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焼き場に立つ少年の写真である。名前がいい。(写真はネットより)
足元にある標識の鑑定から、この写真が裏焼き(ネガをひっくり返して焼くこと)ではないかとの指摘がある。
どっちにしろ、凛として立つ少年、弟の死と遺体焼却という現実に立ち向かう姿に、感動を覚える。
軍国少年だったかも知れないが、正否を超えた人間の強さ、教養が顕れている。
昭和49年にルバング島から帰還した小野田少尉と重なってみえた。
久々の自信に満ちた日本人がいた。
この写真は人類史のワンシーンとして残るだろう。
1000の言葉よりこの写真、よく撮ったな!、よく撮られたな!、と感動した。
番組では、少年はこの姿勢のまま、自分の番になるのを待ち、番がくると係の人に遺体を渡し、
野面で燃える火の中に遺体が置かれるのを姿勢を崩さず凝視し、暫しの時間後、回れ右をして去って行った。一度も振り返らずに。
・・・これはこの写真を撮ったオダネルの回想だ。
また、オダネルは、戦後相当の時間が経った頃、あるインタビューで「原爆投下は必要だったか?」と訊かれ「必要なかった」と答え、
「原爆投下が米軍の犠牲を減らすために必要だったか?」との問いには、「必要なかった」と答えていた。
原爆投下は、無差別攻撃。死を覚悟した軍人や軍事施設を狙うのはいい、だが無辜の市民、年寄や子供、
主婦などの生活者が居る都市を狙った大量殺戮は許されないだろう。警告すら無しにだ。
どんな理屈をつけようと。・・・丸腰の市民を撃つガンマンが許されるはずがない。アメリカの汚点だと思う。
我々には、儒教でいうところの「仁」という価値観がしみ込んでいる。「仁」とは「おもいやり」のことだ。
この「おもいやり」という価値観、確かに儒教の「仁」に当て嵌まるが、そのルーツはと言えば、儒教以前の大和民族の普遍価値観だったのではないだろうか。
偶々、儒教が輸入されたので、「仁」と重なっただけで、もともとあった思想だと思う。
これから、ますます世界は覇権争いの場となるだろうが、この「おもいやり」という価値観を大事にしたい。・・・それが人類の至宝だといい。
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表焼きの写真。(ネットより)
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