大震災一周年の石巻、女川を訪ねて

徳永 博
大震災後一周年に当たる3月11日の午後から、宮城県石巻市あけぼの2丁目にある保守バプテストいしのみなと教会を訪ね、そこに2泊して、隣の女川市指が浜の仮設住宅群でそこの住まう被災者の人たちと語り合う機会を得た。今回はこの地を数度訪れ石巻周辺の幾つかの仮設住宅で給食や健康相談などの奉仕活動を行なっている単立日野キリスト教会及び名古屋大韓基督教会のメンバー、香港から来たサマリタン・パースというボランテアグル−プの男女青年達の女川訪問に随伴する形で、大震災から1年を経て、まだ仮設住宅での居住を強いられている人たちの安否を問うことができた。
日野教会の人たちは、仮設住宅訪問は5回目とかで、救援物資は大量に届けられているのに、それらは有効に使われず山積みされ、逆に被災者の健康維持に不可欠な新鮮な野菜類が不足していることに着目し、大量の白菜、キャベツ、ごぼうに人参、ジャガイモ等を仕分けして大きな袋に詰め、仮設住宅に住む各所帯の住人に配って歩きながら、声を掛ける作業を辛抱強く続けているのをそばで聴き、被災住民と共に語り合うことができた。日野教会グループのリーダー岩崎鉄男氏は、「仮設住宅の人たちと話すときには、決して上からものを言う形でなく、同じ目線で語れ。」と、グループ内の青年達を何度も叱咤激励していたが、これはそばで見、聞いている我々初老の者たちにも痛いほどよく分かる忠告だった。実際、1年にも及ぶ仮設住宅暮らしは、住民たちの上に云い得ない苦痛と忍耐をしいているはずで、これを他所から来た独りよがりのボランティア活動に横取りされるのでは、たまらない想いだったろう。
私自身、被災地を訪れるのは昨年4月末の岩手県宮古市に続いて2度目だが、宮古港の惨状にくらべても、石巻及び女川町の港湾周辺の惨状は想像以上で、特に原発を誘致し、漁業だけでなく観光資源を増やそうと港湾近くに建てられた豪華な施設が、大津波に襲われて壊滅的な打撃を受け、その建物の残骸が、被災から1年経った今も、そのままの形で放置されている姿は、我が国の戦後の経済発展が破綻したことを象徴するようで、見るものに強烈な印象を与えていた。(写真1) またその近くにあった巨大な漁業協同組合の建物も半壊したまま、瓦礫の撤去がようやく済んだところで、石巻女川の漁業、水産加工業がまだ完全に立ち直っていないことを示していた。宮古はほんの数時間の滞在で、外から被災状況を覗いただけだったが、今回は女川指が浜の仮設住宅に入り込み、そこで生活している被災者と、短時間ではあったが対話する機会が得られたのが、大きな収穫であった。
訪ねた時が午前10時過ぎで、部屋にいたひとは身寄りのない老婆や病気で寝込んでいる人たちばかりで、これらは一緒に行ったグループの中の看護師が専ら健康相談や血圧検査を知るのを傍で見ていただけだが、正午過ぎ集会所での中華丼の炊き出しに応じてやってきた漁師の親子とは、食事を共にしながら色々な話を聞いた。まだ30代の若い漁師の鈴木さんは3歳と2歳の女の子持ち、この指が浜の部落住まいだったが、大津波が来たとき子供2人を抱えて車で高台へ逃げたが、バックミラーに津波が迫ってきて怖かった、と言っていた。そばの父親は寡黙だが53歳と言っていたので、働き盛りの漁師なのだろう。まだ本格的な漁はできず、準備をしているだけだと言っていたので、仮設住宅住まいはしばらく続きそうだ。指が浜部落で津波に遭わなかったのは、高台で果樹栽培をしていた1軒だけで、あとは部落の人たちが一緒に仮設住宅に入居したので、お互いの交流は親密なようで、男衆が仕事に戻った後も、おばさんたちは楽しそうに歓談していので、この人たちは、石巻女川のあちこちにあった大規模な仮設住宅群の住人に比べると住みやすい状況のようだ。いずれにしても指か浜部落の人たちが、狭苦しく非衛生的な仮設住宅暮らしから、もとの暮らしを取り戻し、女川湾内の栽培漁業が昔日の繁栄を取り戻す日の近いことを祈念しつつ、ホコリにまみれた国道398号の、あちこちの崩落箇所を迂回しながら、石巻の教会へと帰っていった。(写真2,3)
 
 
女川港の全壊施設
 
 
指が浜仮設住宅での全景
 
 
仮設住宅前の小生
 
 
 
 
 
 
 
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