「いじめ」をなくす提言・抜粋

 
石井俊雄
朝日新聞の朝刊一面に、7月14日(土)から連日のシリーズで「いじめ」に関する提言がコラムの形で連載されている。 提言者は、各界の著名人だ。 初日のコメントに、「大津市のいじめ問題を受け、改めて全国の子どもたちへメッセージを届けます」とあった。
小生は、はじめの内は気付かなかったが、今週の月曜日、思わぬ視点からの提言を読み、注目することにした。 何故なら、「いじめ」は、我々ジジババでも孫ひ孫がいるし、過去のこととして一蹴することは出来ないのだ。 それに社会正義という観点からも見逃せない。
それで、今日までのコラム記事を読み返し、提言者のする提言の肝心なところを抜書きしてみた。
思えば、我々の幼少期には無かったほどのいじめがあるようだが、新規性はあるのだろうか?それとも伝統なのだろうか?
新規性と言えば、「金を要求する」という点が昔には無かったことと云えると思う。
伝統といえば、昔、陸軍内部での陰湿な「いじめ」の映画を見たことがある。 初年兵が蝉の真似をさせられるシーンだが、このアイディアには、深いいじめの伝統が込められてるように感じられたことだった。 何故なら、そう簡単には思い付くアイディではないからだ。 軍隊は、個人の自尊心を打ち砕くことによって強兵を育てるということだろうが、陰湿なのには賛同できない。 だが強兵は必要、国民と兵自身の命を守るために。
話別だけど、一昨日の朝日新聞に面白い記事が載っていた。33面に載った記事だが、「世界で一番笑わないのは日本人」という記事だ。 書いた人は、7カ国語操る落語家三遊亭竜楽という人。
曰く「・・・演じた国により国民性はさまざま。フランス人は気位が高く熱心に聞いているだけで終ることも。 噺がオチで突然終る形式を一番理解してくれるのはスペイン人。 ドイツ人は考えさせるオチを好む。 欧州人は全体によく笑う。外国語落語で実感したのは、世界で一番笑わないのは日本人。」
この笑いの少なさと陰湿ないじめ、何か繋がりがあるのだろうか。
そういえば、テレビのドラマでも、眉間に皺を寄せて何か深刻そうな顔ばかり。 それで、その原因はといえば大したことはないのでがっくりする。 日本人は、何か悩んでないと気がすまない民族かもしれない。・・・かくて寛容と笑いは失われるのかな?
だけど、いい面も多いのだ。
昨日、行きつけの歯医者で待つ間、週刊現代をパラパラ拾い読みしたら、面白い記事が載っていた。書いた人は、アメリカの経済学者で、 なんでもアメリカの不動産バブルを予告して名を上げた人と紹介されていたが、曰く、「日本は、バブル処理を上手くやっている。 世界は見習うべきだ。そして、日本は低成長とは言え、今後も確実に成長していくだろう。理由は、社会が平等だから。 平等感をなくした社会は成長できない。そこへ行くと、日本社会は平等だ。」と言っていた。
我々は、と言うか私は、かもしれないが、兎角、悲観的になり勝ちだが、よい面を見て頑張らなければと思ったことだった。 平等な社会とは、別な言葉で言えば、「フェヤーな社会」ということだろう。 思えば、いじめもフェヤープレーの精神があれば起こり得ないのかなと思える。
話を本題に戻そう。 そのコラムを一覧表に展開したので、よかったらご覧下さい。
 
