- シナリオ
皆さん、いかがお過ごしですか?
小生、今日は閑。・・・「今日も」かもしれないが。
言葉は正確にしないとね、安倍さんではないが。
安倍さんは憲法解釈という詭弁を弄して、
我が国民に書いたものへの不信感を植え付けることに成功した。
書いたものが信じられない社会って、何を規範にするのだろう。・・・誰か大きい声を出す人の言うことだろうか。
少なくとも、書いたものではないだろう。
この書いたものへのいい加減な対応、この対応の大本は、仏教教典にある、と思う。
書いてあることの意味もわからないのに、何となく信じる、という文化を育んだからだ。
お経は漢文を音読みするだけだから意味が分かるはずがない。
それを承知で説教する坊さんって、・・・漫画チックだ。マジであればあるほどに。
その結果、大衆の知性は深まらず、単に人がいいだけの善男善女となった。
キリスト教に於いても同じように善男善女育成の教化は行われたが、母国語で書かれたバイブルという書物があったのが幸いし、
善男善女は知性を深化させることができた。
話別だけど、2〜3日前、ネットのmsnニュースに、「日本人の『国民性』を誤解している中国人」という記事が載っていた。
(2015/7/16)
「中国メディアの捜狗新聞は14日、中国人は日本人の国民性に対して大いなる誤解をしていると伝え、
中国の雑誌『日本文学』の副編集長である李長声氏の発言を引用し、日本の国民性を紹介する記事を掲載した。」
として、縷々、日本人の国民性を紹介していたが、その中で、小生の注意を引いたのは、次の一文。
「・・・中国人は日本の文化について『恥の文化』であると認識していると伝える一方、
日本人にとっての『恥』とは神に対するものでもなく、宗教上の戒律によるものでもなく、
『周囲の人びとの目』に対するものであると指摘。
つまり、人のうわさになることを嫌い、そのために自分の行動を律し、恥をかくことを避けようとすると論じたほか、
日本人は『行動の正しさ』ではなく、『他人からどう見られるか』を基準に行動すると主張した。」
この数行の記事の中でも特筆すべきは、
「日本人は『行動の正しさ』ではなく、『他人からどう見られるか』を基準に行動する」
の下り。
この行き方、今回の安保法案への国会議員の対応を見ていると、真実だと思えてくる。
『行動の正しさ』は現行憲法に書かれているのに、安倍総理の目を気にして行動する行き方、中国誌の指摘通りだ。
これは、一昔前、山本七平が「空気の研究」(1977年)で指摘したことと同じことを指摘するものではないかと思う。
彼は、日本人は「空気」を感じて行動する、と言った。
日本人は、五感の他に、もう一つ「空気感」とでも言えるセンサーを持っているのかも知れない。
この『行動の正しさ』ではなく、『他人からどう見られるか』を基準に行動する行き方は、
書いたものが信じられない社会が行き着く一つの解決法だろう。
だが、これではグローバル社会で名誉ある地位を占めるのは無理。
大体、『行動の正しさ』を推量る規範もなしに、他人の目を気にするやり方で、どうやって行動するというのだろう。
安倍さんの説明では、ホルムズ海峡での機雷掃海が例示されている。
そこで、何故、ホルムズ海峡か、と言えば、湾岸戦争で、我が国は1兆3千億円もの戦費を負担したのに、
国際社会からは評価されなかったから、というのが発端らしい。
規範もなしに、他人の目を気にして行動して得られたものが冷笑だった。
あっちへコロコロこっちへコロコロ、どんぐりみたいだな!というところだろう。
規範もなしに、グローバル社会において名誉ある地位を占める、と言うのであれば、
単に、地位が欲しいだけということになる。
目的が、理想の実現ではなく地位そのものとなるのだ。
誰かに褒められたいとか、地位を得たい、というのなら、追従の揉み手をすればいいが、これじゃ茶坊主だ。
茶坊主で居たくないのなら、揉み手ではなく理想を掲げなければならない。
そのためには、先ず、書いたものが信じられる社会を構築することが大切だ。
その上で、普遍的な価値を満たす規範文章が必要。
その上で、必要なら世界を引っ張って行くこともやればいい。
この仕方、この世のビジネス世界の成功者のやり方と似ている。
先ず、独創的ビジネスモデルを創案し、設計書にして後は実行あるのみだ。
理想を実現するには、このシナリオにオンしないといけない。そうでないとどたばたと労多くして益なし、となるからだ。
このシナリオが安保法案の根底に横たわることを願っている。
- 現状
少し、追記しよう。
「書いたものが信じられない社会」って、どのようなこと?と思うだろう。
政界限定では?と言うかもしれない。
でも、日本人の誰もが、書いたものへの得も言えぬ猜疑心を抱いている、と言えるのではないだろうか。
だから、そう言う社会を言うのだ、「書いたものが信じられない社会」と。
