科学する精神(こころ)

 
石井俊雄
7月4日、世界はCERN(欧州共同原子核研究機構)が発表したヒッグス粒子発見のニュースに沸いた。 その世紀の大発見の実験に使用したLHC(大型ハドロン衝突型加速器)について面白い話を発見したので紹介しよう。
この装置は、CERNが10年の歳月と5000億円の巨費を投じて2008年秋に完成した円周27kmの巨大装置だ。
その実験開始の催しが実施されたのは2008年9月10日のこと。 「世紀のイベント」を祝おうと加速器の制御室にはCERNの歴代所長が顔をそろえた。 それだけではない。LHCには世界の主要国から新聞社やテレビ局の記者が300人集まり、英国放送協会(BBC)は世界に向けて数時間にわたり、 現場の映像を発信し続けた。
このBBCの取組み、どう思う? ・・・小生は凄く面白いと思う。
小生、先の掲載記事「台風一過朝香詩」の中で、物事の真理を実際の経験の結果により判断し、 効果のあるものは真理であるとするイギリス人のプラグマティズム(実用主義・実際主義)について述べたが、 このBBCの取組みを見て、イギリス人のプラグマティズム(実用主義・実際主義)の深淵を見る思いがした。 単なる経験主義ではなく、事実を見極める真摯な態度に裏打ちされた経験主義という国民レベルの奥深さが背景にあると思ったからだ。
いくらBBCでも、視聴者が見向きもしないネタを数時間のレベルで流すことはしないだろう。 となるとこのような番組が、視聴者レベルに受け入れられると解釈され、科学する精神を少数の人だけでなく国民一人一人が持っているように思えた。 少なくとも、表面だけを見た経験だけではない経験主義ということだろう。
我々はと言えば、経験主義という言葉からそこまでの奥深さを感じることはない。 科学する精神(こころ)が育ってないからだ。 見てるとそこのとこがどうも曖昧。特に、組織の上層レベルの人材にその精神(こころ)が欠けているように思う。 つい人との協調が顔を出しそのこころを押さえ込むのだ。「和の精神」、これってどうかな? 少なくともいいところばかりではないと思う。 原子力村がいい例だ。科学する精神(こころ)が仲間との協調する精神(こころ)に負けた例だろう。
だけど、「和の精神」は大事なこころだ。一方、科学する精神も大事。 となると、両者の折り合いをつけるにはどうするかが問題になってくる。
小生は、その折り合いをつけてくれるのは、「使命感」という考え方だと思う。 ここでいう使命感は義務感とも違うもので、使命感の方が少し上位に位置するものだ。 何故なら、義務感は他と自己との関係だが、使命感は自己と自己との関係だから。 前者が、他との繋がりの範囲なのに対し、後者は自己同士の繋がりだから死ぬまで切れないのだ。
もっと平たく言えば、「他人は誤魔化せても、自分は誤魔化せない!」かな。 外なる神には目をそらせても、内なる神には逆らえないのだ。 確か、キリスト教かなんかに、内なる神、外なる神、との記述があったように思うが、そのような中身なのかも知れない。
纏めていえば、科学する精神を持つべきだということだ。専門家任せではなく自前の精神で。人類の生存のために科学は必要不可欠なのだから。
原子力村のメンバーは、明らかに自らの和、即ち利益を優先させた。人類、この場合は日本国民、もう少し狭い範囲で言えば福島県民の利益よりもだ。 若しちゃんとした使命観を持っていたら、どちらを優先すべきか判断できただろう。 彼らは「和」という価値観しか知らなかった。科学する精神に対する価値観を持ち合わせなかったのだ。 この幼さ、彼らは己をさえ知らなかったと言わざるを得ない。
「科学する精神」とは何だろう。小生は、人工的ではない真実への信仰だと思う。
では、人工的ではない真実とは何だろう。おそらく、実証された自然則ということだろう。
一方、「和の精神」とは何だろう。小生は、 人工的な真実への信仰だと思う。
では、人工的な真実とは何だろう。おそらく、人間界の約束事ということだろう。
今、本を1冊読んでいる。素粒子論の本だ。 素粒子論は、これ以上のロマンは無いくらい面白いのだが、余りにも難解。 ちょっとした好奇心でドアを叩いてもげんなりして、退出を余儀なくされてしまうのだ。 だから私のロマンスは実りそうにない。
ヒッグス粒子の存在はシックスナインの確率で実証されるそうだが、小生のハートブレークはもっと高い確率で起こるだろう。 ・・・慰めの曲でも聴きましょう。この傷心を癒すために。アイルランド民謡をアレンジしたもので
 
 
 
 
 
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