ほこりとさび

 
石井俊雄
最近、引退後は家にいる時間が長くなった。
家では、概ね書斎にいる時間が長い。 書斎は6畳の洋間、床が安物のフローリングだが、机と椅子を置くには畳では足許が沈むので、フローリングは欠かせない。
それで、思ったことだがフローリングの床には結構埃が溜まること。 何処から来るのか知らないが、薄っすらと白味の朧を見つけたらそれは埃だ。 手で撫でると、ぽやっとした埃の塊が手に残る。
「昨日、掃除機掛けたのに!」
とか思うのだ。
そして、毎日これだけの埃が空中を舞い床に落ちるというのなら、私は毎日相当の埃を呼吸と共に体内に取り込んでいるはずであるから、 若し、体の中のフィルタ機構が無ければ、数年で体重の半分くらいは埃の塊が占めるだろう、ということに思いが至る。 人体というか自然の生体の強靭な自己浄化機構に感心した。 我が体に感謝だ。
もう一つは、埃の存在のこと。
現役中は、そんなものの存在は実感することは無かった。 仕事場でも家庭でも。 皆、仕事場では掃除の係りの人が、家庭では家内が、目に見えるようになる前に除去してくれていたわけだ。 それが今や自分で掃除することになってしまったわけである。 つくづく、わが身に起こった異変を感じるのである。
この先、どうなるのだろう?
ながらへば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき
の和歌が身にしむことだろうか?
この和歌は、本HPで以前にも引用したと思うが、百人一首に出てくる有名な和歌。 結構人気があるそうだ。 作者は、藤原清輔朝臣とある。
歌意は、
「行く末、生きながらえていたならば、やはり、つらいことの多いこのごろのことが、懐かしく思い出されることだろうか。 かつて、つらいと思った時代が、今となっては恋しく思われるのだから。」
というもの。
そう思えば、埃の掃除くらい何のことはない。苦しくても、やろうじゃないか!と思えるのだ。
諸君もさぼるなよ!・・・時は過ぎて、またこのごろをしのんだ時、その苦しみが懐かしく思えるだろうから。
話はここまでだが、少し景気をつけよう。
数日前、アンジェラ・アキさんの音楽番組「Song Book」を見た。 その中で採り上げていたのは、ビリー・ジョエルの「オネスティ」。
オネスティ(Honesty)は、ビリー・ジョエルが1978年(昭和53年)のアルバム『ニューヨーク52番街』で発表した楽曲。 この曲は、シングル盤も出ていて、アメリカでより日本での方がよりヒットしたそうだ。
歌意は、世の中が不誠実に溢れ、誠実さを得ることは難しいが、それでも誠実さを求めていくという内容の歌で、結構、メッセージ性の高い曲である。
YouTubeから歌詞つきのを貼り付けておくので聴いて欲しい。
アンジェラが面白いのは、彼女が日本語歌詞をこの曲に付ける試みを披露したこと。
なかでも注目したのは、英語歌詞の一音に対し日本語歌詞の一字を割り付けたこと。
例えば、次に1番の歌詞を書くが、
If you search for tenderness
It isn't hard to find
You can have the love you need to live
But if you look for truthfulness
You might just as well be blind
It always seems to be so hard to give

Honesty is such a lonely word
Everyone is so untrue
Honesty is hardly ever heard
And mostly what I need from you
・・・・
その中で、次のフレーズを7音としたこと。
If you search for tenderness
@ A  B C D E F
これに、日本語歌詞の「もしやさしさを」の7字を賦すとした。
更に次の行を6音とした。
It isn't hard to find
@ AB C D E
日本語歌詞は、「もとめるなら」の6字である。
かくして、私は、英語とは音で出来てることを再認識したのである。
だから、英語俳句なるものに対しても認識を新たにしなければならないことになった。 即ち、英語俳句は5・7・5音で成り立つということを。 小生は、英語俳句は5・7・5語で成り立つものと理解していたが、それは誤解だった。 語でなく音なのである。
それからもう一つ、この英語歌詞と日本語歌詞の話から思いつくのは、英語と日本語の表現の違い。
この違いの大部分は情報量の差である。
例えば、最初のフレーズの
If you search for tenderness
では、日本語歌詞は、
もしやさしさを
となる。
となると、英語歌詞の"you"、"search"、"for"の3語が省かれていることになる。
と云うことは、日本語歌詞は英語歌詞の歌意を凝縮しさびの部分(エッセンス)を残したものということになる。
このことは一般化することが可能だろうか。・・・ここでは一般化可能として考えてみよう。
そうすると、「日本語歌詞は英語歌詞のエッセンスを抜き出したもの」となる。
更に、歌詞に限らず一般化すると、「日本語表現は英語表現のエッセンスを抜き出したもの」となる。
となると、我々日本人は物事を表現するのに常に頭の中でエッセンス化するという過程を要することになる。
これが訥弁の原なのではないだろうか?少々乱暴かも知れないがそんな気がする。
このエッセンス化の性向 いいことなのか悪いことなのかは知らないが、物事を正確に表現するというのが言葉の役割だとしたら、聊か問題ありではなかろうか。
よく日本語礼賛の言辞を聴くが、言葉の本来的な役割に照らしてどうかという観点から考えなければならないと思う。
そうでないと、「言葉が信じられない」という代償を払うことになるだろうから。解釈の余地が有り過ぎてね。
以上、2つの事件から、ほこりとさびの話でした。
 
 
 
 
 
 
 
コメントはこちらへメールして下さい。その際、文中冒頭に「HPコメント」と記して下さい。 Email
 

<コメント欄>   当欄は上記のメールをコメントとして掲示するものです。