日付提言者被害者向け加害者向け 傍観者向け
7/14(土)ボクシング元世界王者
内藤大助さん
「いじめられたらやり返せ」っていう大人もいる。でも、やり返したら、その10倍、20倍で仕返しされるんだよな。わかるよ。   
7/15(日)作家・僧侶
玄侑宗久さん
 君の親は、我が子が被害者になることは心配するが、加害者になるかもしれないとは思っていないのだろうか。 親が子をつぶさに観察し、いじめがあれば断固として叱らなければいけないんだけどね。 君だって本当は叱られるのを待っているんじゃないか。 
7/16(月)ジャーナリスト
江川紹子さん
   声をあげて自分のために
7/17(火)経済アナリスト
森永卓郎さん
本人が反撃し、もがくしかないと思います。返り討ちに遭うかもしれない。でも、抵抗しないままだといじめはどんどんエスカレートします。   
7/18(水)「生協の白石さん」著者
白石昌則さん
話せば味方増えますよ。   
7/19(木)モデル
押切もえさん
夢と希望を持って欲しい。外見を磨くとか、学者さんを目指すとか。「誰かを笑わせたい」でもいい。   
7/20(金)舞踏家
田中泯さん
  君がいじめを見て見ぬふりをしているなら、大人になった君もきっと傍観者だ。 面倒な問題とは無関係な安全地帯に身を潜めるだろう。それでいいのか。
7/21(土)ラジオDJ
山本シュウさん
聴かせて必ず答えるよ。   
7/22(日)タレント
細山貴嶺さん
 1年前、かつて僕をいじめた相手に尋ねました。「どうして僕をいじめたの?」。答えは「僕いじめてないじゃん」でした。この温度差は何だろう。 ・・・本当は君も何かに苦しんでいるんじゃないだろうか。そうなら、いじめという形で発散せず、誰かに胸の内を話して欲しい。 
7/23(月)社会学者
土井隆義さん
私は大学で、なぜ若い人が今の世の中で生きづらいのかを研究しています。そこで思うのは、「絆」や「つながり」が重視され過ぎているということです。 親も先生も「人間関係を大切にしなさい」と言います。
友達が少ないと、「私ってコミュニケーション障害?」と不安になる人もいます。 「相手といい関係を作り、損なわないようにしなければ」と信じ込んでいませんか。 私はそれを「つながり過剰症候群」と呼んでいます。
人と違うから独創的な仕事ができるのです。空気を読み、周囲に合わせる必要はありません。
  
7/25(水)作家
乙武洋匡さん
君が受けているいじめをノートに書いてみるんだ。 誰が何をしたか。周りはどう反応したか。君はどんな気持ちだったか。出来れば毎日書き続けよう。問題がこじれたときには、君を守る証拠にもなる。   
7/26(木)教育学者
斉藤 孝さん
君が今、少しでも嫌な目に遭っているなら、決して「大丈夫」とは言ってはいけない。 きちんと声をあげよう。先ず、親に話す。「心配かけたくない」なんて思わないで。
親は君が話してくれた方が安心なんだ。
  
7/27(金)イラストレーター
安西水丸さん
大人の処世術の一に「嫌な相手でも、いいところを見つけてほめる」ってのがある。 相手に利益を与えずしてこちらに利益はない。これは子どもでも使えるんじゃないかな。 外見をほめるだけでもいい。ほめられたら悪い気はしないから。心の中でアカンベーをしていればいい。   
 
 
これはと思う提言にはアンダーラインを付してみた。
だが、正直いうとインパクトのある提言はない。 中には、大人の処世術を子どもに勧めるという傑作?もあるが、これは基本理念を欠いて戦術だけを教えるのは如何なものかと思う。
何れにしろ、子ども達を救済する仕掛けをきっちり用意した上で、どうしたらいいと言ってるわけではなく、現状のまま、 結局本人の努力を頼んだ要求しているだけである。
しかし、個人のレベルではこんなとこが精々かもしれないね。 諦念的で申し訳けないが、終そんな言い訳をしてしまうのだ。
とりあえず今日までの分をリストにしてみたが、明日以降も更新してみようと思う。
 
