「論理国語」って何?

石井ト
皆さん、論理国語って知ってますか。 私は知らないで、去る2月24日(日)の毎日新聞朝刊の3面で知りました。 その見出しは、『「論理国語」に賛否』となってました。
非常に面白いので、毎日新聞朝刊のその記事からの抜粋しました。以下がその抜粋です。ただし、 新聞では項目別けはされてませんが分りやすいかと思って区分けしています。
  1. 抜粋
    1. 発端
      きっかけは月刊誌「文芸春秋」の昨年11月号。文芸評論家、伊藤氏貴さんがコラム「高校国語から『文学』が消える」で<中島敦「山月記」や漱石「こころ」のような、 日本人なら誰でも読んだことがある文学作品が、契約書やグラフの読み取りに取って代わられる>と警鐘を鳴らし、大きな話題になった。
      文科省は、授業から文学作品が消えることはありませんとし、昨年2月に発表された新学習指導要領改定案によると、国語の必須科目は「現代の国語」「言語文化」の二つになる。 前者は論理的、実用的な文章を扱い、文学は扱わないが、後者では古典から近現代までの小説、詩歌を扱う。
      ただし、選択科目は「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」の四つで、履修パターンは学校に任される。このため、大学入試を目指す進学校は「論理国語」と「古典探求」の組み合わせを選択し、 生徒が文学に触れる時間が大きく減るのでは、と案ずる声も文学者の間にある。
    2. 反響
      日本文芸協会は1月24日、声明を発表。 <実学が重視され小説が軽視される、近代文学を扱う時間が減るなどの危惧を訴える声>が多くの作家や有識者から上がっていると指摘し、<おそらく戦後最大といってもいい大改革> <日本の将来にとって大変に重要な問題をはらんだ喫緊の課題>という認識を示した。
    3. そも文科省の「国語改革」のきっかけは何?
      文科省の「国語改革」のきっかけは、経済協力開発機構(OECD)の国際調査「生徒の学習到達度調査」(PISA)だ。2015年の調査で「独解力」の平均点が前回より低下し、順位も8位に落ちた。 いわゆる「PISAシャオック」だ。
      PISAは地図や図表をなど複数の資料を読み解かせるなど「これが国語?」というような問題が多い。日本は記述問題に無回答の生徒が多いことも分かった。
    4. 文科省の対応策
      そして打ち出されたのが新学習指導要領だ。 狙いは「思考力、判断力、表現力の育成」。新設の「論理国語」について文科省は「実社会において必要となる、論理的に書いたり批判的に読んだりする力の育成を重視した科目」と説明する。
      この方向性を評価するのは立正大文学部の野矢茂樹教授だ。それによると、
      「『山月記』や『こころ』を読まない高校生が登場していいのか、 という批判は、高校生にモーツアルトを聴かせなくていいのかというのと同じです。文学作品の鑑賞は選択科目の音楽や美術に近い。文学作品に触れることは大事ですが、 今の時代に必要とされいるのはむしろ、論理的な文章を読んで的確に内容をとらえ、分りやすい文章を書いたり、開いてにきちんと伝わるように話したりする『普段使いの国語力』です。」
      と語り、こう続けた。
      「日本では長く『あ・うん』のコミュニケーションが重んじられてきました。しかしそんな”仲間内の言葉”しか使えず、異なる考えを持つ相手を『話の分からないやつ』と切り捨てていては、 ますます排外的、排他的になってします。・・・仲間内の外側まで届く言葉で書き、話す訓練が必要です。」
  2. 所感
    以上が去る2月24日(日)の毎日新聞朝刊3面の『「論理国語」に賛否』からの抜粋です。 以下、小生の所感を書いてみます。
    1. 面白いのは、次のところ。
      『山月記』や『こころ』(夏目漱石の小説)を読まない高校生が登場していいのか、 という批判は、高校生にモーツアルトを聴かせなくていいのかというのと同じです。文学作品の鑑賞は選択科目の音楽や美術に近い。
    2. 論理国語の登場で国語の授業が面白くなりそう
      論理国語って我々が高校のころはなかった考え方だよね。高校時代、一番退屈だったのは国語の時間だ。 何でこんな5分で読めるところを1時間もかけて読まなきゃならないのかと思ったものだ。
      習ったことで印象に残るものはなかった。退屈の極みだったが、その原因が、文章の立場が、あるいは目的が、明確ではなかったことだと思う。
      論理と文学、どちらかと言えば、文学に偏っていたと思う。というよりむしろ、文学を読み解くのが国語だと理解してた。おそらくは先生もである。 論理が事実を記述する土台なら文学は情感を記述するものだが、事実が一つしかないのに対し情感は人間の数ほどもあるのだからそのようなものに正解はない。 そんな考えもあるということを知るに過ぎないとなる。 だから退屈だったのだと思う。・・・云わば発見の楽しみがないのである。あっそう!で済まされちゃうのだ。
      論理国語の登場で、我々の高校時代とは違ってこれからの高校生は、青春の貴重な一時を充実感をもって過ごせるようになるのだから幸せだと思う。
    3. 日本文芸協会の反響は天動説
      日本文芸協会から<実学が重視され小説が軽視される、近代文学を扱う時間が減るなどの危惧を訴える声が上がる>というのは、自己中だと思う。だが生身の人間としては、さもありなむとも思う。 何しろ、生活が懸かっているから大変だ。だが、自分が輝くには、自分で光るしかない。他力本願では何れ駄目になるのだからそれが本筋だ。
    4. さらば『あ・うん』のコミュニケーション
      『あ・うん』のコミュニケーションが否定されたことが愉快である。云わば空気読みが不要になるからだ。明快な言葉できっちり表現することが今後の日本人の命運を決すると思う。
    5. 総括
      今回の経験から総括すれば、日本にも解った人がいるということだ。最近の役人のすることを見るにつけ、先々が思いやられていたが、ちゃんとした人はいることが分かってよかった。 特に、「論理国語」という概念を思いつく人は尊敬に値する。「文学国語」も同じだ。コインの裏と表だろうから。
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