平時バイアス

石井ト
去る3月30日の毎日新聞朝刊のオピニオン欄に、塩野義製薬医薬研究本部長 木山竜一氏の意見が載った。 塩野義製薬は、コロナワクチンが海外製で、国内企業に完成したワクチンはないが、そんな中、ワクチンの実用化に向けた臨床試験を進める会社である。
その中から、面白い箇所を抜粋し、紹介する。以下の通りだ。
日本のワクチン開発は遅いと言われる。 そのような指摘には、私たちもじくじたる思いがある。各国の対応を見ていると、日本は平時バイアスが強いと感じる。 平時バイアスとは、通常のやり方に固執しようとする思考。欧米では、「今は戦時にように考え、 やるべきことは最低限に抑えてでも先に進もう」というコンセンサスが直ぐに形成される。日本だったら「普段だったら許されない」という指摘が出てきて、 議論が滞りがちだ。
何故、日本は平時バイアスするのか、それは一長一短では済まされない長い歴史の刷り込みがあるのだろうと思われる。
この問題を、人が生きるための基本財である食物獲得の方法が影響した結果であると仮定するなど、幾つかの要因を挙げて調べてみよう。
  1. 食料安全保障環境の違いが原因と仮定する場合
    • 狩猟民族
      狩猟社会において、収穫量は場所と時間によって決まるので、次のように定式化出来る。
       
            収穫量  = ƒ(場所,時間)
       
      なお、ƒは関数記号である。関数記号を用いると、言葉でいうことが、簡単な記号で表せるので、物事を考えるのに便利だから、使うのだ。 この場合、言葉で言えば、「収穫量は、場所と時間で決まる」となり、それを記号表現したのが上の式で、この場合「収穫量関数」などと呼ぶ。
      狩猟社会は、場所と時間が変化する。従って、収穫を得るには、場所と時間を決めなければならない。この二次元の平面のどの点を採るかで、収穫量が決まる。 下手なポイントを採れば、収穫はゼロ、上手なポイントを採れば、大漁かもである。 その選択は極めて難しい。例えて言えば、「柳の下には泥鰌がいるとは限らばい」となり、極めてシビアな決定が強いられる。即ち、頭が鍛えられるのだ。
       
    • 農耕民族
      農耕社会において、場所は同じところを耕すので一定だから、収穫量は時間によって決まるとなる。従って、収穫量は次のように定式化出来る。
       
            収穫量  = ƒ(時間)
       
      農耕社会は、場所の変化が無い(畑は動かないから)ので、変数は時間だけとなり、起こる事象が簡単になり呑気な社会となる。
      例えて言えば、「春になれば種を蒔き、秋には収穫し、冬は囲炉裏を囲んで草鞋を編む」の繰り返しかな。・・・実にシンプルで素晴らしい。
      ここでは、ある決定において、狩猟社会ほど結果に差が生じない。
    以上により、食料安全保障環境の複雑さの程度が、その社会の属性を決めることになる。 片や、四六時中の緊張した営みを繰り返しその経験が知性を育み、片や、呑気な営みを繰り返す、という相反する世界が生まれるのである。 斯くて、前者を時間敏感性の民族、後者を、時間鈍感性の民族と呼ぶことになる。従って、食料獲得の方法はその社会の属性におおきな影響を与えた、となる。
    それにしても面白いのは、複雑型の社会が、複雑事象の中、思考を表現する方法として記号化を成し遂げたのに反し、単純型の社会は、記号化と呼ぶにはあまりにも複雑な表現方法に終始したこと。
    世の中、複雑さは簡明な記号化に繋がり、単純さは複雑な記号化に至った。・・・まるで反対に作用したようで面白い。やはり、複雑さは思考力に大聴く影響する、ということだろう。
    年寄も、年金=収穫量では単純過ぎるのかも知れない。・・・サイクリングがお勧めだ!場所が変わる分、生活が複雑になるから。
  2. 国家安全保障環境の違いが原因と仮定する場合
    一般的に、国家(民族でもいい)の安全保障量は、敵国数と防衛力によって決まるので、次のように定式化出来る。
     
          国家安全保障量  = ƒ(敵国数,防衛力)
     
    しかし、防衛力は、人為的防衛力と自然防衛力から成り、次のように定式化できる。
     
          防衛力  = ƒ(人為的防衛力、自然防衛力)
     
    従って、国家安全保障量は、次のようになる。
     
          国家安全保障量  = ƒ(敵国数,人為的防衛力、自然防衛力)         (式2−1)
     
    人が生きるための基本財である国家の安全のための方法が、平時バイアスに影響した結果であると仮定し、大陸国と島国を対比して調べてみよう。
     
    • 大陸国の場合
      大陸国の場合、外敵がいる。従って安全保障の問題が発生する。
      大陸国の場合の安全量は、上の式2−1によって定式化されるが、大陸の場合、自然防衛力は、島国に比べ低い。
      従って、国家安全保障量は、人為的防衛力に依存する割合が強い。
       
