プライムニュースから

日本語進化遅れ論

石井ト
昨日、2021年7月28日のBs108チャネルの「プライムニュース」で面白いことを聞いた。
番組では、ゲストが3人出ていて、皆、外国人の日本特派員のようであった。1人が男性で、2人は女性で、皆さん、日本語で応答されていた。
面白かったのは、菅総理の「安心・安全な五輪」という記者会見での答弁をフランス人の女性ゲストが、フランス語に翻訳しようとしても、 構文上翻訳できないと発言されたこと。そのままではフランス語にならないそうなのだ。
これ聴いて驚いた。 何故なら、我々日本人はその殆どが、日本語と外国語はそっくりトランスレート(翻訳)出来るものと信じているが、 このフランス人のゲストは、それを否定したのである。 その発言については、他の2人も、よくぞ言ってくれたという表情で、強く頷いておられたので、 フランス人女性ゲストの所感が特別な一個人限定のものではないことは明らかだ。
何故そうなるかとの問いに、菅総理の発言は、結果を言うだけで、その原因や理由などの説明が無いからと答えていた。
以上から、フランス語には構文として原因・理由・結果がセットされて文章が成立するのに対し、日本語にはそのようにセット可能な構文が無い、と言えることになる。 これが、日本語の現状らしい。
向こうのが、構造化された言葉なら、日本語は線形、即ち、時間に対し、1次元の構造しかない言語と言えるようなのである。 だから、日本語は、a、b、c、・・・と言うように、1次元フラットな単語が並ぶだけ。従って、立体化された意味を表すには、 言葉でこれは構造体であることを述べなければならないとなる。 例えば、「・・・ということが・・・」という表現になる。このフレーズ、テレビでニュースなど聴いていると頻発しているのに気づくはず。
構造化された言語とは、時間に対し、複数次元の単語から構成される言葉のこと。 従って、これは構造体であることを言うのにある単語を使う。「関係代名詞」と呼ばれる構造体表現単語があるのである。
日本語が、「・・・ということ」という並みの単語を使うのに対し、「関係代名詞」と呼ばれる構造体表現単語があること、即ち、 文法で決められた構造体表現単語があるということが、言語の進化程度を示しているのではないだろうか。(アンダーラインは、ここでも、 日本語の1次元表現が使われていることの例示であることを示すために付したものだ。)
日本語は、抒情的だとか、詩的だとか言う以前の問題として、進化程度としては未発達、と言えるかも。
この進化遅れ論、仮説に過ぎないが、否定できないところがあるのではないだろうか。
それが、心配。・・・いつまでも、起こっている現象を、未発達な言語で表現し続けなければならいとは大きなハンディだと心配しているのである。 言葉は、起こっている現象を正確に表現することにこそ、その本分があると主張するものであり、それが出来てその後、その現象を個人の感性で捉え表現することは人工文、 即ちアートとして存在し得るだろう。
だが、言葉の本分は、前者にこそあるのであり、それを抜きにして後者を常用すべきではない。 前者が出来てこその後者なのであり、後者は主役ではなく脇役に過ぎない。脇役は脇役、その役割を忘れるべきではない。
言葉は思考の顕れ。だから、言葉のレベルは思考のレベルを表すものと言える。だからいい加減ではいけない。
言語学者の考えが聞きたいものだ。テーマは「構造化言語」がいい。
実は、コンピュータプログラムをやると、どうしても言語の構造化に目が向く。 何故なら、ある事象を正確かつ簡潔な言葉で記述するには、言葉の構造化表現が不可欠だからである。 世の中にあるコンピュータプログラムは、膨大な本数があり、その1本1本が、プルグラミング言語で書かれている。
コンピュータプログラムの例を挙げると、スマホのアプリと呼ばれるプログラムや、Windows10やAndrodと呼ばれるOS(Operating System)、 Excelと呼ばれるオフィスソフトなど五万とあるが、それらは全て構造化されたプログラミング言語で記述されている。
何故、そうなるかと言えば、膨大な量と、永い運用時間があり、それらは、維持管理されなければならないからだ。 最近の出来事では、みずほ銀行の度重なるシステムエラーがあったが、このエラーに対処するのが維持管理業務。 みずほ銀行の場合、そのプログラム量は、恐らく数十万ステップ(行)のレベルだろう。その膨大な中からエラー箇所を見つけ出し、補修するのであるが、 これをスムーズにこなすには、構造化されたプログラミング言語が不可欠なのだ。
要するに、構造化された言語で書かれたものは、正確かつ簡潔な表現がされているから分り易いとなるわけだ。 この分り易さこそ、これからのキーワードになるだろう。
世の中には、簡単なことを難しく書く輩がいるが、そんなのは、平屋建ての文章からせめて二階建てくらいにはしてもらいたいと思う。
例えばお経。これって難解の雄だ。寧ろ、意図的に難解にすることにしたのかも知れない。煙に巻くことで意のままにしようというわけだ。 この仏教界のやり方が、わが国の言語発達を阻害した可能性がある。
小生、キリスト教やイスラム教は知らないが、例えば、旧約聖書を見れば、平易な文章で書かれているように見える。
両者を比べると、片や意味不明な経典で信者を煙に巻き盲従させるやり方、片や、平易な文章で信者自らがその意味するところを思推するやり方、 どちらが思考力を増進させるのか目に見えている。
かくて、わが国には、民衆の思推力は育ちにくかった。結果、言語発達が遅れてしまった、と言えるかもしれない。
もう一つの可能性は、そも、宗教以前の問題として、思推力に民族として優劣があった可能性がある。 言語未発達はその結果に過ぎないとするものだ。私は、こっちの方が可能性が大きいと思う。 何故なら、どの民族も性質において同じではないからだ。背の高いものもいれば低いものもいる。頭のいいのも居ればわるいのもいる。 だから、思考力において差があってもおかしくない。認めたくはないがね。
この思考力を分けるもの、知りたいものだよね。多分、簡単なことだろうと思う。
 
 
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