焼き場に立つ少年

2020/08/09 石井ト
昨夜、23:00からEテレの「ETV特集 被爆75年『焼き場に立つ少年』」をやっていた。
狙って見たわけではなく、たまたま開いた画面がそれだったが、写真の凄さに圧倒され、始めの部分は見落としたが、後は最後まで見た。 目が釘付けになったのだ。
『焼き場に立つ少年』(英: The Boy Standing by the Crematory)は、 アメリカ人カメラマンのジョー・オダネルが撮影したとされる写真である。 原題は、「焼き場にて、長崎 1945年」(英: Cremation Site, Nagasaki 1945)である。(ウイキペディアより抜粋)
10歳くらいと思われる少年が、口を固く結びながらまっすぐに立っており、視線をまっすぐ前に向けている。 少年は、目を閉じた幼児を背負っている。この幼児は少年の弟で、すでに息を引き取っており、少年は火葬の順番を待っているものとされる。(ウイキペディアより抜粋) 詳しくはここをクリックのこと
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焼き場に立つ少年の写真である。名前がいい。(写真はネットより)
足元にある標識の鑑定から、この写真が裏焼き(ネガをひっくり返して焼くこと)ではないかとの指摘がある。
どっちにしろ、凛として立つ少年、弟の死と遺体焼却という現実に立ち向かう姿に、感動を覚える。 軍国少年だったかも知れないが、正否を超えた人間の強さ、教養が顕れている。 昭和49年にルバング島から帰還した小野田少尉と重なってみえた。 久々の自信に満ちた日本人がいた。 この写真は人類史のワンシーンとして残るだろう。 1000の言葉よりこの写真、よく撮ったな!、よく撮られたな!、と感動した。
番組では、少年はこの姿勢のまま、自分の番になるのを待ち、番がくると係の人に遺体を渡し、 野面で燃える火の中に遺体が置かれるのを姿勢を崩さず凝視し、暫しの時間後、回れ右をして去って行った。一度も振り返らずに。 ・・・これはこの写真を撮ったオダネルの回想だ。
また、オダネルは、戦後相当の時間が経った頃、あるインタビューで「原爆投下は必要だったか?」と訊かれ「必要なかった」と答え、 「原爆投下が米軍の犠牲を減らすために必要だったか?」との問いには、「必要なかった」と答えていた。
原爆投下は、無差別攻撃。死を覚悟した軍人や軍事施設を狙うのはいい、だが無辜の市民、年寄や子供、 主婦などの生活者が居る都市を狙った大量殺戮は許されないだろう。警告すら無しにだ。 どんな理屈をつけようと。・・・丸腰の市民を撃つガンマンが許されるはずがない。アメリカの汚点だと思う。
我々には、儒教でいうところの「仁」という価値観がしみ込んでいる。「仁」とは「おもいやり」のことだ。 この「おもいやり」という価値観、確かに儒教の「仁」に当て嵌まるが、そのルーツはと言えば、儒教以前の大和民族の普遍価値観だったのではないだろうか。 偶々、儒教が輸入されたので、「仁」と重なっただけで、もともとあった思想だと思う。
これから、ますます世界は覇権争いの場となるだろうが、この「おもいやり」という価値観を大事にしたい。・・・それが人類の至宝だといい。
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表焼きの写真。(ネットより)
戦争の悲惨さをこれほど如実に示した写真はそうあるまい。 この写真を見て、誰しもが二度と戦争をしたくないと思うだろう。 問題は、それを実現する方法だ。
少し踏み込んだ言い方をすれば、政治理念の違いに行き当たる。自由・民主主義、法治主義 VS 独裁・強権主義の対立がある。
どちらが覇権を握るか、・・・解らない。だが、少なくとも、戦いにならないよう最大の努力が要る。 だが、戦いから逃げてはならない。奴隷ではなく自由でいたければ。
Eテレの「ETV特集 被爆75年『焼き場に立つ少年』」、再放送もあるだろうから、僭越ながら、見逃された方はご覧になることをお勧めします。
なお、本件の写真に関することについて、野中君が、平成30年3月8日に、 「焼き場に立つ少年は何処へ(著者 吉岡栄二郎)」という標題で投稿頂いております。 ご覧になるには、ここをクリックのこと