            国家安全保障量c  = ƒ(敵国数,人為的防衛力)         (式2−2)
       
      結果、人為的防衛力向上思考のための知性が育まれる。これが時間敏感性の民族を産む所以である。
       
    • 島国の場合
      島国の場合も、外敵はいる。だから安全保障の問題は発生する。 島国の場合の安全量は、上の式1によって定式化されるが、島国の場合、自然防衛力は、大陸国に比べ極めて高い。
      従って、国家安全保障量は、自然防衛力に依存する割合が強い。
       
            国家安全保障量I  = ƒ(敵国数,自然防衛力)         (式2−3)
       
      結果、人為的防衛力のための知見が増えない。これが時間鈍感性の民族を産む所以である。
       
    以上により、安全保障環境の違いが、その社会の属性を決めることになる。 片や、人為的防衛力向上のため緊張した営みを繰り返し、片や、自然防衛力を頼んで呑気な営みを繰り返す、という相反する世界が生まれるのである。 斯くて、前者を時間敏感性の民族、後者を、時間鈍感性の民族と呼ぶことになる。従って、安全保障環境はその社会の属性におおきな影響を与えたとなり、 島国の国民は、平時バイアスし易いとなる。
  3. 精神安全保障の違いが原因と仮定する場合
    一人の人間の精神は、外部規範と内部規範に依って保全される。 外部規範は他人と個人との関係を統べる規範への忠誠、即ち、信仰によって齎され、内部規範は、一人の人間の内なる内部規範への忠誠、即ち良心に依って齎される。 外部規範は言葉で記されるのでそのその忠誠心は思想信仰、内部規範は持って生まれた規範であるから自然信仰と呼ばれる。 一般に、精神安全保障は、外部規範と、内部規範によって決まる。
     
          精神安全保障量  = ƒ(外部規範遵守量、内部規範遵守量)         (式3−1)
     
    • 思想崇拝の場合
      思想崇拝とは、神の存在を信じ、その神との約束、即ち外部規範に従うよう自己の行動を規制し、代わりに自己精神保全を得るというもの。 従って、約束の内容は事細かに明文化され明示される。文章は思想を言葉で記したものであるから形は無くある意味、バーチャルな思想崇拝と言える。
       
            自己精神安保量o  = ƒ(外部規範遵守量)         (式3ー2)
       
      この場合、規範は自己決定ではなく神が決定したものであり、それ守ることで自己精神保全を得るものだ。 規範は明文化されて、その実生活への適用においては多様なパターンが派生し、その正当性に関心が集まり、その結果として、極めて厳密なものとなり、 知性が育まれる。これが時間敏感性の民族を産む所以である。
       
    • 自然信仰の場合
      自然信仰の場合、決まった教義はなく、祈ることで自己保全を得るものだ。
      従って、精神安全保障量は、内部規範量に依存する。
       
            自己精神安保量I  = ƒ(内部規範遵守量)         (式3−3)
       
      結果、心身の幸せは祈りによって得られるので、実に単純、自己決定可能な目標に対する自助努力が全てという世界に知性は育ちにくい。 これが時間鈍感性の民族を産む所以である。
       
    以上により、宗教環境の違いが、その社会の属性を決めることになる。 片や、自己決定可能な目標に対する自助努力が全てという世界と 他者決定の規範の下、実生活での諸問題への規範適用に感心が集まる世界が生まれるのである。 斯くて、前者を時間鈍感性の民族、高度な知性が生まれ後者を、時間敏感性性の民族と呼ぶことになる。 従って、信仰はその社会の知性に大きな影響を与えたのであり、自然崇拝者は平時バイアスし易いとなる。
  4. 総括
    以上、3つの要因について考察してきたが、この3つとも、知性が時間感知性の要件となった。ちょっと意外だったが。 だが、考えるに、人間は、3次元空間と時間で決まる4次元時空の世界を生きているのであるから当然であろう。 この時間軸を含めた世界認識は知性の為せる業だと確信している。
    今、日本社会で行われる判断行動は、食料・安全・宗教などの長い歴史を写したものに過ぎない。従ってその分、変更することは難しい。 だが、言えることは、知性を磨くこと、ということだ。 そうすれば、目先の出来事にバイアスされない判断が出来るようになる。即ち、原理と事実に基づいた理系思考が行われるのである。
    今の世界は、自由・平等を原理とする世界と、強権を原理とする世界が争っている。 このどちらが原理として正しいか、恐らく、前者だろうと思う。理由は、3−2式が破綻するからだ。
 
 
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