 
最後に、小生の提言を書いてみる。
それは、ビートルズの「ヘイ・ジュード」を聴くこと。
ジュードとは、英語では'Jude'だが、たいていは男性名であり、女性名 Judith(ジューディス)の愛称としても使われる。 一方、ドイツ語ではユダヤ人を意味しているそうだが、作詞のポール・マッカートニックは全く知らなかったそうだ。
この歌は、気の弱い友「ジュード」を励ます歌だが、同時に、いじめる側にも反省をもたらすだろう。
更に、今日のロンドンオリンピックの開会式でもヒナーレを盛り上げた曲でもある。 素敵でしたよね。とても。
3番の歌詞では、「独りで背負い込むな」と励ましている。
And anytime you feel the pain, hey Jude, refrain
Don't carry the world upon your shoulders
For well you know that it's a fool who plays it cool
By making his world a little colder
5番の歌詞では、「君は誰かが助けてくれるのを待っている、でもそれは君がやるべきことなんだ」と励ましている。
So let it out and let it in, hey Jude, begin
You're waiting for someone to perform with
And don't you know that it's just you, hey Jude, you'll do
The movement you need is on your shoulder
6番の歌詞では、「ヘイ、ジュード 落ち込むなよ、悲しい歌も少しはましにできるさ。彼女に打ち明けるのだ。その時 全てが良い方向に向かいはじめるだろう」と。
Hey Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
Remember to let her under your skin,
Then you'll begin to make it
この5番の歌詞、徹底したイギリス人の個人主義を映していると思う。
ブロードキャスターのピーター・バラカン氏は、「個人主義の国、イギリスには成熟した大人の文化がある」として、次の様に書いいる。
「イギリス人は徹底した個人主義ですから、何でも自分の判断で行動し、たとえば職場で政治的な議論をして上司と意見が合わなくても気まずくはなりません。 日本独自の”空気を読む”は美徳ではなく、むしろ人の顔色を見て自分の意見を変えるような人は低く評価されます。 自己責任が当たり前、という文化が浸透しているのは合理的なことだと思います。」(7月26日朝日朝刊より抜粋)
自己責任とはいえ、友人を思い遣る心の寛さが素晴しい。
この個人主義・自己責任に代表されるイギリス社会は、別の言葉で言えば、一人一人が「自律的」ということだろう。 そこで、最近、我国にはかつての司馬遼太郎に匹敵するような知性が見当たらないので、彼の言葉を借りることにするが、
「英国人の国民的性格は、ざっといえば、プロテスタントがつくったものと思います。 カトリックは神や教義について、”依らしむべし、知らしむべからず”というふるい体質をもっていて、信徒は羊であり、司祭は牧者(羊飼いのこと?)である、 という伝統をもっていたものですから、・・・聖書は教会が持つもので、平信徒に読ませたりはしませんでした。
プロテスタントはたれもが聖書をもち、誰もがそれを読み、極端にいえばそれだけでいい、というものでした。 つまり神と人とのあいだに介在するカトリック教会の中間問屋制を廃し、信徒がじかに神に結び付こうとしたのが、この時代(十六、七世紀)の新教でした。 頭上の神と人との直取引でありましたから、この時代の新教徒はまことに厳しいものでした。 人たる者は、常住坐臥、他人がいようと独りでいようと、自律的であらねばならなかったのです。
似たようなものでいえば、江戸期のちゃんとした武士のようなものでした。 君子ハ独リヲ慎ム---江戸期の武士の何十パーセントかは、独りでいるときも姿勢をただしておりました。 ・・・英国人とスペイン人が大きくわかれるのは、十六、七世紀のそういう基盤からだと思います。」
と書いている(春灯雑記)。
自律性に代表される内的道徳律と宗教の持つ外的道徳律のバランス、これが両者を分かつといえると思う。 思えば、現在のヨーロッパの通貨不安、中でもスペインの財政赤字が焦点になっている。 となれば、自律性こそが現代とこれからを生きる生き方の根本律かも知れない。
個人の自律性と社会の平等性、上手く融合させた道徳律(哲学)が望まれる。
問題は、この自律性といじめの関係だ。 ちなみに、現在の根本律は「慈(いつくしみ)」だよね。 子から親への愛情が「孝」なら、親から子への愛情が「慈」だ。 我国では、皮肉ではなく「慈」が「孝」を圧倒している。 だが、ややもすると甘えに繋がる恐れがあり、問題なしとはしない。 したがって、自律性は甘えの排除を通していじめのない社会に繋がると思う。
 
