国民亡国病と言われた。 1910年代にビタミンの不足が原因と判明し治療可能となったが、死者が1000人を下回ったのは1950年代である。 その後も1970年代にジャンクフードの偏食によるビタミン欠乏、1990年代に点滴輸液中のビタミン欠乏によって、 脚気患者が発生し問題となった。(「日本の脚気史」ウイキペディアより抜粋)
  4. 脚気対策歴史概要
    大日本帝国海軍で軍医の高木兼寛は、イギリスの根拠に基づく医療に依拠して、タンパク質が原因だと仮定して、洋食、麦飯を試み、 1884年(明治17年)の導入により、1883年の23.1パーセントの発症率を2年で1パーセント未満に激減させた。 理論こそ誤っていたものの、疫学の科学的根拠を得ていたということである。
    だが、当時医学の主流派は、理論を優先するドイツ医学を模範としていたことから高木は批判され、また予防成績も次第に落ち様々な原因が言われ、 胚芽米も導入された。これに対抗して、大日本帝国陸軍は白米を規則とする日本食を採用、『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、 死者総計の約2割、約4000人の死因が脚気であり、陸軍はその後も脚気の惨害に見舞われた。
    農学者の鈴木梅太郎は、1919年(明治43年)に動物を白米で飼育すると、脚気様の症状が出るが、米糠・麦・玄米を与えると、快復することを報告。 これを基に翌年、糠中の有効成分を濃縮し「オリザニン」として販売したが、医界においては伝染病説と中毒説が支配的であり、 また医学界の外にあった鈴木が提唱したこともあって栄養欠乏説を受け入れなかった。
    1912年にポーランドのカジミェシュ・フンクがビタミンという概念を提唱したが、なおも国内提唱の栄養説を俗説とさげすみ、外来の栄養説を後追いした。 陸軍主導の調査会には、真因を追及する能力はなかったとも指摘される。 陸軍が白米を止め、麦3割の麦飯を採用したのは、海軍から遅れること30年の大正2年だった。(「日本の脚気史」ウイキペディアより抜粋)
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  5. 戦場における脚気犠牲者数
    • 日清戦争
      『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、陸軍の脚気患者は、日清戦争とその後の台湾平定を併せて41,431人 (脚気以外を含む総患者284、526人。凍傷も少なくなかった)、脚気死亡者4、064人であった。 このように陸軍で脚気が流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、長州閥のトップ山県有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、 明確な形で責任をとることがなく、陸軍軍医の人事権をもつトップの医務局長を辞任した後も、 予備役に編入されても陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。 詳しくはここをクリックのこと
    • 日露戦争
      陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計、陸軍一等軍医正・西村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、 国外での動員兵数999、868人のうち、戦死46、423人 (4.6%)、戦傷153、623人 (15.4%)、戦地入院251、185人 (25.1%)。 戦地入院のうち、脚気が110、751人 (44.1%) を占めており、在隊の脚気患者140,931人(概数)を併せると、 戦地で25万人強の脚気患者が発生した。・・・入院脚気患者のうち、27、468人が死亡したと見られる(戦死者中にも脚気患者がいたものと推測される)。 詳しくはここをクリックのこと
  6. 以下に鴎外への批判の主なものを記す。
    海軍の兵食改良を徹底して非難したこと。鴎外は留学先からわざわざ高木を非難する論文まで送っており、 これは日本国内における脚気栄養説への攻撃にも利用された。コッホが細菌を発見するまで人類は病気のメカニズムすら把握していなかった。 海軍や高木が行い、陸軍でも日露戦争開戦前に取り入れて成果の挙がっていた「原因は(当時は)わからないが結果として脚気が治る」 という対症療法を認めなかった、あるいは軍の輸送能力や現場からの要求という「情」を持ち出してむしろ後退させた結果が、 日露戦争での陸軍の脚気死亡者27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)となって現れた。日露戦争での戦没者は88,429人、 脚気などの戦病死以外の、戦死戦傷死者は55,655人に上るが、ロシア側には「歩行もままならない幽鬼のような日本兵」 が当時の新兵器である機関銃を備えた陣地に無謀な攻撃を仕掛け、なすすべもなく撃ち倒されたという記録がある。