この書いたものへの不信感は、長い間の習慣が習い性となって文化レベルに達したものだと思う。
別な言葉で言えば、「文字通り行かない」のが常識なのだ。
だから、「書き換え」には慎重になる。
本本に曖昧さを感じつつもそれなり無事を保ってきたものが、「書き換え」となると、
実績がない不安から何か別の意図があるのではないかと疑うのである。
日本人は、この曖昧さを、いいことだと思っている節がある。
確かに、文学の世界では、必要なことかも知れない。
でも、そんなにいいことか、と言うと、そうでもないとも言えるのではないだろうか。
我々は、退屈だが長い国語の授業で、「表現の正確さ」という講義、聞いたことがない。
「もののあわれ」とか、断定しない曖昧さがいいことのように教えられてきた、と思う。
でもね、言葉って、文章もだが、物事を正確に表現するためのものではないだろうか。
「もののあわれ」とか「情緒」とかの曖昧さにかまけて、言葉や文章表現の本来の役割を軽視してきたきらいがあると思う。
その結果が、書いたものへの不信感となって、言わば猜疑心地獄を生み出したのだ。
書いたものだけでは一意的に内容が決まってこないからである。
日本語という言語の解像度がそれほど高くないとも言えるのだと思う。要するに、完成度の低い言語なのである。
我々は、国民インフラとして、言語表現の正確さを構築すべきだと思うが、どうだろうか。
そうでないと、いつまでも、「真」を欠いた社会を生きねばならなくなる。
この場合、「真」とは、「曖昧さがない文章に記されたこと」、となるのだが。
国語研究所ってものがあるが、何やってるのだろう。
当用漢字表に、あの字を加えるか加えないか、なんてやってるのかな?
長閑でいいね!・・・これ皮肉。
文学の役目って何だろう?ふと、そんなことを考えた。
私は、「休息(息抜き)」だと思う。
人間の本業は、実業だ。
実業とは、生存のために必要なことを行うこと。
そう考えると、文学抜きでも、実業はできる。
でも、文学を否定はしない。
何故なら、実業だけでは、息が詰まるからだ。
即ち実業が停滞する。スポーツも同じだろう。その他の芸能も。
人の一日は、三分の一が実業、三分の一が休息、残りの三分の一が睡眠だ。
でも、中でも重要なのは、実業だ。
だから、実業の遂行に資するようなインフラ整備は、欠かせない。
しかし、今、その実業の中にAI(Artificial Intelligence:人口知能)が入り込んできた。
結果、人が実業のために費やす時間は減少するだろう。そして増えるのは、休息時間だ。
ますます貴族化するとも言える。
金銭的には潤沢とは言えなくとも、時間だけはたっぷりあるという意味で貴族だ。
休憩時間が増える世の中とは、曖昧さを尊ぶ世界が増えること、とも言えるが、曖昧さは争いを生む。
何故なら話し合いで決着が着かないからだ。
曖昧さの中では真の決着はない。あるのは妥協だ。だから、いつまでたっても争いが続くのだ。
そんな居心地の悪そうな世界、・・・果たして幸せと言えるだろうか。
私は思う、人間、曖昧さの中に安住してはいけない。
「書いたものが信じられる社会」が基本であるべきだと思っている。
(この段追記:2015/07/20)
- 改善策:判断基準を「論理的整合性」へ
もう少し追記しよう。
「書いたものが信じられる社会」が基本であるべきだと書いたが、では、それはどうしたら実現するのだろう。
それは、先ず、「書いたものがちゃんとしたもの」でなければならない。
そして、「書いたものがちゃんとしたもの」とは、
二つの要素がある。
- 一つは、内容に論理的整合性があること。
- もう一つは、その書いたものが公開される過程での論理的整合性だ。
別な言葉で言えば、手続きの論理的整合性があることと言える。
民主社会では、「内容の論理的整合性」を確保し、議会がOKすれば、「手続きの論理的整合性」は保たれ、
「ちゃんとした書きもの」が出来上がる。
このようにして「ちゃんとした書きもの」が確保されれば、次は、PRすればいい。
学校で教えたり、テレビで広報したりして。
後は数こなすこと。日本人は変わり身は早いから、10年ほどで、変わり初め、30年経つ頃は、定着しているのではないだろうか。
少なくとも、放っておいても変化はないのだから、目標を立て、実行するにしくはない。
これが実現法の一般論だ。でも、現実は相当かけ離れている。
具体的に見てみよう。
数日前、自民党は安保法案を強行採決した。
だが、これは、「書いたものがちゃんとしたもの」からは程遠いものだった。
理由は、「内容の論理的整合性」が保たれてなかったことと、「手続きの論理的整合性」が保たれてなかった、からだ。
前者は、憲法との整合がないということだし、