以上から、近代化の種としての「自律性」を生んだ「プロテスタント」とは?という疑問が生じる。 そこで、ネット百科事典である「ウィキペディア」を見てみれば、次のような解説が載っていた。
プロテスタント(英語: Protestantism、Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、 カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸派の総称である。 日本ではローマ・カトリック(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。
英国国教会は、カトリック教会から分かれてプロテスタントの教義から影響を受ける一方で、 カトリック教会の信条・聖職制度・典礼等を引き継いでいるという経緯がある。 そのため、英国国教会をプロテスタントに分類する見解もあるが、 英国国教会は自身をカトリックとプロテスタントの中間として位置づけている。
プロテスタントとは、宗教改革の産物だったことがわかる。 それまでの西洋は、中世という時代であり、「ウィキペディア」によれば、次のような解説が載っている。
西洋において中世とは、歴史的には西ローマ帝国が崩壊した476年からコンスタンティノープル陥落の1453年までとされます。 一般的に中世を「暗黒の時代」と見なし、哲学史上でもキリスト教と結びついた「スコラ哲学」の時代として、 あまり重きをおかないという風潮があります。しかし、当然その時代にあっても人々はさまざまな生を営んでいたわけですし、 地理的に眼を広げれば、イスラム世界の中でギリシャ思想は研究され、 深化しておりました。私たちにとって中世は「暗黒の時代」ではなくいまだ「未知の時代」なのです。
長きにわたった中世も終わりを告げるときがやってきます。ヨーロッパでは、ルネッサンスと宗教改革という、 一方で相反し一方で共通するところをもつ二つの運動によって近代が準備されるのです。
宗教改革に先立ち発生したのが「ルネサンス」と呼ばれる文化改革。 同じく、「ウィキペディア」によれば、次のような解説が載っている。
ルネサンスとは再生という意味の言葉ですが、その運動はまず、ギリシャ・ローマの古典文化の再評価、回帰というところから始まります。 14世紀のイタリアで起こった文芸運動が出発点で、ダンテの『神曲』、ペトラルカの『抒情詩集』、ボッカチオの『デカメロン』などがあげられます。 またミケランジェロやボッティチェリによって芸術作品が造られました。その特徴はありのままの人間を表現しようとしたこと、 人間性の肯定ということです。だからルネサンスにおける理想的な人間像とは、 人間の諸能力を遺憾なく発揮している人間、万能の天才(普遍人)といわれる人間です。 その代表が、レオナルド・ダ・ヴィンチです。
ルネサンス期の重要な思想家としては、ピコ=デラ=ミランドラ、マキャヴェリ、エラスムスの3人があげられます。 ピコは『人間の尊厳について』の中で人間の自由なる意志をもって神の被造物でありながら他の動物とは違う点であることを指摘、 まさに人間の尊厳がその自由意志にあるとしています。
以上から言えることは、近代化の必要条件としての「自律性」という国民性は、宗教改革の産物であると言うこと。 この発見がとても面白い。
それに、ピコ=デラ=ミランドラという思想家の発見。学校では習わなかったのに、いい仕事してる。 あの時代に、「人間の尊厳がその自由意志にある」と指摘したのは大したもの。 しかも、31歳で亡くなったことを思うと、その非凡さには感嘆する。詳しく知りたい人はここをクリックされたい
言っておくが、この時代の自由とは神からの自由を意味している。 我々が普通に思い浮かべる自由とは大分違うことを念頭におかないといけない。 空気を読んでたらとても言えない恐らく命懸けの発言だったことだろう。 彼の著書を読んだわけではないがそのはずである。
さて、もう少し書き足そう。それは、我国の歴史で宗教改革はあったかなかったか?という疑問。 それは、私はあったと思う、なし崩し型で。証拠は、現在の仏教の立ち位置を見れば明らかだ。概ねは葬式用に限定されているから。 では、中国はどうだろう。陳舜臣氏によれば、「中国人は非宗教的で、報恩復仇というのも、神様ではなく、人間様のするべき領分になっています。」 と書いている(「日本的中国的」の二つの杜子春より)ので宗教改革の有無を論じることは意味がない。 西欧キリスト教世界は、上述の通りあった。では、イスラム世界やインドではどうだろう? ・・・寡識不知である。
言っておくが「寡識不知(かしきふち)」なる四字熟語は辞典を牽いても無いはず。理由は小生の作だから。 ・・・それぐらい遊ばないと、このド級の暑さに耐えながら短文を書くのはしんどい。大目に見て欲しい。
最後に、「ヘイ・ジュード」のコードシーケンスを書いておく。(1)番は、F,C,C7,F,Bb,F,C7,Fだ。 (3)番は、F7,Bb,Gm,C7,F,F,Bb,Gm,C7,Fだ。 それ以外は、この繰り返しだから、鳴らして見ればすぐ分かると思う。 声でメロディーを歌い、なんでもいいから楽器でコードを弾くとハモること請け合いだ。なお、"Hey Jude,"の出だしの音は「ド」だからね。
余談だけど、「日本人は虫の声まで左脳(言語を扱う脳)で聞く、と言われるほど、世界でも珍しいくらい言語に対して感受性の強い民族だから、 ちょっとリズムをとって音を上げ下げするだけで(和歌や小唄など)、十分に深い感銘を受けることができてしまい、結果、 右脳が司るようなハーモニックな音楽は発展しなかった、という考察もある」(「作曲講座」奥平ともあきより引用)ということなので、 上のようにしてもつまらないかも知れない。
また、別の本を読んでいたら、「音楽をコード(和音のこと)で聴く人と、メロディーで聴く人がいる」と書いてあった。 ・・・本当かいな?という感じだけど、人様々ということだろう。
ちなみに小生はコード派だ。だから、少々雑音が入っても平気。SP盤で聴くときはすごく便利なのだ、針音など気にならないから。 その代わり、リズムや音程、音色、テンポには敏感だ。・・・と思っている。
 