    戦病死よりもまだ名誉の戦死の方がマシであると兵士や現地指揮官に思わせ、無為な戦死者を生んだ原因は、陸軍軍医部上層部の脚気根絶の無理解、 あるいは栄養説への反発と保身にあった。
    論理にこだわり過ぎて、学術的権威に依拠し過ぎたこと。 原因が判明しないまま全軍に取り入れることはできないというのは一面で正しいものの見方であるが、経験が蓄積され、 あるいは研究が進展してからもなお細菌説に固執した。
    鴎外は自身同様にコッホに師事した北里柴三郎が「脚気細菌説は誤り」とした時、 これを批判した。北里がペスト菌を発見した際もこれを痛烈に批判している。軍医、しかも高官にまで出世する立場にあるならば、 ビタミンなどの微小栄養素が発見前であることから原因の説明ができない高木の栄養説を攻撃する前に、 徴兵主体の兵士の健康を確保するべきであったが、鴎外にとってそれは重要ではなかった。
    コッホの助言によって東南アジアでの同種の栄養素欠乏症であるベリベリの調査が行われ、 「動物実験とヒトの食餌試験」という手法が日本にも導入された。 この結果、細菌説の支持者だった臨時脚気病調査会の委員が栄養説へ転向したが、会長の鴎外はこれを罷免した。 また麦飯派の寺内が求めた麦飯の効能の調査については、栄養の問題そのものを調査会の活動方針から排除した。 日清戦争時に上官の石黒に同調したこと。
    石黒は日清戦争当時に土岐頼徳からの麦飯支給の稟議を握りつぶし、 日清戦争後の台湾の平定(乙未戦争)でも白米の支給を変えてはならないと通達した。石黒自身は、脚気を根絶可能とし、 実際に患者を減らした海軍と異なり「脚気根絶は甚だ困難」という談話さえ発表している。
    土岐が台湾で独断の麦飯支給で脚気の流行を鎮めると、軍規違反を問うて即刻帰京させ、5年後に予備役に追い込んだが軍法会議は開かなかった。 軍法会議を開いた場合、軍規違反を起こした士官の上官としての統率責任と、そもそもなぜ軍規違反に至ったかの経緯が公になるためである。
    しかし石黒が隠そうとした「麦飯で脚気が減った」経緯を知る元台湾鎮台司令官の高島鞆之助は陸軍大臣になると石黒を辞任させた。 鴎外が同調した上官とはこのような人物であり、同じ陸軍の軍医が麦飯で脚気を減らしてもなお高木の栄養説の欠陥を批判するのみで、 脚気患者を減らすことを目的とした対策は採らず、日露戦争での膨大な戦病死を惹起した。 詳しくはここをクリックのこと
  7. 所感
    • 海軍の高木兼寛軍医
      森鴎外は頭も良かったし文才もあった。 だが、実務的才能は無かったのではないだろうか。 小説を書くほどの感性を持ちながら、強いエリート意識を持っていて兵を消耗品のように扱ったようだ。 寧ろ実務的才能というかいい勘を持っていたのは、海軍の高木兼寛軍医だった。
      彼は、宮崎県宮崎市出身の薩摩藩郷士の出。18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事、 戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍したという経歴を持っている。 彼は、後に東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校になる学校や病院を創立し、現在に至っている。 (詳しくはここをクリックのこと。)
      鴎外が切れ者なら、高木は昼行燈だったかもである。 南極大陸に「高木岬」と名の付く岬があるが、この高木は高木兼寛の高木だそうである。 海外での脚気業績に対する高木の評価は高い。 「独創を尊び成果を重んする西洋医学からみると、高木の『食物改良による脚気の撲滅』は、発想の独自性と先見性、 成果の素晴らしさから、まさしく画期的な業績であった。ビタミンが広く知られた後には、さらにその先見性が高く評価され、 ビタミンの先覚者と位置づけられている。」
    • 森鴎外:落ちた偶像
      鴎外の犯した罪は、最終的に軍医総監(中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権を握るトップの陸軍省医務局長にまで上りつめた程の地位にありながら、 脚気対策を放置したことだ。保身にまみれていた云えよう。・・・落ちた偶像だ! 森友学園文書改竄で処分された当時の理財局長だった佐川前国税庁長官が重なってくる。 人間分からないものだ。或いは、二重人格者だったのかも知れない。エリート・ジキル博士である。
