心を打った男たち(上)

2020/05/19 野中 進
終活の一環で、本棚を整理していたら朝日新聞に慶されていた、宇野千代氏のエッセイの古い切り抜きが出てきたので、当時余程感銘を受けたこともあり、 コロナ騒ぎで皆さん暇だと思うので退屈しのぎで読んで貰えればと投稿する次第です。
私のところにゐた助手の女の子は、福島の田舎の娘である。或るとき娘の姉から電話がかかって来た。 姉はその町の町長のおくさんで、町長との間に、二十二になる男の子が一人ある。 此の姉妹は大の仲よしで、いつでも、電話の話が長いのであるが、そのときは、「えっ、三重衝突」と言ったと思ふと女の子はそのまま、 わっと畳の上に突っ伏して了った。姉の息子の乗っていたオートバイが、後から来た二台の車に乗り上げられ、若者は田圃沿いの道に横倒しになった。 その弾みに轢かれた片足が、路上に飛んだのであったと言う。女の子は泣き泣き福島の田舎へ帰って行った。「ハーレイは危ないから、買うのは止めてくれ。 その代わり自動車なら、どんな外車の高いのでも買って構わないからって、親が口を酸っぱくして喧しく言ったのに、言う事を聞かないで、 そのオートバイを買ったのです。髪なんか伸ばして、暴走族みたいな格好してるけど、働き者で、朝早くから、山へ木を切り出しに行ったりして、ソリャ、 良い息子だったのに」と女の子は泣きじゃくりながら、靴を穿き、パーマネントの髪も振り乱して、うちの路地を駆け出して行ったのである。 詳しい話は分からないが、このとき始めて私は、ハーレイと言うオートバイが、こんな若者たちにとって、どんなに魅力のあるものであったか、という事を知った。 町長などをしているが、もともとその家は近在に聞こえた山持で、自分の持ち山から莫大もない木を切り出し、製材の仕事を大仕掛けにやってゐたものである。 そのほかに、五六か所のガソリン・スタンドも経営してゐる。親の仕事を手傳だう為にも、そのハーレイとやらが役に立ってゐたのかも知れない。 二日ほどして、女の子は田舎から帰ってきた。若者の怪我は目も当てられなかったと言ふ。車に撥ねられた瞬間に、若者は「やられたァ」と思ったと言ふ。 国道沿いの田圃では、っそのとき、四五人の百姓女たちが働いていた。「町長さんの坊ちゃんが轢かれたァ」と叫んで、みんなは駆け寄って来た。 若者は路上に投げ出されたまま、『おうい、おばさんたちよォ。そこに飛んでる俺の足を拾ってくれよォ。ほうら、見てくれよォ。 この切り口から、どんどん血が流れてゐるだろよォ。その、おばさんたちの、頬冠りしている手拭いを裂いて、切り口を縛ってくれよォ。 頼むよォ」と声を限りに叫んだと言ふ。救急車の来るまでの、一時的な処理として、それは適当であったかも知れない。 しかし、女たちは怖気図いて、誰一人、若者の望んだことをしてやるものはゐなかった。 若者は女たちの一人から、手拭いをもぎ取って、自分でその処置をしたと言ふ。(つづく)
 
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