後者は、「国民の理解が進んでない」と言いつつ「安保法案」の強行採決に突き進んだことからそう言える。
特に、「国民の理解が進んでない」と言いつつ「安保法案」の強行採決、というのは、論理性の欠片もない行為だ。
「衆議院としては、不完全なものを作りました。だから、参議院さま、完全なものにしてください。」
と言ってるわけだから、役目を果たしてない!と言われても仕方がないはず。
別の言葉で言えば、「二院制が機能してない」となるのだ。
二院制の前提は、各院がそれぞれ独立していいものを作る、ということにあるはず。
若し、二院で合計するような関係なら二院制は要らない、となるだろう。
一国の首相が、こんなこと言っていいのだろうか?
衆議院としての抗議があってもおかしくない発言だ。
この例からも分かるように、「書いたものが信じられる社会」を実現しないと、深い洞察を欠いた思い込みが独走し、
国を危うくする可能性がある。
「書いたものが信じられる社会」を実現する上でのキーワードは、「論理的整合性」だ。
判断基準を「空気」ではなく「論理的整合性」に換えて行かなければならない。
なお、山本七平の「空気の研究」については、再読してみようと思っている。
(この段追記:2015/07/22)
- 改善しない場合:判断基準が「空気」なら
ここで少しだけ山本七平の「空気の研究」からピックアップしてみることにする。
なお、ピックアップ先のネット上の記事は
ここ。
「空気の影響力」として次の文章がある。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、
『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。
この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、
すなわち明確の根拠がある。
だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。
最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、
それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
指摘のとおり、日本人に関する非常に興味深い事実である。われわれの求める正しい道「あるべき姿」は、未来構文の内容である。
そして、日本語には時制がないから、未来構文はなくその内容もない。
かくして、日本人には哲学が難しく、日本語は、実況放送・現状報告のための言葉となっている。
「空気」は、現実構文 (現在構文) の内容である。だから、無哲学・能天気の日本人は感情理論を受け入れる。
このことが、わが国民を昔ながらの知的低水準に押しとどめている。
わが国は、戦前も戦後もきわめて危険な状態にあることに変わりない。
わが国の有識者・知識人は、英語による考え方にも理解を示す必要がある。
鋭い指摘だ。特に注目に値するところには下線を付しておいた。
今のインテリにこれだけ書ける人、いない!よね。残念ながら。
もう一つ、ピックアップしてみる。
「大人の自由」として次の文章がある。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、「『やると言ったら必ずやるサ、
やった以上はどこまでもやるサ』で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、
その場その場の ”空気” に支配されて、「時代の先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるのも、
結局は同じく「言必信、行必果」的「小人」だということになるであろう。
大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、
ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことであろう。」と書いている。
日本人は、大人になることが難しい。それは、日本語に未来構文がないからである。
「未来においては、あなたは人を殺さない」(You shall not kill.) という教えがあるが、
これが現実の話でないと考えている日本人は少ないのではないか。この教えの内容は、いうならばわれわれの努力目標であって、
現実における調教の為の掛け声ではない。
わが国の有識者・知識人は、英語による考え方にも理解を示す必要がある。
鋭い指摘だ。特に注目に値するところには下線を付しておいた。
議論が深まらないのは不慣れの所為だろうと思っていたが、「知的低水準」にして「子供」ですか、
・・・とても、面白い。
(この段追記:2015/07/24)
