俺たちは天使じゃない

石井ト
  1. 発端:毎日新聞「余禄」から : 楽天的な幻想
    今朝の毎日新聞朝刊一面の「余禄」欄に面白い記事が載っていたので、ピックアップしてみました。
    その中から、主要文を引用したのが次の文章だ。
    仏詩人で駐日大使も務めたクローデルは80歳を迎えた時に書いた。「目もだめ、歯もだめ、耳もだめ、呼吸もおぼつかない! しかし、とどのつまり、 それらのもの無しでも満足に生きていけるというのは驚くべきことである!」
    ある米国の心理学者にいわせると、人間は常にありのままの自分を意識していると抑うつ状態になるのだとか。 人がうまく生きていくには、自分についての楽天的な幻想・・・・ポッジティブイリュージョンが欠かせないということらしい。
    高齢者の幸せな老後もこのイリュージョンをうまく操る技にかかっていよう・・・
    として、高齢者ドライバーの幻想、即ち、自分の運転技術への自信というイリュージョンを戒めていた。
    私はね、吃驚した。何故なら、自己を知ることに限界はないと思っていたからだ。 だが、この記事は、知り過ぎてはいけない、と主張しているのだから、目から鱗の考え方である。今まで思ってもいなかった考え方だからである。 確かに、俺たちは天使じゃないのであり、悪魔的なときもあるのであるからそれを悔やんでも意味ないと言えるのだろう。
  2. 追記 : 実在と幻想
    私は、この世には二つの認識があると思ってる。 一つは「実在」という認識、もう一つは「幻想」という認識だ。 前者は共有可能だが後者は共有不能だ。 何故なら、前者には共通の規範を設けることができるが、後者はその人だけの固有認識だから規範を設けることができないからである。 従って、他人の幻想には不介入でなければならないとなる。何故なら、介入する根拠がないからだ。 無理に介入したら琴線に触れたとして非難されるだけとなる。
    高齢者ドライバーの幻想についてこの考えを適用すれば、高齢者ドライバーの運転実績をテストなどで実在化し、 規範(免許返上、自動ブレーキ車限定免許、など)を適用するとなる。 実在化できなければ、即ちテスト結果が良ければ、幻想には手を出せないとなる。
    このように考えると、法とか宗教とかは、幻想を実在に変換する規範の一種と言えるかもである。 天国だって独りで思えば幻想だが、多数で思えば実在となるのだし・・・。実在とは集団幻想かも?・・・だな。
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