徳永博くんの描いた

『神野の御茶屋の隔林亭』について

三井所清典
徳永君が神野公園に行ったのは月曜日だったのでしょう。
池に突出した八帖の板の間の廻りに雨戸がしまっているのは休みの日だけで、通常は火曜日から日曜日まで誰でも中に入れます。雨戸が開けられ、板の間が透けて見える時だったら更にいい絵になったと思われます。少し残念でした。
佐賀市が管理していて、2人の女性が朝、庭の掃除をして、控えめの接待をしてくれます。
その板の間に座って直正公がうるさい年寄りのいないところで若い佐野常民に反射炉や蒸気機関を作る指示をしたとか、大隈重信に長崎に英語を学びに行く指示を出したとか、江藤新平に藩の新しい規則を考える指示をしたなどと想像をたくましくしていると何とも楽しい気分になります。 おまけに安い料金で御抹茶を頂けます。佐賀の静かなおもてなしの空間です。是非一度おとずれてみて下さい。
実は『隔林亭』の復元に深く関わりましたので、少し紹介します。
弘化3年(1846年)古川松根*の構想で神野の御茶屋ができました。 明治の初め中之島の東屋が家老の近藤さん(?)に下賜され、その屋敷が佐賀高等女学校になってからは、建物は茶道部が使っていたようです。 終戦後まで残っていたようですが、いつのまにかなくなっています。 佐高1年の東校舎時代にはすでにありませんでした。
佐賀市文化協会の依頼で復元のための調査を担当しました。初めは古川松根の絵図面だけが頼りでしたが、江戸期のものと思われる北東の御殿側から撮った写真が1枚発見され、復元の現実味がにわかに高まりました。
それでも6年の歳月を要して完成しました。
西側と南側は分かりませんので、半年ほど時間をかけて、新聞とテレビも使い、鍋島家や家老職の末裔の人々にもお願いして写真を探しましたが、新しい写真は出てきませんでした。
調査の後、設計の依頼をされました。従って西側と南側は創作せざるを得なくなりました。
また、どうしてもお茶会をしたいという佐賀市の要望もあり、3帖台目のお茶室と水屋を付加し、更に玄関とトイレも付け足すことになりました。 発見された写真の印象を極力壊さないように配慮して設計しました。
江戸の藩邸で直正公より1年前に生まれ、生涯近侍として殿様に仕えた古川松根は、江戸と京都での武家と公家の最高の世界を知り尽くしている洗練された人であり、その人の指揮でできているのが『神野の御茶屋』と思うと姿勢をただしても正しきれません。いろんな人の力をお借 りして佐賀市のためにに最高のモノを実現しようと努めました。
大工は数寄屋大工の棟梁で宮地さんという今は佐賀市になっている兵庫の人です。佐賀県立博物館の南の堀端の茶室の工事をした人です。今は亡くなっていますが、弟子の井手棟梁に技術が引き継がれています。 柱など主要な材は京都の北山に行って買い求めました。
神野公園自体が開放されすぎていて、やや荒れた感じがするのは残念です。何時の日か行き届いた整備のされることを期待してやみません。
(ここより追記 2014/3/30)
徳永さんのスケッチから神野公園の池の管理について気がついたことがあります。
『心字池』と言われるこの回遊庭園の池は作法に則って作られていると考えられます。
池の西側に狭い堤が作られており、この堤は中国の西湖の堤に倣ったものと思われます。現在はしっかりとして、 人も安心して歩けるようになっています。原形がどうだったか今は分かりませんが、 東京の水道橋の旧水戸藩の庭園『後楽園』は池の西側に西湖に倣った堤が原形をとどめています。 古川松根は当然作庭のルールは知っていたでしょうし、水戸藩と鍋島藩は親しい関係でもあり、 後楽園を実際にみていたと思われ、少なくとも知っていたと思います。
神野の御茶屋の堤の西側の水路は多布施川から心字池に水を引く導水路の役目を果たしています。 御殿の西にある藤棚の近くで取水して、御殿南の赤松の庭にそって細い水路を造り、 池の東北東から池に注いでいます。この細い水路は『曲水』と呼ばれていたようです。 風流な演出の仕掛けで、眺めや遊びに使われていたのでしょう。いまは松の木が大きくなってその陰となり、 この『曲水』に気づく人も少ないと思われます。
問題は池の水量の管理ことです。徳永さんのスケッチで隔林亭の張り出し床の下は砂利が露出しています。 床の下まで池の水面が広がっていたら、一層庭園と池の趣きのいい絵になっていたことでしょう。
1年の内一時期水量が少なくなって砂利が露出する時期があるようです。
この時期も多布施川の水量はありますので、池に水を溜め置く調整は可能と思われます。 多布施川から導水路への堰と曲水への取水口の堰と池の排水口の堰の調整の技術の問題です。
佐賀市役所に以前頼んだことがありますが、いずれ検討して下さると思います。
ついでのことですが、池に張出して建築をつくる上で2つの難問がありました。
1つは台風です。佐賀に60m/秒の台風がきて瓦が沢山飛んだ時がありましたが、 軽い隔林亭が吹き飛ばされないように配慮すること。
2つは不特定多数の人が利用する公共建築の手摺は安全のため110cm以上でなくてはならないというルールです。
1は池の底に基礎を作りコンクリートの柱を建てテーブルのような人工地盤を造り木造の床を緊結するようにしました。
2はもともと1尺くらいの手摺だったところにまさか110cmの手摺はつけられません。 文化財級の復元であることと人が落ちそうな範囲の池の底を水面下10cmまで浅くして、 溺れにくくする提案をして実現にこぎ着けました。
徳永さんのスケッチの砂利露出にはそういう背景がありました。
常時水量を確保することが一番いいのですが、もう少し砂利を取り除いて少ない水量のときも砂利が水面下になるようにした方が良いと思います。
もう一度佐賀市に頼んでみたいと思います。
(*)古川 松根(ふるかわ まつね)
学者・教育者:1813(文化10)〜1871(明治4)
藩主直正を陰で支えつづける
江戸桜田の邸に生まれる。幼い頃より鍋島直正の御相手をつとめ、直正の1歳年上で40年余りの間、 その側に仕えた。学問、和歌、書にも優れており、小倉百人一首を簡単に注釈した『嵯峨(さが)のしおり』など多くの作品がある。 直正の死去に際し、その葬儀をとりおこなったのち殉死した。 (「佐賀県立 佐賀城本丸歴史館」より引用 HP管理者)
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三井所清典君の『神野のお茶屋隔林亭』について、コメントします。
徳永 博
「小生のラフなスケッチについて、設計者の三井所君が詳細な解説をしてくださったことに、感謝します。 追記の中で、「隔林亭の張り出し床の下は砂利が露出している」ことまで見透かされて、 もし水面が砂利面を覆うような高さまであれば、まさに「水面に浮かんだ茶室」の風情が醸し出され、 京都宇治の平等院鳳凰堂や安芸の宮島の厳島神社社殿の佇まいが再現できたのにと、 少し残念な気持ちになりました。次に帰郷した時に、設計者の意図を汲んで水面が上がり、 茶室が浮いてるかどうか、見るのが楽しみです。 その時は、雨戸のない昼間に、再度スケッチを試みることにしましょう。」(2014/0403 0:55)