 
 
その後のコラムの抜粋を追記する。(2012/8/5)
日付提言者被害者向け加害者向け 傍観者向け
7/28(土)作家 辻村深月さん悲しいけど、いじめって絶対なくならない。
アイドルでも、スポーツでも、。何でもいい。つらい状況に追い込まれる前に、夢中になれるものを見つけて、自分の心を豊かに強く、保ってほしい。
  
7/29(日)AKB48
秋元才加さん
 個人の考えは一人ひとり違う。 それでも恐れずに自分の気持ちを伝え、話し合うことが、いじめを脱する一歩になると思います。 君だって本当は叱られるのを待っているんじゃないか。 
7/30(月)作家 志茂田景樹さん   インターネットを使って、いじめがあることを学校の外に知らせるのもいい。 ネットに書くことは、チクることじゃない。社会への問題提起であり、称えられるべきこと。
その発信をちゃんと受け取るのが大人の仕事だと思う。
7/31(火)歌手 マルシアさん  考えたくもないけど、もし娘がいじめる側になったら、私はいじめられた子と親に土下座して謝る。 ・・・いい?親を悲しませるエネルギーがあるなら、自分の将来のために使って。 
8/1(水)サッカー日本代表
槙野智章さん
  僕はいじめを見ているのも、結果的にいじめているのと同じだと思います。
8/2(木)タレント
はるな愛さん
生きていれば、生きているだけでよかったと思える日が来る。私がそうだった。一緒に生きて行こう。   
8/3(金)声優 田中真弓さん   君は「これはいじめじゃない」と思っているかも知れない。でも、 傷つき方や傷つく場所は、人によって違う。
8/4(土)冒険家
三浦雄一郎さん
友人関係がうまくいかず、いじめがひどいなら、学校休んじゃおう。いじめる連中は弱みにとことんつけ込んでくる。 1学期でも、1年でも休むといい。 休めば先生も心配する。それでダメなら転校だってできる。 ・・・人生をトータルに考えれば、学校を休むくらい、たいしたことじゃない。   
8/5(日)漫画家
西原理恵子さん
嘘をついてください。嘘は、あなたを守る大事な魔法。人を傷つけたり盗んだりするのでなければ、嘘って大事よ。 これからも、上手に嘘をついて生きていけばいいんだよ。   
 
