個の主体性、大切に
2020/8/25 石井ト
我々現代人は個の生き方に悩んでいる。
個の生き方とは、個の主体性と云ってもいい。
だから、
ヘーゲル
の哲学を語った今朝の毎日新聞のオピニオンに載った「『ヘーゲルと現代日本』
哲学者 長谷川宏
」の記事」、見出しは「個の主体性、大切に」に目がとまった。 その記事の中から抜粋する。
抜粋(原文の一部をそっくり移記するという意味で抜粋とした。投稿者による加筆、変更はない。)
「個」と社会など共同体との関係
ヘーゲルは、自由で自立した近代の「個」を徹底して大事にした哲学者でした。 「個」とは、大活躍する英雄ではなく、あくまでも普通に日々を営む人間のこと。 ヘーゲルの議論で最も有名な弁証法は、図式的には「正ー反ー合」で説明されます。 社会に当てはめて言えば、日本では意見の対立を解消し、「合」に安定することが好まれる。 ところが、ヘーゲルの弁証法は「正」の成立が危うくなるほどに「反」を強調しました。 近代社会と、近代社会を構成する自由で自立した「個」は、それくらい徹底して対立し、矛盾する。 「全会一致」は、むしろ弁証法的な活力が失われた常態なのです。 「和」を大事にしたがる私たちの感覚とはまるで違います。
新型コロナウイルスへの対応でも、違いが出た?
独仏伊などの政治指導者は、都市封鎖で断固とした姿勢を示し、理解を求めましたね。 権力を握る者が、その役割に自覚的なのです。 対して日本の指導者は、批判を恐れて右往左往したり、突発的に指示を出したり。 人々は権力者の指示に従うことをまるで道徳的な義務であるかのように考え、「自粛警察」のような動きまで出てきた。 日本の近代化は、やはり「個」の主体性、自主性を育てるものではなかったのだと改めて感じました。
その違いは何か。
幕末以降、日本は、西洋文明の物質面と制度面をそのまま真似ることで近代化してきました。 ところが、西洋の精神面は真似できなかった。 西洋の近代精神とは、まさに「お手本なしで生きていく」ことだからです。 自力で「未開」の文やを開拓したり、新しい発見や発明をしたりする。 従来の権威や常識が通用しない世界で、「個」が共同体を作っていく。 近代精神を身につけた「個」とは、ヘーゲルの言葉を借りると「法と正義、共同体精神と良心、責任能力と義務」を備えようとするもの。 日本は、真似によって急速な近代化を果たしましたが、こうした「個」を社会全体には育てられなかった。
ヘーゲルのどの著作を読者に薦めるか。
「法哲学講義」。(原著:『法の哲学』(独: Grundlinien der Philosophie des Rechts) は、1821年)
所感(投稿者の感じたことを記す。)
「個」が大事
「個」とは、大活躍する英雄ではなく、あくまでも普通に日々を営む人間のこと。 この「個」とは、人の顔色伺うような人ではなく、「法と正義、共同体精神と良心、責任能力と義務」を備えようとするもののこと。
ヘーゲルは、日本で言えば、江戸時代中期の人。なのに彼は「個」の大事さに気づいている。 翻って思うに、我々は今も「和」の中にどっぷり漬かっている。
「和」の欠陥
「和」を言い訳にする
「和」とは、自分の意見を云わないこと。理由は、空気を読むからだ。 今般の太平洋戦争でも、開戦に疑問を持つ将官はいたはずだ。 だが、彼らは黙った。「和」を言い訳にしたのだ。・・・卑怯だよね。自分の責任を自ら放棄した敵前逃亡罪相当を自覚しつつ、 「和」を言い訳に異をとなえなかったなんて。
不思議なのは、そんなのばかりだったということ。 陸士、海兵出のエリートたちが、自己防衛に邁進し、国民を裏切ったのだ。そして戦後も生きたのだ、のほほんと。 それにしても、一人くらいはと思うのだが、一人もいなかった。・・・そう思うと「和」って恐ろしい思想だよね。免罪符になるから。 矢張り「個」が大事となる。