確かに、「知的低水準」にして「子供」でも、集団行動は出来る。
例えば、鳥を見ればいい。
鳥は、数万羽でも、鮮やかな団体行動が出来る。一斉に飛び立ち空を舞うところをみると、よくまあぶっつかりもしないで、
一斉に方向を変えたりスピードを変えたり出来るものだと思ってしまうが、あれは、何か周り1メトルほどの視野で、周りを見、
その動きに合わせさえすれば、ああなるのであろうから、「知的低水準」にして「子供」でも出来る、となるのである。
勿論、リーダーは要らない。
そもそもリーダーには、未来形の思考が必要だが、未来形の構文がないのであるから未来形の思考はないことを示している。
たまたま、飛び出した鳥に、近くにいた鳥が続き、それを見てまた続く、という繰り返しだからだ。
あれと同じだろう、空気力学による行動法は。
でも、これでは面白くないよね。個人の判断が単純すぎて、殆ど、考えていないのと同じだから。
これでは、個人の尊厳はない。単純なルールで動く粘菌のようなものだから。
でも、我々の行動とそっくりなのは間違いない。
山本七平って人、よく言ったものだと思う。
それから、もう一つの注目点は日本語に未来構文がないという指摘だ。
例えば、日本の宇宙開発、これには長期の戦略がないと言われて久しい。
それでも、今もってその様なことは発表されてない。
これは、そもそも未来思考がない国民性を示していると考えれば説明がつく。
未来思考がないことは、日本語に未来構文がないことが証明している。
それから、もう一つの注目点は、
その場その場の ”空気” に支配されて、「時代の先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるという指摘だ。
我国は、明治維新や殖産興業を他のアジア諸国に先駆けて達成したが、この偉業も、確かに偉業だ。
だが、練りに練った構想を順序だって遂行した結果ではなく、単に、
その場その場の ”空気” に支配されて、「時代の先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしった結果に過ぎない、
と理解すれば、理解できなくもない。
でも、そう理解すれば、我が国民の優秀性は雲散霧消してしまう。
・・・だが、物事を正確に捉えることは今後の未来を考える上で重要だ。
「我が国民の優秀性」などという虚構の誤解の上に立てた構想なんて頓挫するに決まっているから。
「空気」の果たす役割を理解することは、自分を知る、という意味で、大事だと思う。
以上、「空気力学」、あまり芳しくない評価だが、要は、国民の選択の問題だ。
この世に、正解は無い。あるとしたら選択したそれが正解である。
だが、「空気力学」の存在も知らないで生きる、とういうのは情けない。
ちゃんとその存在を理解して選ぶなら、それはそれで生きていけばいい、と思う。
でも、そうであれば、仮令、戦争のようなことになっても、その結果を人の所為にはできないこととなる。
そう言うリスクを含めての選択だろうからだ。
今もって、自分は太平洋戦争の犠牲者であって騙されてそうなったから責任はない、と考えている向きもあるだろうが、
それは、そうである。でも、自分のしたことを知らなかったことは認めなければならないだろう。
自分のしたこととは、知らず知らず「空気力学」を選択したことである。
この空気力学を国として意識的に選択した場合、結構ユニークな存在となるだろう。
西欧型論理整合社会だけが正解ではないのだから、存在し得ないというわけではないだろう。
存在し得たとしたらそこでは、「論理」と「空気」がぶっつかる。
そうなれば、多分、従属的国家とならざるを得ないと思う。・・・現在の姿がそれに近い。
何故なら、そもそも「空気」には論理は存在しないのだから「論理」には勝てないのだ。
だが、それでは、日本国憲法前文の
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ。」を実現出来ない。それが問題だ。
それに、「空気力学」に犯された社会は、民主主義の根幹である政党を機能不全にする。それも問題だ。
政党が空気に支配されたとき、国会も機能不全となる。その結果、民意とかけ離れた政治が行われる可能性があるからだ。
だから、この選択肢は採らない方が賢明だろう。
矢張り、西欧型論理整合社会が望ましい。
従って、判断基準を「空気」ではなく「論理的整合性」に換えて行かなければならない。
(この段追記:2015/07/25)
- 改善の結果
もう少し追記しよう。
前回の末尾で、判断基準を「空気」ではなく「論理的整合性」に換えて行かなければならない、と記した。
その違いと結果を説明したい。
- 「空気」の場合
「空気」は文章に書くことができる。でもそれは未来型ではなく実況中継型であるので、現在の状況を書いただけのものになる。
