コクリコ坂から

石井俊雄
 
スタジオジブリの青春映画「コクリコ坂から」を見た。 映画館ではなく、テレビで放送していたものだ。去る8月12日(金)のことだ。
2011年に公開された『コクリコ坂から』は宮崎駿の息子・宮崎吾朗監督による長編アニメの2作目です。 デビュー作の『ゲド戦記』とはストーリーも時代背景も異なり、 1963年(昭和38年)の日本が舞台のノスタルジックな作品です。
以下、その概要・所感など記します。
  1. 時は昭和38年
  2. 舞台は横浜の港南学園高等部
  3. 主人公
    1. 松崎 海(高校2年生の女生徒) 父は、沢村雄一郎、母は、松崎良子
    2. 風間 俊(高校3年生の男生徒) 父は、立花洋、養父、風間明雄
  4. あらすじ
    1. 沢村雄一郎、立花洋、小野寺善雄は、主人公である松崎海、風間俊、の父親の世代の人で、3人は親友だった。
    2. 戦後間もないころ、その中の一人立花洋は事故死する。
    3. 沢村雄一郎は立花洋の遺児俊を預かるが、事情により風間明雄に養子に出す。 沢村雄一郎は、その後、朝鮮戦争で死亡するが、海は母と共に実家に戻り松崎海として育てられる。
    4. 俊は風間明雄の子としてそだてられ現在にいたっている。
    5. 部活を通して、俊と海はお互い好意を持つにいたる。
    6. があるとき、俊は、沢村雄一郎、立花洋、小野寺善雄の3人が写る写真を見て、自分と海とは異母兄弟だと疑う。
    7. 更に俊は、戸籍謄本で、戸籍上の父が沢村雄一郎であることを見て、異母兄弟だと確信する。
    8. 俊は、海にもそのことを告げる。
    9. 海は、ショックを受けて悩む。
    10. クライマックスは、父の3人の親友の中で唯一の生き残りである小野寺善雄から、 俊の実父が立花洋であることを教えられ、俊と海とは異母兄弟ではないことがわかり、ハッピーエンドとなる。
  5. 主題歌
    1. さよならの夏(作詞-万里村ゆき子 / 作曲-坂田晃一 / 編曲-武部聡志 / 歌-手嶌葵)
  6. 挿入歌
    1. 朝ごはんの歌(作詞-宮崎吾朗・谷山浩子 / 作曲-谷山浩子 / 編曲-武部聡志 / 歌-手嶌葵)
    2. 初恋の頃(作詞-宮崎吾朗・谷山浩子 / 作曲-谷山浩子 / 編曲-武部聡志 / 歌-手嶌葵)
    3. 紺色のうねりが(原案-宮沢賢治 / 作詞-宮崎駿・宮崎吾朗 / 作曲-谷山浩子 / 編曲-武部聡志 / 歌-手嶌葵)