大政翼賛となり易い
事実を軽視し、物事を深く考えない単細胞だが声だけは大きい熱狂者に靡き、結果として大勢力となる、即ち大政翼賛体制が出来易いという欠陥がある。
「和」は精神の不自由
肉体の不自由が奴隷なら、精神の不自由は「和」の民、日本人ではないだろうか。
「2020年の世界幸福度ランキング」
でも62位という結果になり、年々順位を落とす日本。
要因別でも、健康寿命 2位、GDP 24位、自由度 64位、寛容さ 92位、腐敗のなさ 39位だ。
中でも最悪は自由度の64位。肉体の不自由、精神の不自由、即ち「和」が貢献した結果だと思われ、 日本社会の閉塞感を代表している。
この順位を上げるためには肉体の不自由、即ち働き方、だけではなく、 「個」主体性についても考えていく必要があると思う。
「和」の良いところ
「和」の欠陥を述べたので、良い点に思いを馳せるべきだろう。 「和」は確かに良いところもある。それは、情報共有による忖度だ。お互いの気持ちを察し、言わずもがなの手を差し伸べるというのは、効率的でいい。 だが、それには前提があるはず。 それは、
集団の規模
数十人程度なら、気心も知れてるので、効率的に機能する。だが、数千、数万以上となると、機能しなくなるはず。
価値観の共有
集団のメンバーの考え方が多様でも、その根本には事実を尊重するという価値感が共有される必要がある。
以上から、「和」のメリットの地平線は数十人レベルの規模となる。 わが日本は、凡そ一億人、国レベルの「和」のメリットはほぼなくなっていると思う。 生きているのは、小集団の中だろう。
ではどうすべきか
「和」のメリットを活かしつつ、その欠陥を無くすには、次の二つが重要である。
個を活かす
自分の価値観を主張し、回りはそれを許すこと。
価値観の共有
特に重要なのは、事実を尊重すること。忖度より優先すべきは事実である。
忖度とは本来事実に立脚したものであるはず。だから忖度もピンとしてくるだろう。ピンとしてくるとは、洗練されてくるという意味だ。
「和」の弁証法
正(テーゼ):「和」は安定を齎す
反(アンチテーゼ):「個」は混乱を齎す
合(ジンテーゼ):混乱は新しい展開を齎す
従って「個」が大事。
「和」は安定を齎す。だが仲良しクラブでつるんでいては発展はない。 国としても、「個」が育たない国は他国の後塵を拝するだろう。
中国の台頭
中国の台頭は凄まじい。 だが、心配は、中国の精神面の未熟さ。 物質面で西洋を圧倒しかけている。だが、怖いのは精神面のそれだ。 「個」が失われそうで不安。
長谷川 宏氏
ウイキペディアによると、氏の翻訳は、 専門家的な訳語をできる限り排し、読みやすいと評判になったそうだ。 哲学って、勝手に解り難い単語をこさえて書いてあるから、それで悩むのだよね。 だが、氏のはその点大丈夫のようである。
おまけ
Shubert,Piano Trio No. 2 in E-Flat Major, Op. 100, D. 929: II. Andante con moto
ここをクリックのこと
。 哲学するときにはいい音楽だと思うのでリンクはっておきました。 後半になると煩くなるが、前半は思索的でいい。
・・・矢張りシュベルトって天才だよね。聴いているとそう思う。ただ、曲の展開は下手ではないのかな?素人の感想だが。 その点、ベートーベンは最後までバランスしていると思う。
でも、これはシューベルトだけのものではなく、殆どがそうだと思う。 あるメロディーは美しいがその膨らませ方が下手ってのは。だから、その美しいメロディーが勿体ない。
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