 
これはと思う提言にはアンダーラインを付してみた。
今回の傑作は、サッカー日本代表槙野智章さんの指摘だ。
考えて見れば、いじめを見ているだけで何もしないというのは卑怯だよね。 傍観者というのが一番質が悪い。自分は安全なところにいて危険な目に遭ってるのを眺めるというのだから悪質だ。 男の風上にもおけない。 そういえば、十一世紀末、前九年の役での衣川の合戦のエピソードを思い出す。
東国の軍は敗れ、その将安倍貞任は逃げた。追手の大将・源義家が彼に迫って声高く、 「汚くも敵に後ろを見するものかな、しばし返せや」と呼ばわりしに、貞任の馬を控えたるを見て、義家は大音に
衣のたてはほころびにけり
と詠みかけた(衣のたてのたては「館」で、衣城のこと)。その声終るか終らざるに、敗軍の将は従容として
年を経し糸のみだれの苦しさに
と、上の句を付けた。
義家は引きしぼりたる弓を俄に弛めて立ち去り、掌中の敵の遁ぐるに任せた。 人怪しみてその故を問たれば、敵に激しく追われながら心の平静を失わざる剛の者を、恥かしめるに忍びず、と答えたという。
昔の侍は風流だ。貞任にしてみれば、命よりこの上の句を告げることが大事だったことだろう。 小生、解るような気がする。
このエピソードは、前九年の役で起きたことだが、小生は、新渡戸稲造の「武士道」から引用した。 なぜなら、いじめを傍観することは、敵に後ろを見せるのと同じだからだ。 学校で、新渡戸稲造の「武士道」を教えたらどうだろう。
 
もう一つ、人を傷つけたり盗んだりするのでなければという条件つきながら、嘘を奨励する提言には驚いた。
ついてよい嘘とついていけない嘘ってあるのだろうか?
ハーバード大学のマイケル・サンデル教授に訊いてみたい。 「嘘の正義」とは?とね
また、コロンビア大学ビジネススクールのシーナ・アイエンガー教授には、「嘘に、ついてよい嘘とついていけない嘘という選択肢はあるの?」とね。
また、宗教家に訊いてみたい。「ついてよい嘘とは?」と。
どんな答えが返ってくるのだろうか? 多分、宗教家のは具にもつかない答えだろう。だが、マイケル・サンデル教授とシーナ・アイエンガー教授の答えは知りたい。
答えは、処世術としての真か、それとも哲学的真か、どちらだろう。
果たして、処世術としての真だったらそれに普遍性はあるのだろうか?即ち、「嘘も方便」の哲学とは?
また、哲学的真だったらそれに存在価値はあるのだろうか?
 
 
 
その後のコラムの抜粋を追記する。(2012/8/12)
日付提言者被害者向け加害者向け 傍観者向け
8/6(月)社会学者 中西新太郎さん   いじめを見ていて「おかしい」と感じたら、君のその思いをきちんと受け止めてくれる大人を探してください。 現状では、それしか手がありません。
8/7(火)映画監督
井筒和幸さん
 最近のいじめのニュースを見ていると、よく似ている。きっかけはつまらんこと。 気ィ弱いとか服がダサいとか貧乏だとか、理由をつけて憂さ晴らしする。
根っこには退屈があるんだろう。ゲームにテレビに映画。時間つぶしのものばっか。
一つ言えるのは、そんなくだらん世界から「全力で逃げろ」。映画「ゲッタウエイ」で、 スティーブ・マックイーンがテキサスからメキシコへ逃げたように、君らも這ってでも逃げろ。 さして面白くないのに笑うな。迎合を迫る社会からドロップアウトして、孤高をめざせ。
 
8/10(金)脳科学者
茂木健一郎さん
それぞれが一つの集団にしか属さない場合、他人のために何かをするという行動が生まれにくいという。
とりあえず君も、学校だけでなく、塾とか、スポーツのチームとか、外の世界につながっていこう。 そうしたら心のバランスを保つことができる。
  
8/11(土)お笑い芸人
猫ひろしさん
  本当に強い人には自分の意志がある。 あなたにも早く夢中になれるものが見つかればいいと思います。そうすれば、いじめられてる人を見ればかわいそうと思うでしょう。
8/12(日)医師・作家
川渕圭一さん
「いじめを受けたら誰かに相談して」というメッセージは無意味なんです。そもそも、人に話せる子はいじめられないんだから。
・・・だから君に伝えたい。君は弱虫なんかじゃない。いじめに耐えることができるのは、本当は一番強い人間なんだよ、と。
  
