欧米と日本との「人間観の相違点」
上智大学の加藤幸次は、欧米と日本との「人間観の相違点」として次のように述べている
欧米では習熟度別指導が早くから導入され、一般化しています。
一般的にいわれていることですが、欧米では人間の成長・発達というものは一人ひとり違っているという前提が受け入れられているのです。
それに対して、日本では
“努力すれば、勤勉であれば、人間は皆同じペースで成長・発達していくものである、あるいは、いくべきである”と考えられています。
実は、欧米では「習熟度別」とはいわず、はっきりと「能力別」というのです。能力というのは生まれつき、その人に備わっているものです。
その能力に応じて指導しようというのです。
他方、日本語の“習熟”という言葉は、くり返し学習するようにすれば、誰でも一定のレベルに達するべきである、と理解されます。
人間形成の日米比較
恒吉僚子の著書『人間形成の日米比較』にも同様の記述が見られる。
アメリカにくらべ、日本では、「児童間の学業成績の差はなぜ生じるのですか」という質問を教師や親にした場合、
生来の能力差以外の理由が好まれることは、H・スチーヴンソン(英語版)やW・カミンズ(Jim Cummins)などの数々の研究者によって繰り返し示されてきた。
学力差の原因は児童の「努力」の違いや、家族の協力的あるいは非協力的態度、教育環境の良し悪しなど、さまざまな要因に求められるわけだが、
「生まれつきの能力差は存在しないか、たとえ存在しても努力や環境などの後天的なものにくらべれば問題にならない」という考えが、
日本人の間では一時代前から強いとされてきた。これは、能力平等観などと呼ばれ、日本人の特徴だと言われている。
これに対して、アメリカでは、日本よりも生来の能力差を肯定する傾向があることは、幾度となく指摘されてきた。
「生来の能力差は直接、神からわれわれが授かるものであり、人間はその存在をなくすことは決してできない」とは、
『アメリカのデモクラシー』でのA・トクヴィルの言葉であるが、"gifted"という語は、「天賦の」という意味であり、ある子どもが他にくらべ、
特別な能力や才能を天から授かっているという宗教的な響きがある。
日本人の能力平等観、凄いね!・・・功罪共にあるのだろうが、結果として起こるのは、平均値的人材の蔓延る世界。一言で言えば面白くない世界である。
昨日の延長として今日があるというような。
そしてもう一つ、この能力平等観というのは、日本人の事実を直視しないという思考法そのものであると言えるだろう。
具体的には、「生まれつきの能力差は存在しないか、
たとえ存在しても努力や環境などの後天的なものにくらべれば問題にならない」というのが事実らしくない考え方だ。
それは「秀才」と「鈍才」という言葉があることからも明らかだ。鈍才を習熟してないと言い換える辺りの奇妙な平等意識、弊害が大きい。
多分、「鈍才」とあからさまに言うことを憚る心理がそうさせたのだろう。一種の忖度だ。
忖度って誰にでもあることで悪いことはないが、その結果が「事実」と混同され誤用されることが問題だ。
この場合は、その誤用が定着して事実を隠してしまっている。忖度の弊害である。
かくて我々も少し発想を変える必要があるとなるだろう。その発想の仕方についてキリスト教世界と日本の場合を考えよう。
キリスト教世界と日本の大きな違いは、前者が「神」という絶対者の存在を信じているのに対し、
日本では絶対者というほどの「神」は存在しないこと。
日本人は人を人と比較する。それしか比べる尺度が無いからだ。
一方、キリスト教世界では、「神」という絶対者が存在し、「神」が人を評価する。
或いは、「神」の名の下に人間どもが人を評価すると云ってもいい。
その結果起るのがギフテッドの誕生である。
その世界では、一旦誕生したギフテッドを凡人が改めて比較することはない。
何故なら、ギフテッドは神という絶対者の決定だから人の判定は及ばないのだ。それが「絶対」の意味でもる。
絶対者の存在は、ある意味便利である。比較という難作業が要らないから。特に有効に働くのは、飛躍という事象を齎す人材についてであろう。
絶対者のいない世界では、概ね凡人どもの評価で潰されるから飛躍を齎すような人材は育ち難い。だが、絶対者がいればその決定は動かせない。