即ち、空気センサーで感じるだけのものだから普遍性はない。
「空気」の本質は保身だ。それも現在形の。
先のことなど気にしないのだ。敢えて答えれば「その内何とかなるだろう・・・」だろう。
だから、標題の「書いたものが信じられる社会」の中で、その書いたものは市民権を得る可能性はない。
でも、「書いたものが信じられない社会」は続くだろう、破局まで。
そしてまた奮励努力の局面を迎え、暫時の後、また破局、を繰り返す。
フォークソングの有名な曲、「花はどこへ行った」を思いだすよね。何故なら、その歌詞の通りだから。
この歌では、"When will they ever learn? When will they ever learn?"(一体いつになると解るの?)と歌うのだ。
- 「論理的整合性」の場合
一方、「論理的整合性」は文章に書くことができる。内容が普遍性を持つから時々刻々変わらないからだ。
だから、標題の「書いたものが信じられる社会」の中で、その書いたものは市民権を得る可能性がある、と言える。
- 結果
「書いたものが信じられる社会」とは、書いたものが「空気」によって書かれたか、「論理的整合性」によって書かれたか、
で別れてくる。前者は「書いたものが信じられない社会」になるし、後者は「書いたものが信じられる社会」になるだろう。
(この段追記:2015/07/26)
結果としてこの意思決定方法を異にする二つの社会は共存することになる。だが、その共存は長続きしないだろう。
その先行きとして次の二つのストーリーが考えられる。
- 一つは、絶滅のストーリーだ。
かつて、3万年前、ネアンデルタールがホモ・サピエンスとの競争に敗れ絶滅に至ったように、
前者は静かな絶滅の道をたどるだろう。
理由はコミュニケーション能力の差だ。両者を比べた場合、ホモ・サピエンスの声帯がネアンデルタールのそれに比し、
圧倒的に大きかったのだ。ホモ・サピエンスはその所為で明瞭な言葉を発することが出来た。
一方、ネアンデルタールの声帯は小さく仲間内の情報交換が不十分だったのだ。
結果は、集団で捕まえる獲物の減少につながり次第に滅亡への道を進んでいった。
今回も、書いたものという道具の性能差が、コミュニケーション能力の差となって、
ネアンデルタール人的静かな絶滅の道をたどる可能性がある。
何故なら、昔も今も、ものを言うのは集団としての力だからだ。
その集団力の必要条件は、集団を集団たらしめるコミュニケーション能力であるからして、その能力差は致命的だろう。
このように考えると、「書いたものが信じられる社会」を作らないといけないことになる。
- もう一つは、同化のストーリーだ。
前に、「人の一日は、三分の一が実業、三分の一が休息、残りの三分の一が睡眠だ。」と書いたが、
確かに、コミュニケーション能力に於いて劣勢に立つのは「休息」の部分だろう。
「実業」では両者の差は無いと思われるからだ。
理由は、現在にあっても技術文書に於いてコミュニケーション能力の差はない、と言えると思う。
であれば、問題は、「休息」の部分だが、これは「言語表現の正確化」の意識教化で次第に薄まって行く可能性がある。
従って、結果として次第に同化していくことになる。
(この段追記:2015/08/11)
- 事例
今朝の毎日新聞の書評欄で、面白い記事を発見した。
本の題名は、「学力」の経済学(著者:中室牧子)。
その中から、以下の箇所を抜粋した。
日本の教育政策の特徴は、多くの人が自分の経験に基づいて発言し、それが時には実際の教育政策に影響を与えてしまうことだ。
しかも、教育政策の変更は全国民に対して一斉に行われる。これに対し、米国では、2002年に「教育科学改革法」が制定され、
「自治体や教育委員会が国の予算をつけてもらうためには、自分たちの教育政策にどのくらいの効果があるのかという科学的根拠」
を示す義務がある。教育における科学的根拠の中で、最も信頼されているのが、実験対象者を二つのグループに無作為にわけて、
片方のグループにだけ介入を行い、別のグループは「対照群」として両者を比較するランダム化比較試験だ。本書には、
この手法を用いた研究成果が数多く紹介されている。例えば、「頭がいいのね」と能力をほめるのと、
「よく頑張ったわね」と努力をほめるのとでは、後者の効果が大いという実験結果があるそうだ。
この記事の標題は、「科学的根拠に基づいた教育政策を」である。
この記事で小生が面白いと思ったのは、次の点。
教育政策を決める手法として、日本では、「多くの人が自分の経験に基づいて発言し、
それを教育政策に活かす」という方法が採られるが、米国では実験という方法を採るという点だ。
日本式では、個人という如何わしいものの意見が入り込む可能性があるし、根拠に普遍性の証明がない。