      この曲が、この映画の挿入歌の中で一番傑作だ。原案(歌詞の方)は宮沢賢治だそうだ。 海の高校には、男子文化部の部室棟“カルチェラタン”があり、老朽化による取り壊しの計画が決まるが、 理事長をそこに招いて取り壊しを思いとどまらせる場面で使われる。 海のソロと生徒たちの混声合唱にピアノだけの伴奏という編成、中々よかった。 原案がよかった所為だろう。
      宮沢賢治って音楽も好きで、蓄音機でベートーベンの田園など、 聴いていたそうだから、その方面の才能もあったと思う。 この曲がそれを示していると思ったが、調べると、どうやら歌詞の方の原案と分かった。
      となると、作曲は、一重に谷山浩子ということになるが、そうであれば、素晴らしい。 このメロディを着想した才能に敬意を表したい。
      なお、「カルチェラタン」とは、パリの地区名で、ラテン語地区という意味だ。文化的な地区というニュアンスの言葉である。 脚本で上手くパクったものである。原作にはなかった要素だそうだ。 なお、コクリコとはフランス語でひなげしのこと。
  7. 所感
    1. スタジオジブリの青春映画の「耳をすませば」の姉妹作の学園青春映画で楽しかった。
    2. 一度は見る価値があると思う、若返るから。
    3. 音楽が新鮮だった。
      特によかったのは、「紺色のうねりが」だ。 これ、佐高八期会のアトラクションでやってみれば面白いと思う。 今年は無理だろうが、来年なら可能だろう。曲は、二部合唱ではなく、混声の斉唱と女声のソロがあれば、できる。 伴奏は、カラオケからとればいい。
      兎に角、この曲を聴いていると、もう一度、高校生をやってみたくなる。 もう少し本腰を入れて未来を目指してみたい。・・・だがもう持ち時間が無い。 人間とは哀れなもの、憧れとするものの殆どをフィクションでしか果たせないのだから。
    4. 宮崎駿の息子・宮崎吾朗監督による長編アニメの2作目だが、1作目の「ゲド戦記」より数段よくなっている。 脚本が良くなったのがその大きな原因だと思う。彼はまだ若いのだから、今後が楽しみだ。期待しよう。
      それに歌詞がいい。歌詞原案は、宮沢賢治、作詞は、宮崎駿・宮崎吾朗の親子である。
      原案となった宮沢賢治の詩は、「生徒諸君に寄せる」という題名のもので、 母校の冊子への寄稿文として書かれたもの(未完、未掲載。戦後、再構成後、 『朝日評論』という雑誌に掲載された)だそうです。 (この段、ネットより引用。)
      「生徒諸君に寄せる」 (引用先はこちら
      生徒諸君
      諸君はこの颯爽たる
      諸君の未来圏から吹いてくる
      透明な清潔な風を感じないのか
      それは一つの送られた光線であり
      決せられた南の風である

      諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
      奴隷のやうに忍従することを欲するか

      今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
      われらの祖先乃至はわれらに至るまで
      すべての信仰や徳性は
      ただ誤解から生じたとさえ見え
      しかも科学はいまだに暗く
      われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ

      むしろ諸君よ
      更にあらたな正しい時代をつくれ

      諸君よ
      紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
      諸君はその中に没することを欲するか
      じつに諸君は此の地平線に於ける
      あらゆる形の山岳でなければならぬ

      宇宙は絶えずわれらによって変化する
      誰が誰よりどうだとか
      誰の仕事がどうしたとか
      そんなことを言ってゐるひまがあるか

      あらたな詩人よ
      雲から光から嵐から
      透明なエネルギーを得て
      人と地球によるべき形を暗示せよ

      ・・・
      この格調高い詩は、流石、宮沢賢治だと思わせるに十分である。 中でも、
      われらの祖先乃至はわれらに至るまで
      すべての信仰や徳性は
      ただ誤解から生じたとさえ見え
      の下りは、人間の認識能力の浅薄さを指摘したもので、ここまで考えていたとは流石である。 理系思考の深度が表われている。
      更に、賢治の詩の次の数行の中に、「紺色のうねりが」の中の重要なフレーズが含まれていることに気付くべきだ。
      紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
      諸君はその中に没することを欲するか
      じつに諸君は此の地平線に於ける
      あらゆる形の山岳でなければならぬ
      宮沢賢治の原詩を得て、「紺色のうねりが」を書いた宮崎駿・宮崎吾朗の親子の才能・見識を多としたい。 このスケールでの活躍を期待するものだ。 ・・・人格がその原詩に見合ったものでないと出来ない作業だったと思うから、リスペクト(尊敬)しちゃいました。
    5. この映画のお蔭で、改めて宮沢賢治という人物の偉大さが解った。 彼がどんな気持ちで、空を見、音楽を聴いていたかが、少しだけ分かったような気がした。 とても、その精神のスケールの大きさには敵わない。精々この歳で少しだけ覗けたのかな、というところである。
    6. この映画を作った、企画・脚本の宮崎駿、監督の宮崎吾朗、原作の高橋千鶴・佐山哲郎、脚本の宮崎俊・丹羽圭子、 プロジューサーの鈴木敏夫、音楽の武部聡志、宮沢賢治の原詩を再発見しそれをベースにして作詞した宮崎駿・宮崎吾朗、作曲の谷山浩子に感謝である。 この映画、恐らく、ディズニーの動画を抜いた世界性を持っていると思う。大事にしないといけない。
    7. 脚本
      脚本では、主要登場人物の設定や主題は原作を踏襲しているが、 プロット(構想、描画)や物語の提示方法など演出は大幅に改編され、 独自の作品となっている。
      脚本は、宮崎俊と丹羽圭子であるが、2010年に公開されたスタジオジブリの映画『借りぐらしのアリエッティ』 では、宮崎駿と脚本を担当。企画を兼ねていた駿がさまざまなアイディアを口頭で語り、 丹羽がそれらの内容を基に文章に纏めることでシナリオを構築していったという。
      今回も、それを踏襲したことと推測される。何故なら、ストーリー自体に嫌味がないからだ。 普通、ドラマでは、ある悩み事を中心にストーリーが展開されるが、この脚本にも悩み事はある。 一つは「カルチェラタン」解体の悩み、もう一つは「俊と海とは異母兄弟ではないか」という悩み事である。 だが、この2つとも嫌味はない程度の悩みである。 この悩みごとの朗らかさが、宮崎駿の特徴だ。お蔭で、安心して終わりまで見ることが出来た。
      この明朗さと、ハッピーエンド、素敵な音楽、このセットでかかれる脚本、次回を期待したい。
    8. 「生徒諸君に寄せる」の発見
      宮沢賢治の原詩「生徒諸君に寄せる」を発見したことは、この映画の大きな功績である。
      今の学生は、下手をすると、卒業と同時に、非正規労働者となる危険のある世界に生きている。 だから、目先の成績に拘るがり勉型の学生と成り勝ちである。 そのような、一寸先は闇の世界に、一条の光明を投げかけた詩だと思う。
      生徒諸君
      諸君はこの颯爽たる
      諸君の未来圏から吹いてくる
      透明な清潔な風を感じないのか
      それは一つの送られた光線であり
      決せられた南の風である

      諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
      奴隷のやうに忍従することを欲するか
      ・・・
      学生の受け止め方は夫々であろうが、奴隷のやうに忍従するより、 自分なりの自由を生きる生き方を模索すべきだろう。・・・大博打でも、月給取りでも、それで、 自由と思えればそれでいい。 人が何と言おうと。
  8. おまけ
    1. 「星めぐりの歌」
      宮沢賢治と音楽で思い浮かぶのは、 彼が作詞・作曲した「星めぐりの歌」だ。 この曲、賢治の著作『双子の星』、『銀河鉄道の夜』にも登場する。 聴いてみよう。彼の音楽的才能が見えてくるだろう。
      この曲、聴いていると、チェロの音色がするようだ。中々の名曲だと思う。 誰かが、その内、チェロ協奏曲とか、 弦楽四重奏とチェロを組み合わせた五重奏曲を書いてくれれば嬉しい。 既に在るのかもしれないが。
    2. 宮沢賢治が聴いたベートーベン作曲交響曲第6番「田園」
      賢治は多くのSPレコードを所有していたが、その大半は友人に譲渡するなどで手放してしまっている。 そのなかで最後まで手元に残していた数点の中にベートーヴェンの交響曲第6番があった。 このSPはハンス・プフィッツナー指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団による録音である。 ネットの中で、そのハンス・プフィッツナー指揮の田園を見つけたので、リンクを張っておく。
      これが、 賢治が聴いたハンス・プフィッツナー "Hans Pfitzner (1869 - 1949), recorded in 1930" のベートーベンの田園である。 テンポはとても緩やか。ゆっくり時が流れ、風薫り鳥が歌う田園風景を再現した名演奏だと思う。 賢治が嵌ったのも頷けるというものだ。 私としてもいい演奏のが見つかってよかったと思う。 少し涼しくなった秋の初めころ、田舎道を散策するのも悪くない。 スマホにこの曲を入れ、聴きながら、歩こう、ゆっくり、急がずに。
      賢治は、その著作「セロ弾きのゴーシュ」で、この曲を村の演奏会で演奏曲にしている。 相当、この第6番には執心していたことが覗える。
      第一、第二楽章までで第三楽章以降は聴かない方がいい。ハッピーな気分でいたいならだが。 そうでないと嵐がくるから、幸せな気分がすっ飛んでしまう。私はいつもそうしている。
      なお、案内メールでは、オケをベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と書いたが、ベルリン国立歌劇場管弦楽団の間違い。 また、第一楽章、第二楽章だけについてリンクすると書いたが、実際は、終楽章までのフル演奏版へのリンクとした。 こちらの方が、音がいいからだ。
      田園交響曲は、色んな指揮者のがある。 有名なところでは、古くは、フルトベングラー、新しくては、カラヤンなどだ。 夫々聴いてみたけど、フルトベングラーのは、綺麗過ぎる。 テンポはプフィッツナー とそんなに変わらないが、 研ぎ澄ましたような優等生のような音がする。言わば都会派の音だろう。田舎を歩くには違和感がある。 また、カラヤンは、テンポが速すぎる。置いていかれそう。 だから、田舎をのんびり歩くなら、プフィッツナー のがいいと思った。ご参考までだが。 或いは、健脚組なら、カラヤンでもいいだろう。 だが、眉間に皺を刻んだカラヤンの顔が浮かんでくるのは覚悟しなければならない。 そう、カラヤンには駘蕩としたところがない。いつも真剣勝負しているようなところがある。 もっと自由に歌って欲しいのに。
    3. Hans Pfitzner
      ハンス・プフィッツナーの指揮した曲をネットで捜してみた。 だが、作曲の方が専門だったようで、彼の指揮した曲では、ベートーベンの交響曲は、いくつか見つかったが、 それ以外は見つけることが出来なかった。
      実は、彼のベートーベンのピアノ協奏曲第五番「皇帝」を聴いてみたかったのだが、発見できなかった。 でも、ここで諦めるのは惜しいので、それに代わる名演奏のにリンク張っておこう。 フジ子・ヘミングと モスクワ・フィルハーモニー交響楽団 によるベートーベンのピアノ協奏曲第五番「皇帝」だ。 第3楽章だけしか見つからなかったが、それでも、素晴らしい! ここをクリックだ
      この曲、数あるピアノ協奏曲の中でも最高だと思う。否、ピアノ協奏曲だけに限らず、音楽中の音楽だと思う。 こんな曲が書けるなんて人間業とは思えない。神がベートーベンの頭脳に降りて来たとしか思えない。 何回聴いても飽くことを知らないからだ。・・・今後、これに勝るピアノ協奏曲が出るとは思えない。 そういう意味では我々は幸せというものだろう。後の者より先に最高のものを聴けたのだから。
      ベートーベンの特徴は、流れるような音の流れ、ということだと思う。 この曲は、第一楽章から終楽章まで音の流れに身を委ねられる。飽きることなく何回もだ。
      フジ子・ヘミングのピアノ、いいですね。どこがいいかって?、それは専門家でもないからよく分からないが、 スイングしているようなリズム感があると言っておきましょう。 だからそれに引き込まれてしまうのだと思う。
      オーケストラもいい。オケとピアノの協演も素晴らしい。曲が終わり拍手の直前、聴衆の叫ぶ「ブラボー!」という声が、 それを表している。
      もう一つ取り上げたいのはベートーベンのヴァイオリン協奏曲だが、ここいら辺で止めておこう。切りがない。
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