それが絶対者の存在理由の一つでもある。かくてギフテッドは思い切り活躍の場を与えられ成果を揚げる。
以上から、「神」という絶対者の存在はアリバイが無いからという理由だけで否定すべきではないとなる。
神の決定は絶対であることでギフテッドは思い切り活動できるのだから。
従って、神不在の我々の世界では、夫々が知識を蓄え、忖度の弊害を知り事実に基づいた判定を心がけなければならない、となる。
我々はそれを良心と呼ぶやつだ。
神が無ければ良心が要るので厄介だ。何故なら、良心とは拠って立つ規範が定かではないから。
人夫々の規範ではバラツキが出る。それを直す意味で生まれたのが「神」というアイディアだろう。
古代の大昔の知恵としてだ。
初期の段階では家長が、段々大人数になるに連れて族長が、良心となったが、社会化が進むにつれ「神」と「法」が加わって現在に至っている。
従って現在は、族長変じた「ボス」、「神」、「法」、「個人の良心」が混在しているとなる。
我々の場合は、その中の「神」のプレゼンが弱い。・・・従って、厄介でも個人としての良心に磨きを掛けなければならないのである。
神の効用についてもう一つの事例を挙げよう。
それは、神の存在が思考の世界を立体化するということだ。
若し、人間だけしかいなければ、思考の世界は人という次元と情報という次元の二次元世界に限定される。
だが、神という超越者が存在すれば、神次元が発生し、思考世界は三次元化する。
その結果、人は、思考の領域が人次元限定から神次元を加えた思考への拡張が可能となり思考の巾が広がる。
譬えていえば、「神ならどう考えるか?」という思考が可能になるということだ。
即ち、俯瞰思考が可能となるのである。
日本人は、その点が少し弱いが、神のプレゼンが弱いことを加味すると、さもありなむとなる。
ここで問題は、この神次元の神は、思考が先に在ってその結果神が生まれたのか、それとも神が先に在ってその結果思考が生まれたのかということだが、
神が思考の産物なら、思考が先だろう。多分。
そしてその思考法が生まれた要因は、原生的なものという考えと、環境の影響が考えられる。
ここでも多分だが、環境の影響が大きかったという可能性が高い。
例えば中東地帯などだが、厳しい環境下での生の営みは一歩間違えば死に至るという過酷なもので、その過酷さが絶対神を生んだと想像される。
何れにしろ、その神次元の思考法がなければ、神はアニミズムやシャーマニズムのような自然崇拝のレベルで安定し、世の中は長い期間停滞し続けたことだろう。
だが実際は在ったのだから、そのレベル域を超えて絶対者の誕生というレベルに達する事ができたのだ。・・・このジャンプ、人類史的にも大事件だったと思われる。
なお、俯瞰思考が可能になると何かいいかと言えば、思考の水平線が広がることが挙げられる。
今まで、目の見える範囲で右往左往していたものが、新しい世界へ広がるのである。これがいい。発展的だから。
仮令ていえば、江戸時代、鎖国の中で思考の地平線が日本限りの世界で江戸っ子的な義理人情の世界を謳歌していたものが、
明治維新と共に世界へと広がったようなものなのである。
義理人情って、神不在の究極の2次元世界の思考法だと思うのだ。どっぷり漬かればそれはそれで居心地がよいというような感じのものである。
どろどろしていて好きではないけどね。退廃的と言えるかも。
因みに、中華文明では絶対神は存在しないようだ。存在するのは人ばかり。従って中華文明は2次元世界のものということになる。
従って、儒教は、人対人、または組織対人、のルールを文字化したものと言えるだろう、儒教が現在果たしている役割は知らないが。
だが、このところの中国の発展振りは素晴らしい。
その原因は指導層のレベルの高さにあると思われる。
過去の激動期を通してその指導層を維持し続けたことは中華5000年の積み重ねによる強さを感じる。
この絶対神不在の文明スタイル、神に変わる次元があるのだろうか。あったとしたら何だろう?・・・
わが国では嘗てその役を果たしたのが「義理人情」だったけど、中国ではもっと男性的な何かがあるはず。
キリスト教世界では神が人材を選抜したが、それに代わる人材の選抜法があるはず。嘗ての科挙の後裔が生き続けているのかも知れない。
兎に角この疑問への解と、この後どうなるかなど興味は尽きない。