一方の米国式は、実験という科学的証明がつく。
別な言葉で言えば、前者には空気が影響する可能性があると言える反面、後者は論理的だ。
この事例、「空気」から「論理的整合性」へ移行すべきであることを示すのに役立つのではないかと思って追記した。
(この段追記:2015/07/26)
- 意思決定方法の相違の原因および今後の方向性
「空気」と「論理的整合性」という二つの相い違る意思決定方法があるが、どうしてこのような違いが生じたのだろう。
その原因を考えてみたい。
今まで誰もこんなこと考えてことないと思うが、少し考えてみよう。閑だしそれに面白そうだから。
私は、出発点は一神教を発想しそれを発展させた民族の思考法が「論理的整合性」による決定社会を生んだと思う。
何故なら、一神教を押し通すには多神教を排除する説得力のある思考法が必要不可欠だったからだ。
多神教は説得力は要らない。認めればいいのだから。言わば妥協の産物だ。
でも、一神教はそうは行かない。夫々が主張する神々をなぎ倒す力が必要だから。
その力とは、多分演繹的思考法だろう。
最初の出発点は、ある神を信じた一人の人間が発した演繹的思考だろう。
或いはその逆かも知れないが。
それが他者への唯一神の布教という形で他者に伝わり、終には民族集団へと広がった。
結果としてその民族は唯一神の信者となり、演繹的思考法を習性とするようになったと思われる。
この「ある神を信じた一人の人間が発した演繹的思考」で言うところの一人の人間とは、
誰かは不明だ。でも、世界で一番影響を与えた人物ということは間違いない。
本人も想定外だろうが、イエス・キリストも含めてダントツで一番だと思う。
何故なら、西欧文明の起源となった発想法、即ち「超自然的原理」
(人間は普遍的で客観的に妥当する認識ができることを保証した哲学原理)を発明したのだから。
その発想法は、おそらくユダヤ人思想家からプラトンに伝わり、或いは直接プラトン自身の発明かも知れないが、
プラトンからアリストテレスを経てヨーロッパへと伝わったものと思われる。(この段、木田元著「反哲学入門」を参考にした)
一方の多神教は、思考法に関しては本々からあった自然的思考の枠内に留まった。
別の表現をすれば、多神教は思考法に関しては根本的な影響を与えなかった、と言うことである。
結果、妥協の産物である多神教は「空気社会」に溶け込み、
一神教と裏腹の演繹的思考法は「論理的整合性社会」を産んだ、となる。
それって合ってるよね。我々日本人は八百万の神を信じる多神教信者。従って「空気社会」が相当となる。
一方の欧米人は、キリスト教という一神教の信者が多数だ。従って「論理的整合性社会」が相当となる。
まとめて言えば、次のようになる。
一般に、一神教は「論理的整合性社会」を産み、多神教は「空気社会」に溶け込んだ。
となる。
でも、考えてみれば当然の帰結だろう。
何故なら、「超自然的原理」を発明しなければ、
世界は本々あった自然的思考が生み出した空気社会で満たされていたはず。
そこへ、偶然にも新たな原理による社会が加わったと考えればよい。
では、「超自然的原理」の発明は悪であったかと言うとそうでもない。
何故なら、「論理的整合性社会」を産み出し、現代の知的文明社会をもたらしたのだから。
若し、この発明がなかったら、おそらく、世界は未だ近代化以前のまま停滞していただろう。
停滞を破ったのは「空気」ではなく、「論理的整合性」の追求だった。だから、
「論理的整合性」指向の方向で間違いないと思う。
(この段追記:2015/08/11)
コメントはこちらへメールして下さい。その際、文中冒頭に「HPコメント」と記して下さい。
Email
<コメント欄> 当欄は上記のメールをコメントとして掲示するものです。
HPのコメントー副島
Sigeru SOEJIMA
石井様。何時も佐高八期会のHPを新鮮な話題で賑わしてくれて有難うございます。「安保法案」も拝読しました。
貴兄の日頃の読書の様子が伺えて敬服の至りです。特に山本七平の著書「空気の研究」も詳しく読んでおられて
感心しました。実は私も山本七平の著書はこの他に『「常識」の「非常識」』や『帝王学』、いずれも日本経済新聞出版、
を持っています。もう一つは私の恩師で仲人もして頂いた東大教授の息子で、現在アメリカ在住の冷泉雅彦(本名前田文夫)
の著書『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書1844)です。著者の冷泉氏も山本七平の『空気の研究』を
読んでいます。いずれもなかなか読み応えのある内容です。貴兄の文章を拝読してこの際、もしまだ読んでいないようでしたら
是非読まれたら如何がかと思い、ご紹介させて頂きました。これからも宜しく。副島 はくぃ。
(2015/08/02 19:13)