      救いがあるとすれば、日清・日露戦争における脚気犠牲の陸軍兵士の上に築かれた鴎外文学だろう。 だが,それが日清・日露戦争において脚気で戦死した3万余の命に代えられるとは思えない。 そんな暇があったら、軍医の職責を果たせ!となる。
      私が鴎外作品で読んだのは「阿部一族」。もう昔のことでおぼろな記憶しかないが、この世に起こる理不尽な出来事を、どちらの味方するでもなく、 ただ淡々と言葉にした、という印象だった。他人を超然と見下していたのかもである。その結果が、鴎外文学であり脚気禍だったのか。 その意味で、彼は、現実では保身に身を焦がしつつ、その反面、仮想世界を生きたと云えるかも。
    • 再放送期待
      NHKBs3「フランケンシュタイン」を見ての一文が、ネットの百科事典「ウイキペディア」からの引用多数の文になってしまった。 原因は、録画しそこなったことだ。でも、再放送もあるだろうから、ご覧になればよろしいかと思います。 でも、その番組の内容は、この「ウイキペディア」からのものと重なっているようでした。
    • 怜悧
      鴎外の気性は、一言で言えば「怜悧」だろう。怜悧とは辞書で引くと「頭がよく、りこうなこと」(岩波国語辞典)とある。 だが、鮮し(少なし)仁だな。同じく岩波国語辞典によると、「仁」とは、「おもいやり。いつくしみ。自他のへだてをおかず、 一切のものに親しみ、いつくしみ、なさけぶかくある、思いやりのこころ。」とある。 まさに言い得て妙の感ありである。 かくて「巧言怜悧鮮し(少なし)仁」となる。反対に高木兼寛の方は、「剛毅木訥仁に近し」だな。 私の知ってる宮崎県人は皆優しい朴訥な人が多い。従って、さもありなむである。
    • 脚気の思い出
      我々が子供の頃は、脚気は日常の話題に登る病気だった。 学校で、少し高めの椅子に座り、脚が浮いた状態で膝小僧を軽く打つと、足先がぴょこんと前に跳ねるようなら脚気とされたものだ。 だから、これを書きながら試してみたらぴょこんと足がでた。若しかしたら脚気かもしれない。・・・毎朝パンたべてるのに・・・? 若しかしたら逆だったかもである。
    • 自分で考えてない
      近代日本は、西洋文明を吸収するのに熱心だった。 医学も例外ではない。 近代化とは、奈良時代、中国文明を受容した歴史が、西洋相手に繰り返されたのだ。 従って、知識とは本を読むことであって、自分の頭脳をフル回転して得るものではなかった。 鴎外もこの点ではドイツ医学の翻訳者に過ぎなかったのではあるまいか。 ドイツで解らないことはネタ本が無いということだから解らなかったのである。
      自分で考えたのは高木兼寛や、オリザニンを発明した鈴木梅太郎や、ペスト菌を発見した北里柴三郎だった。
      考えれば、鴎外は本業の軍医での功績に目立つものはないどころか、人の足を引ぱっている。反面、文筆家としては赫々たる功績を残している。 この二面性、どう理解したらいいのだろう。
    • 推測
      彼ほどの頭脳を以てすれば、海軍の脚気克服の実績に鑑み、内心、麦飯給餌の有用性を認めていたと推定される。
      では、何故、そうしなかったのか?それが問題の焦点だ。
      その解の一は、彼にとって地位は目的であり手段ではなかった、と云うことだろう。
      普通、人は地位を得たいと思う。だが、それは地位を得ることで自分のしたいことがし易くなるからだ。 即ち、地位は目的ではなく手段だということになる。それが普通だ。
      だが、彼の場合は、したいことはなかったと推われる。ただ、地位、即ち名誉が欲しかったのだ。 文芸では満たしきれない名誉欲、自己の優越性を顕示(自己顕示欲)する手段として軍医総監でいたかったということだろう。
      その余波を諸に受けたのが、日清・日露戦役で散った3万人を超える戦場での脚気患者の兵だった。地位にあるものとして恥じるべし!だろう。
    • 欲望について
      人間社会において欲望は必要だ。それが無くなれば、人類もおしまいでよくて現状維持だが、それは滅亡と同義である。
      アメリカの心理学者アブラハム・マズローによると、欲望は「欠乏欲望」と「成長欲望」に大別される。
      前者は、生きるために必要なレベルの欲望で、「生理的欲望」「安全への欲望」などがある。 後者は、「欠乏欲望」が満たされた状況で起きる欲望で、「社会的欲望」、「自我欲望」、「自己実現欲望」がある。 (詳しくはここをクリックのこと。)
      後者の「成長欲望」は、欲望による自由な競争を正義と認めた自由主義経済社会では善であり、その正義の中身は富であり地位である。 但し「成長欲望」が「欠乏欲望」を満足するという制約の下での正義であろう。
      人間の欲望
      (マズローによる分類)
      欠乏欲望 生理的欲望
      安全欲望
      成長欲望 社会的欲望