8/14(火)経済学者
金子 勝さん
時事問題を挙げます。東京電力福島第一原発の事故では、16万人が避難しました。放射能の不安におびえながら逃げ場のない人たちもたくさんいます。 自殺者も出ました。
でも、東電の経営者たちは明確な責任を問われないまま。
やはり責任があるはずの原子力安全・保安院の人たちは今も原発の「安全性」を審査しています。
私には、いじめ問題への対応が甘かった大津市教育委員会とダブって見えます。
こんな社会を今の大人は作っているんです。なんかおかしいですよね。
どうか、今の大人とは違った生き方をしてください。
  
8/16(木)政治学者
カン・尚中さん
(フォントがないのでカナで表記)
自分を苦しめている世界から脱出してみよう。そうすれば必ず、今いる世界がちっぽけに思えてくる。   
 
 
これはと思う提言にはアンダーラインを付してみた。
今回の傑作は、映画監督井筒和幸さんの指摘だ。
「根っこには退屈があるんだろう」とのことだから、勉強でもしてみたらどうだろう。 いじめるにはそれなりの頭の回転が要るはず。 だから、そんな人材が、勉強して社会人に成れば清濁併せ持つ幅広の人材になる可能性が大きい。 そんな人が、世界を相手に丁々発止と活躍してくれれば、日はまた昇るのだ。
これは、一種の英雄待望論でもある。 皆んなお利口さんばかりなのにはうんざりしているのだからチャンスだよ。
経済学者金子 勝さんの指摘するように、なんかおかしい。 責任を取るべき人が責任を取らないで生き残っている。 太平洋戦争でも同じだった。 極東軍事裁判で外国人に裁いてもらった以外は、我が国としては責任追求をしていない。
我々は、聖徳太子以来、「和」を大事にしてきたが、今や「和」の弊害に気づくべきときではないだろうか。
思えば、ついこの間のロンドンオリンピックの男子水泳400mメドレーリレーで銅メダルが決まった瞬間の選手の一言が「和」の価値観を如実に示している。 「北島選手を手ぶらで帰すわけにはいかなかった!」と叫び、だから頑張ったのだとさも誇らし気に語った。 この話は、要するに仲間のために頑張るという言わば身内大事の和の世界の価値観だ。見ている世界が狭い。 もっと高邁な知的理念を掲げてそのために頑張ったと言えなかったのだろうか。 これでは、日本のローカル化、ガラパゴス化の傾向は止まらない。 発想の地平線が狭く、これでは世界水準の発想は生まれない。 ということは、いつまでたっても精々日本一を目指した江戸時代の鎖国の下での世界観に留まることになる。 ・・・アメリカは、少なくとも、世界を視野に入れて発想し発言している。 我が国は、そこへ行くと精々日本一。 我が国の地政学的な矮小さは否めないが、精々日本一の世界で生きて行くのかな?仲間大事の和の世界で。 それだと、多分、個は弱いまま、いじめはますます陰湿化するだろう。
少し付け加えよう。昔、司馬遼太郎の「街道を行く」で読んだと思うが、ある話を思い出した。 それは、土佐と瀬戸内海に面した伊予とか讃岐とかの地方の気風を比べた話だった。 細かいことは定かでないが、この2つの地方の差は、土佐が太平洋の外海を眺めながら日々を暮らすのに対し、 瀬戸内海に面した地方が沖には島々が点在し遥かな水平線を見ることはない、というもの。 要するに、日々の暮らしで遥かな沖に芒洋と横たわる水平線を眺める人々と、すぐそこに島々を眺めて暮らす人々との間には、 気宇の大きさに違いがある、というものだった。
そういえば、伊予松山出身の正岡子規と、土佐出身で三菱の創業者岩崎弥太郎との地平線の差が見えてくる。 前者は、俳句・和歌の世界、後者は世界企業。異質なもの同士の比較は意味がないとはいえ、見てる地平線には違いがあると思はないではない。
人が夫々に見る地平線、これが遠いものであることを願っている。
 
 
 
 
 
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