      自我欲望
      自己実現欲望
      鴎外は、その制約を守らなかった。自己の「成長欲望」を満たさんがため、他者の「欠乏欲望」を踏みにじるという重大な制約違反を犯した。 眞に愚行であると言わざるを得ない。我々が知ってる言葉で言えば、才走ったであり、鮮し仁である。
    • 神の不在
      人間社会において欲望の必要性は認めるが、陸軍における脚気対策の失敗について、森鴎外の明晰な頭脳が齎した惨禍はむご過ぎる。
      彼は、自らの論理で以て改革論者を論破し、日清・日露戦争での3万余の脚気による死亡者を無策のまま放置した。
      この口舌を以て議論する場合、わが国には、それを阻止する共通の規範はない。宗教戒律が活きてないからだ。 議論が行き詰った場合、若し、神がいれば、万人共通の規範が存在するが、神不在では、それがない。 その結果、議論は声の大きい方に傾いた結論となり、その結果が失敗でも勝った方の責任を問われることはない。要するに人対人の対決において、 勝ちさへすればいいのである。勝てば官軍なのだ。鴎外は官軍だった。
      神の不在、その結果が、鴎外の脚気禍であり、太平洋戦争であり、森友問題であろう。 もっと良心という神を鍛えなければならない。だが葬式仏教では無理!だろう。
      何故なら、仏教の根本は自己救済だから。他人はどうでもいいのである。要するに皆で協力して救われようという思想ではない。 大乗仏教は、そうでもないようだが、太陽を象徴した仏を拝むもので、思弁的で説得力に欠けるものだ。 太陽の恵みで人や生物は生きている、というのは真実でも、それを拝めば何かいいことがあるとは思えない。 説得力に欠ける教義が、人の信仰心を限定的なものにしてると思う。それが土壇場では役割が回ってこない要因だと思う。 土壇場での決定に与する宗教になって欲しい。要するに、魂の救済という奴だ。
    • 最終解決策(国内版)
      二つの議論(利害)がぶっつかって決着がつかないとき、解決する方法として人類が歴史上初めて発見したものが「自然則」である。 それでも解決つかないときは、「掟(法律)」や「取引」や「決闘」や「戦争」などの人工のプロトコルが発明された。
      だが、それでもなお解決しない場合、人類の発明品は「神」である。
      更にそれでもなお解決しない場合、人類の発明品は「沈黙」である。別の言葉で言えば「様子見」で、人の命の有限性など世の移ろいという自然則を使うものだ。
      以上の解決法の歴史を箇条書きすると次のようになる。
      1. 自然則を発見して利用・・・・・例えば、太陽の位置を知ることで種まきの時期議論に決着をつける
      2. 人工プロトコルの発明・・・・・例えば、王様を発明しその決定を是とすることを法制化する
      3. 神の発明・・・・・・・・・・・人々の価値観を統一することにより決定に必要な論拠を与える
      4. 沈黙・・・・・・・・・・・・・人の命の有限性という自然則や、時が解決するという方法を使う
      脚気禍の場合、最後の手段として「沈黙」が使われた。横着な嘘にまみれたのである。
      横着な嘘は、他人の迷惑など顧みない。見え透いているのに、だまし続けようとあつかましさは、冷笑主義を伴って社会を不健全にしていく。 (この段、6月10日毎日新聞朝刊の「水説」から引用)
      ここに、その後の陸軍迷走の兆しが見えている。
      我々は、戦争反対を唱えるなら、目先の議論に至る前に、鴎外を含む陸軍上層部の犯した脚気対応を総括すべきだろう。 そこでは、出世主義・沈黙(横着な嘘)・思考の幼児性、神の不在、などの齎す惨禍が見えている。 歴史を学ぶべし!である。・・・本当の歴史勉強とはそんなことだと思う。年代を丸暗記することではなく。
    • 歴史について
      「森鴎外と脚気」という題名で、教科書に載せれば、本当の意味の歴史勉強に有効だと思う。 何故なら、歴史とは、人間の業と偉大さの織り成す時系列展開を学ぶものだから。 森鴎外は、たまたまその両者が同居した人格であったことになるが、たまたまなのか、それが普通なのかは不明。 だが、同居しているのが人間一般であり、その証明が歴史である。・・・従って、歴史を学べば、我々は二度と戦争などの過ちを犯さない、となるだろう。 口で、戦争反対を云うだけなら、コロッと変わることがあるが、一人一人が人間の業と偉大さ自覚すれば、賢い対応が長く続くだろう。 歴史の時間ってそこまで掘り下げたストーリーでやるべし!である。・・・俺たちはそんなじゃなかったな〜、極く表面的だったと思う。 だからと言って居眠りしてたことの言い訳にはならないが、情状酌量の余地はあるだろう。
 
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